嫁迂の彼岸花

「それで、いいレポートは書けそうかい」

「ええ、おかげさまで」


 青年はとっさにそう返したが、内心辟易していた。民俗学の授業で個人研究のテーマを「嫁迂よめうの花魁伝説」に決め、はるばるフィールドワークにやってきたというのに、役場の資料は不自然なほどほとんどが最近のものであった。


 今回は青年が趣味でやっている都市伝説ブログとはわけが違って、眉唾な伝承・伝説を面白おかしく書くわけにもいかない。きちんとした文献がなければ評価は得られないというのに、花魁に関連した情報は大昔に遊郭があったということくらいしかない。そのほかレポートに書けそうな情報は土地の成り立ちや地名の由来くらいしかなかった。


 やはり噂は噂でしかないのだろうか。


「物足りなかったかい」


「あ、いえ、別に」


「君、本当は花魁伝説について調べたかったんだろう」


 思わぬ発言に「えっ」と情けない声が漏れる。バツの悪そうな青年を横目に、役場の男はぞんざいに資料を束ねながら「やっぱりそうか」と左の眉を持ち上げた。


「すみません。なんとなく聞きづらかったもので」


「まぁ実際僕が来る前はあの伝説のせいで随分と痛い目見たみたいだからね。当時を知ってる人が担当だったらあまりいい顔はしなかっただろうな」


「でも真面目な調査が目的なのは本当なんです」


「わかってるって」


 物わかりのいい人でよかった、と青年は心底ほっとした。


 嫁迂の西方には崖と川があるのだが、昔からそこは若者の投身自殺が多い場所だったという。時代の流れでそれも少なくなってきていたが、数年前に花魁伝説がテレビで紹介されたことをきっかけに、噂にそそのかされて身を投げに来る若者がしばらく後を絶たなかったらしい。


 噂――××県△△郡にある限界集落「嫁迂」。その土地ではとても美しい花魁姿の霊が現れ、そこで死んだ若い男の魂を連れ去っていく。連れていかれた魂は、あの世で花魁に囲まれながら遊び惚けるのだという。


 そういうわけで、独り身の冴えない若者が最終手段として嫁迂に来ては身を投げるのである。胡散臭い都市伝説ながらも、自殺者が多いことは確かであったために自分からこの話題を出すのは憚られたのであった。


「何か資料があれば見せてあげたかったんだけど、それに関するものもほとんどなくてね。上の人に聞いても、ないものはないって」


 男は申し訳なさそうに肩をすくめた。


「いえ、ありがとうございます」


「にしてもこんなところに遊郭だとか花魁だとか、不釣り合いだよねえ」


 ああそうだ、と前置きをして男は続けた。


「川を挟んだ向こう側に彼岸花の群生地があるのは見たかい? そこに出るんだとさ。真っ赤な着物を着た花魁が」


 青年は自分の口元が緩んでいくのを感じた。


「ただ絶対向こうに行っちゃいけないよ。まぁ橋がないから行こうにも行けないけど。あの場所は昔お社があったとかで禁足地とされてて、地元の人にとってはそれくらい神聖な場所なんだ」


 そういった話は小柴さんが詳しいから、と付け足し、役場の男は「小柴さん」に一本電話を入れ、丁寧に家までの道順を示した地図を用意してくれた。

 

 外に出ると空はいつのまにか橙色に染まり始めており、ヒグラシの合唱がお盆型の土地にこだましていた。


 嫁迂は崖のある西方以外残り三方を山に囲まれた閉鎖的な集落であり、役場は川と山の中間に位置していた。次なる目的地の小柴宅は村の東端に位置しているため、つまりは山に沿った斜面を上がる必要があった。


 汗を垂らしながら上る途中、小さな祠を見かけたので青年はそこで休憩することにした。小さい狐の像の前に五円玉を置き、何気なく下方の崖へと目を向ける。


 青年の位置からは見えないが、その崖の下を川が流れている。役場で見た記録では最もひどい時期で三ヶ月に一人がそこに身を投げていた。それでも柵はおろかロープすらも引かれていないことに気づき、青年はここの自治体の杜撰さをみた。


 言ってしまえばただの一自殺スポットでしかないのだが、川の流れが激しくかつ水位が深いために遺体の回収ができないという、その要素が都市伝説としての色を強めていた。


 加えて向こう岸に目をやれば、例の彼岸花である。それは青年の位置からでもよく見えた。不自然にぽっかりと木々がひらけた空間があり、そこだけが紅色に染まっている。彼岸とはあの世のことであるが、まさしくそこはこの世とは違う場所のように見えた。


 そんなことを感じながらぼんやりと眺めていたが、ついに青年は気づく。


「なんだあれ……?」


 天気は晴れ。しかしどういうことか、よく見れば向こう岸では雨が降っているではないか。それだけではない。禁足地のはず、いや、そもそも橋がないはず。だがしかし、青年の目は彼岸花の紅の中に混じるもう一つの紅、一張りの和傘をとらえた。誰かがいる。


 興奮で心臓が高まるのを感じながら青年は目を凝らした。その和傘は動きこそしないが、明らかに何者かが手に持っている。実際に誰かがそこにいるだけかもしれないが、それが異様な状況であることに変わりない。雨の中、彼岸花の中、渡れるはずのない向こうに誰かがいる。


「あ」


 ゆっくりと、ゆっくりとだが、傘が傾きだした。傘の持ち主が少しずつ露わになっていく。近い距離ではないためはっきりとは見えないものの、ちらりと見え始めた足元が着物の裾であるのは確認できた。鼓動が早まる。


 映画館のカーテンが開いていくときのような心持で、息をするのも忘れ、じっと見ていた。


 民俗学の研究などという口実はもうどうでもよかった。今、ついに伝説の目撃者となるのだ! その興奮が――恐怖に変わった。


 和傘をさしていたのは着物姿の女性らしき人物であった。それと、目が合った。気がした。遠くて確認はできないが、その存在はこちらを見ている。こちらの存在に気付いている。まさか、と否定しかけた青年をあざ笑うように、ゆっくりとそれは手招きをしていた。


 触れてはいけない何かの一端であると直感し、恐怖、抑えようもなく全身から震えがあふれ出す。青年は逃げるように山を駆けのぼった。


 小柴宅は周りの民家よりも一回り古い外観をしていた。青年は冷静さを失い、大きめに作られた玄関を乱暴に叩く。しばらくすると、右足を引きながら白髪の老人が出てきた。


「なんしよん。戸がめげるわ」


 訝しげな視線を向けながらも、老人――小柴は青年を家にあげた。


「すみません、ちょっと、変なものを見て」


「詳しゅう話せ」


 玄関を上がり客間に向かう途中、青年は今見たものを詳細に伝えた。客間に案内される頃には青年自身の中でも整理が付き、一旦の落ち着きを取り戻した。


「やっぱり、嫁迂の花魁伝説は本当だったんですね」


 しばしの沈黙。一呼吸おいてから小柴は口を開いた。


「なんともないんか」


「え?」


「あれをどう思う」


「どうって」


「どうも思わないか」


「えっと、怖かったです」


 それを聞くと小柴はおもむろに席を立ち、傘を持ってきた。


にひかれる前に帰れ」


「向こう?」


 小柴は青年の返答を一切聞かず傘を差しだした。


「まだ間に合う。これ差してけ」


「えっでも」


「いいか、絶対にむこうの方を見んな。あれは花魁なんてもんじゃねえ」


 小柴の圧に何も言えず、差しだされた傘を受け取る。


 青年はそのまま追い出されるような形で家をでてしまい、結局のところ嫁迂の花魁伝説について何も情報を得られなかった。


 怪しい着物の女性を見たといっても誰も信じてはくれないだろうし、ブログのネタにはなってもレポートには使えない。


 もらった傘を日傘にしてとぼとぼと山を下りながら、青年は嫁迂というこの土地について黙考していた。


 昔は向こう岸まで橋が架けられており、そこも含めてここらは一つの大きな集落であった。あるとき崖より西の地帯で大規模な山火事が発生し、そちらは壊滅してしまったという。残った東側がのちに嫁迂と呼ばれるようになり今のこの集落になったのであるが、その嫁迂という名前の由来は諸説あり確かな情報はない。


 記録ではその焼失した西側に遊郭があったことが確認できた。花魁姿の霊はおそらくそれが関係しているのだろう。焼け死んだ花魁たちの魂が死してなお仕事を全うし、この土地に縛られているのではないか。


 しかし小柴の言葉が引っかかる。花魁ではない……? では何者?


 青年はピースの足りないパズルを組むような気持ち悪さを感じていた。


 おそらくこの土地には何かがある。しかしきっとそれは触れてはいけない何かなのだろう。


 青年は新しい研究テーマをどうするか考えながら下りて行った。


 しばらく歩いていると、突然何かが傘を叩いた。雨である。しかし西日は強く足元を照らしている。次第に大きくなる雨音に困惑しながら、青年はその雑音に包み込まれていった。


 異様な事態。さらに気が付けばいつの間にか崖近くまで来ているではないか。状況を整理する間もなく、冷たい声が青年を呼んだ。


――こっち来い。


 青年は反射的に顔を上げてしまった。ああ、見てしまった。


 瞬間、彼岸花畑の中に佇む女と目が合う。透き通るように白い顔が紅い世界にぼんやりと浮かんでいた。細く切れ長の目、すんとすました鼻、血の如く輝く唇、燃える炎にも似た煌びやかな着物、それらは――この世の何よりも美しかった。


――こっち来い。


 雨と心音が恐ろしく大きく聞こえたが、その声は雑踏をかき分けるようにただ一筋に青年へと届く。


 土砂降りの雨の中、向こう岸の景色がぐらりと揺らぐ。木々がうねるように身を揺らし、夕日と雨でぼんやりと輝きながら、それらはやがて街並みを写し始めた。


 京都の祇園を彷彿とさせる和の町。石畳にそって様々な店が立ち並び、提灯が灯されている。そんな町の中で花魁姿の女はまた手招きを始める。


 一歩ずつ、青年はむこうに向けて歩を進めた。もはや抗う意思などはない。彼女こそが心から愛したその人であると、青年は確信をもって近づいて行った。二人であの町で暮らそう。むこうで共に過ごそう。


 きっと今までの若者もこうして死んでいったのだろうか。目の前の崖を気にも留めず、むこうを目指して進んでいく。“こい”に落ちるとはまさにこのことか。


 青年はゆっくりと最後の一歩を踏み出した。が、突如強引に後ろへ引き倒され尻もちをつく。はっとして顔を上げるとそこには役場の男性がいた。


「何やってんの! 君、死ぬつもりはなかったんじゃないの」


 状況が掴めず混乱していたが、目の前の崖をみて遅れて現実を理解していく。


 死。


 自分は今死んでいた。


「さっき小柴さんから電話があったんだよ。君が崖の方に落ちないか見に行ってくれって。いや危なかったね……」


 男の話を聞き流しながら青年は向こう岸に視線を向けた。そこにはただ彼岸花が風で揺れるだけだった。


 雨もいつの間にか止んでいる。今見ていたものは果たして本当に現実だったのだろうか。震える身体だけがその体験を証明していた。


 その後、青年は役場の車でふもとの町までおろしてもらった。それからは何事もなく地元に帰り、普段通りの日常を送っていた。




 ――数か月たち、大学の春休みを利用して青年は再び嫁迂の地を訪れた。命の恩人である二人に改めて礼を言うためである。


 だがしかし、嫁迂にはもう二人の姿はなかった。


 青年は二人の行方が気がかりであったが、何より心配するべきことは――いま、自身が、嫁迂から無事に帰れるかどうかである。


 青年はそれに気づいていない。

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