第6話 魔獣襲撃・上

 成人を迎えて、二度目の年が明けた。琥珀こはく藍玉あいぎょくも、風王都でかぞえで十七の歳を迎えたことになる。今は、弥生。手があけば、咲きはじめた桜を愛でに行く訓練生や使い手もチラホラいた。

 琥珀は伸びた漆黒の髪を首裏で結び、日々の鍛錬の成果か精悍せいかんな身体に鍛えられた。低かった背もぐんと伸びて、藍玉より大きくなった。太刀を握る手の皮は何度もめくれて肉刺まめが潰れて、硬く大きな剣士の手になったのが琥珀には嬉しく感じられていた。

 剣の師範である使い手つかいて三号七さんごうななは、最初から厳しい鍛錬を全員にした。その為、あまりの辛さに数カ月で耐え切れずに、村に帰った者達もいた。だがしかしそれは、珍しい事では無いらしい。使い手達は、去る者を引き止めはしない。戦士は命懸けの仕事だから、最初から諦める意志の弱いものは命を無駄にしてしまうからだ。

 朝、日が昇ると共に起床し、開けられた城門を越えて城下町を五十周。終われば道場に戻り腹筋と背筋を鍛える運動をそれぞれ百回、それが終わればようやく朝餉あさげになる。飯も朝から肉や魚や野菜が盛り沢山用意されていて、残すことは許されない。食べなくなれば体力が落ちて、厳しい一日の鍛錬をこなせないからだ。僅かな休憩が終われば、木刀を手に道場の脇にある木や岩に打ち込みを千回。そして、各武器別の技を教えられて身に付くまで何度も練習する。ようやく昼になると体を休める為に一刻ほど仮眠を与えられる。起きれば剣士同士の対人戦の打ち込み練習が待っている。その中で必ず一度は三号七と打ち合うのだが、とにかく彼の繰り出す斧が重いのだ。琥珀は幾月のあいだに何度も太刀を折られ、そのたびに武器屋へ新たな一振りを頼まなければならず、そして忌々しい闇の紋章もまた、忘れられることなく新たに刀身へ刻まれるのだった。

「剣が折れるのは、俺の斧の力を分散して受け止められていないからだ」

 剣が折れる度にそう教えられた。確かに初めの頃は彼の斧を受け止めるのに必死で構える身体が無意識に引いてしまい、かかる衝撃が太刀の一点に集中したために砕けてしまうのだった。そのことに気づいてから怖さを耐え構えを前傾姿勢に変えて挑んでみると、ようやく刀身にヒビも入らずにあの巨大な斧を受け止める事が出来るようになった。それが終わると訓練の最後となる座禅をして意識を集中し、周囲に流れる気を感じるための瞑想をして終了となる。

 一日は大抵そんな流れだ。二年近くも繰り返しているが、未だに身体も精神も疲れる。よろよろとなった身体で湯浴みをして、夕餉ゆうげの卓に向かう。

「今日も、散々鍛えられたようだな」

 香ばしく焼かれたヤマメをかじる琥珀の卓に、同じく夕餉の盆を手にした藍玉が優しげに笑って立っていた。

 藍玉はさらさらとした瑠璃紺るりこん色の髪を伸ばして、顔つきは兄の蒼玉そうぎょくによく似てきた。藍玉の端正なその姿に、訓練生や王宮に使える兵士や使用人、果ては使い手たちも男女共にうっとりとした視線を送っていた。当の本人は知らぬ顔で、変わらず琥珀と共にいた。お陰で恨まれているんだが、とこぼす琥珀の悩みも笑顔で知らないふりをする藍玉だ。

「そっちはどうなんだ?」

 訊きながら、琥珀は自分の盆を引き寄せて卓の上を空けてやる。藍玉は持っていた盆を置き、琥珀の向かいに腰を落とした。

「そうだね、こちらは変わらず瞑想と座学が中心だよ。私は水だから、冬場でも相変わらず水辺での修行だから寒さに堪える」

 道場の裏手に、小さな人工の滝がある。時にはそれに身体を打たれ、傍で水の放つ活力を浴びて、水の加護を強くするのだ。呪術師の力は、琥珀の様な剣士系の体力とは違い精神力が大事になる。本来備わっている精神力を、更に増幅させることも修業になる。呪文の意味を理解し、詠唱を覚えるための座学が必然的に主流となっている。呪術師が道場に足を運ぶのは、大抵覚えた術を試す時だ。

「そう言えば、二年以内に一度帰れと親に言われていたが、どうするんだ?」

 菜の花の辛子味噌和えを口に運ぼうとした藍玉が、ふと箸を止めて琥珀に視線を向ける。

「そう言われてみれば、そうだったな」

 ヤマメを食べ終えて次に手羽先と大根の煮物の鉢を手にした琥珀は、瞬きをした。

 最初は訓練に必死で疲れて大抵寝ていたり、技を覚えれば嬉しくて次に次にとの繰り返しで、故郷である村の事を思い出す暇がなかった。

「俺はもっと技を覚えたいし、もう少し修行したいな。ようやく加護の術も教えて貰い始めたし」

 街道沿いで少しは賑やかな瞬湊しゅんそう村だが、琥珀は退屈な村に帰り母と父がいとなむ食堂で働く気にはならない。

憧れの大地の神の冒険譚ぼうけんたんのような、血沸き胸踊る旅がしたいのだ。

「琥珀がそうするなら、私もそうしよう。琥珀一人を残して帰っては、何かドジをしないか心配になる」

 シャキシャキと菜の花を食み何時ものように笑うと、次いで藍玉は意外な言葉を口にした。

「有難うございます、私の王子様。魔王から助けて下さり、父も喜んでいると思います。どうぞ私も旅にお連れください。これからは共に戦い、貴方の傷を癒やして差し上げましょう」

  突然の脈絡のない言葉に一瞬ぽかんとしたが、すぐに琥珀の脳裡に白童子しろわらしの頃の遊びがよみがえった。

「なんだよ、いきなり。懐かしいな」

 軽やかな口調で藍玉が呟いたのは、魔王に囚われていた姫が大地の男神に助けられたときに申し出る言葉だった。白童子の頃に遊んでいた、大地の神の冒険遊戯ゆうぎ。もう一人の幼馴染の翠玉すいぎょく扮する魔王を倒した大地の男神役の琥珀に、姫役の藍玉がよく言わされた台詞だ。

「村の話でふと思い出したから、ひさしぶりに言ってみたくなってね。それにほら、今の状況はそっくりそのままじゃないか?」

「ああ、そう言えば。藍玉は本当に呪術師になったから、実際に俺を回復してくれるようになったよな。なんか、未来を見ていたようだな」

 呪術師は最初に必ず回復を教えられる。回復があるのとないとでは、戦況せんきょうは随分変わる。修行が始まり傷だらけで帰ってきた琥珀を、毎晩藍玉は回復魔法で治してくれていた。呪術師の詰め所に行けば良いのだが、練習だからと藍玉は疲れていても必ず琥珀を回復させていた。琥珀にとって、藍玉は幼馴染であると共に、かけがえの無い相棒になっていた。

  そんな思いを巡らして、つかの間昔をしのびながら箸を進める琥珀であったが、向かいの席では藍玉がおもむろに箸を止めた。眉を僅かに寄せて、怪訝な顔つきになる。

「…」

「藍玉?どうかしたか?」

 いぶかしげな様子に気付いた琥珀も箸を止めて、その端正な顔を見つめた。

「…なあ、琥珀…不思議じゃないか?」

「へ?」

 藍玉の言葉の意味が分からず、琥珀は首を傾げた。


「…魔王、とは何だ?」


 藍玉は箸を置き、皺を寄せた額を指で支える。

「遊んでいたころはまったく気にも止めなかったけれど、さっき口にして初めて違和感を覚えた。琥珀、たしか闇の男神が創ったのは、魔物と魔獣だけだっただろう?」

「そうだけど…」

  話の流れの急な変化に戸惑い、問われるままに琥珀は答えた。藍玉はさらに問う。

「なら、魔王とは?神と対等に戦うほどの強い存在とは、いったい誰が創ったんだ?」

ようやく藍玉の言わんとする意味が理解出来た。神とは絶大な力を持ち、とうてい魔物や魔獣ごときが歯向って相手になれるようなものではない。なのに大地の神は冒険譚では、魔王という未知の存在と戦ったと伝えている ─── 自分たちはこれまで一度も『神と等しく戦える魔王』などという存在を、大地の男神の冒険潭以外ではほとんど耳にしたことがない。自分たちの知る神話や伝承では、魔王誕生の逸話をまったく聞き覚えがなかったはず…藍玉はそのことに気づき、指摘しているのだろう。

「俺達が知らないだけじゃないのか?それか、大地の男神の冒険譚の為だけの、ただの作りものじゃないのか?」

 二人は村での記憶を探り、他に聞かされた大地の神のお話や、冒険潭の絵巻物の内容を思い出してみる。これまでなんの疑問も浮かばなかった『魔王』── あらためて思い返すとそれは、二人のどの記憶にも具体的に表現されていて、『魔王』を架空の存在であると思うには違和感しか覚えなかった。

 もしかして現実に、この世界にいるかも知れないのか…?『神と等しく戦える魔王と呼ばれる存在』が。言葉にはせず、ほのかな危惧感きぐかんをつのらせて、琥珀と藍玉はしばらく見つめあった。

「…明日、師範達に聞いてみないか?俺達の記憶だけじゃ、解決しそうにないな」

 埒が明かない状況に、琥珀がため息とともに提言する。これ以上ここで考えても仕方がない。藍玉がその言葉に頷くと、二人はもう『魔王』のことはひとたび忘れることにして食事を再開した。

 最初は食事の量に苦しんでいた琥珀だったが、玄米をおかわりするほどまでに、ここでの生活に慣れてきたようだ。藍玉のように体力を使わない職種は食事の量は控えめだが、精神力の疲れを癒やすのに、必ず甘いものが付け加えられている。

「あ、あの!」

 ゆっくりと食事を終えた二人が、部屋に戻ろうと立ち上がって厨房に膳を返した時だ。不意に、背後から声をかけられた。揃って振り返ると、そこには一人の男がいた。確か、琥珀達より一年先に修行に来ていた人物だった気がする。梅重うめがさねの髪と瞳に、大きく鍛えられた体躯。笹の葉に乗せた草餅と桜餅を手にする指の爪には、守護師の紋章が浮かんでいる。これまで姿を見た事はあるが、話したことはまだ無かったはずだと琥珀はおぼろな記憶を辿る。

「すみません、俺は玉髄ぎょくずいって言います。良ければこれを」

 心なしか頬を赤くして、玉髄は手にした餅を真っ直ぐに藍玉へ差し出した。また、藍玉を女と勘違いした犠牲者だなと、琥珀は心なしか同情気味に彼を眺めた。しかし犬の様に藍玉の機嫌を伺うその体躯に似合わない可愛らしさに、思わず和んでしまう。

「私は藍玉と申します、有難く頂きますね」

 そんな気も知らない振りなのか、笑顔で藍玉はそれを受け取り彼に向かって軽く頭を下げた。

「では、おやすみなさい」

 頭を上げた藍玉は、すたすたと歩き出す。藍玉が笑顔で受け取ってくれた事に嬉しそうな玉髄は、手を振ってその姿を見送る。なんとも複雑な面持ちで、玉髄を残して藍玉の後に続くように琥珀は食堂を出て部屋へと歩き出した。




 次の日。朝日と共に起床した二人は歯磨きに次いで顔を洗い、訓練用の戦士袴に着替える。藍玉はまだ起きなくてもいい時間なのだが、琥珀に付き添って毎朝目を覚まして身支度をしている。

 そうして、草鞋ぞうりの紐を結びながら琥珀は藍玉に問う。

「昼の休息の時に聞こうか?」

 昨日話していた、魔王と表現される神に等しい謎の存在についてだ。

「藍玉の先生に聞こうか。だって、中級使い手の一号様だもんな」

 使い手は番号で管理されているが、適当に付けられている訳ではないと小耳にはさんだ。一号とは、神が最初に作り出した使い手達だ。その中で一と呼ばれる藍玉の師範は、風の神が最初に作り出した最も長く生きている使い手になる。最初に出会った時のあの力強い覇気の意味も、それを教わった今なら二人も理解出来た。

 使い手の寿命は、大半が千年程度と聞いた。一号一の詳しい年齢は聞いていないが、豊かな知識を持つ彼はそれにかなり近いのかもしれない。間違いなく手掛かりになるような話は聞けると、二人は少なからず興奮していた。

「分かった。休息になったら、座学室に来てくれ。あ、そうだ琥珀。手を出してくれないか?」

 立ち上がった琥珀は不思議そうな顔で歩み寄ると、藍玉に右手を差し出した。藍玉は枕元に置いていた包を開くと、中から革紐で結ばれた、手彫りの水の女神像を一つ取り出した。

「あ、寝る前に彫ってたやつか?てか、彫ってたのは随分前だよな?」

 訓練が終わり湯浴みと食事が終わると早々に寝てしまう琥珀の寝床の横で、藍玉は薄明りの中小刀を使い彫り物をしていた。彫り物自体は手先の器用な藍玉が早々に作り上げていたが、それから暫く経っていたので琥珀はすっかり忘れていた。

「なかなか上手く念が込められなくてね。四体作ったが、三体は念が合わずに割れてしまったんだ。一体だけになってしまったけれど、約束通り琥珀への贈り物だよ」

 掌に置かれたのは、風王都へ向かう道すがらに見つけた、紫雲木しうんぼくの枝を藍玉が切り、手に入れたもので作られた水の女神像だ。その時の記憶が鮮やかに琥珀の脳裏に蘇った。琥珀は忘れていた約束を、藍玉は忘れていなかった。そんな何気なさも、藍玉は昔と変わらない。

「有難うな!大事にする、嬉しいよ」

 革紐を掴んで首に通すと、丁度いい長さだ。

「そう言えば、これには何の念が込められてるんだ?」

「ふふ、内緒だ。でも、それを手にする為に私も沢山訓練を積んだ。だから、その女神は琥珀を護ってくれるよ。それより、こんなに話し込んで大丈夫なのか?」

 優しく笑う藍玉は、朝餉前の訓練に遅くなると琥珀を促す。慌てて藍玉に手を振り別れると、琥珀はいつものように、一日のはじまりの走り込みのため、城下町へ向かう内門へと急いだ。雨が降りそうにない爽やかな朝の空気を吸い込んで、琥珀の足は軽やかに駆け出した。

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