僕が私で私が僕で

 僕には「博士」というあだ名の友人がいた。知り合ったのは小学五年生のときで、なんでも知っているガリ勉くんだったから、誰が呼んだか気が付けば彼は「博士」であった。さてそこまではおそらくごくありふれた話であって、おそらく全国の小学校に一人はいた普遍的な「博士」なのであろうが、僕のところの「博士」は一味違う。なにせ本当に博士になっているのだから。

 脳科学の研究で博士号を取った彼は今なお大学に残り研究を続けている。研究者としての人生を選ぶほどの風変わりな人間であるから、――こんなことをいうと怒られてしまいそうだが――友人の数は極めて少なく、博士にとって僕は唯一無二の親友であるという。僕にとって彼は指折り数えられるほどの親友のうちの一人にすぎないのだが、この際そちらはどうでもよい。少なくとも博士にはほかに頼める相手がおらず、この危険極まりない実験に僕を呼ぶしかなかったのだ。意識入れ替わりの大実験に。

「きっと成功するだろう。そのとき、誰かが私の身体を気に入ってそのまま逃げ出してしまうかもしれない」

「その禿げ頭をかい? 一瞬たりともそうなることが僕には屈辱だよ」

「だから君に頼むんじゃないか」

「逆に聞くが、博士、君が僕の身体を気に入って実験を中断してしまう可能性は?」

「ダイエットはしたくないんでね」

「だろうな。だから僕は頼まれてやったのさ」

 ひとしきり二人でけらけらと笑うと、博士は早速準備に取り掛かった。数字か英語かもよくわからない羅列を、これまた冷蔵庫か電子レンジかもよくわからない装置に打ち込む。装置の両端からみょんと伸びた螺旋のコードは、電極がむき出しになったヘッドバンドにそれぞれつながっていた。

「聞いても無駄だとは思うが、今回の実験内容について少しばかり教えてくれないか」

 話しても無駄だとは思うがね、と前置きをして博士は解説をしてくれた。数分ばかし語ってくれたが、僕が聞き取れたのは最後の「つまり脳は乗り物にすぎず、意識というパイロットがそこに搭乗しているわけだ。そのパイロットをお互いに交換するのさ」だけだった。

「なるほどね。わかりやすい説明をありがとう」

 そう言ってバンドを装着する。博士は肩をすくめると同様にバンドを装着し、装置のスイッチに指を置いた。

「それでは、実験開始だ」

博士がスイッチを押すと同時に、ブーン、という唸るような重低音が響き、のち、一瞬視界が白くフラッシュに包まれた。


 縦に回転する重力にもまれながら、なんとか地に踏みとどまった。徐々に視界の霧は晴れ、先ほどと変わらぬ実験室の光景が浮かび上がる。否、変わったところはあった。彼がそのずんぐりとよく肥えた肉体でひっくり返っている。どうやら目をまわしてそのまま転倒したらしい。いや、そんなことはどうでもいい。

「うーむ。君がそこにいるということは、私は私のままだということだな」

 机の上にあらかじめ用意していた手鏡を拾う。当然、そこには毎朝見飽きた禿げ頭がそこにはあった。私だ。

「ああ、僕には鏡を見なくても分かるよ。こんなに起きあがりづらい体は紛れもなく僕のものだ」

 どっこいしょとでも言うように彼はおもむろに立ち上がった。

 おかしい。私の理論は完璧であったはず。しかしなぜ失敗したのであろうか。

「君、目をまわしていたということは、君も一度視界が白んだかい?」

「そうだね。バチンと音がしたかしないか、突然視界が真っ白になって――」

 装置をみると、緑色の『success』の文字。実験自体は成功したのか? しかし私は私のままだ。これは何を意味する? 脳をフル回転させて原因を探る。――と、ごく自然な解答が突如浮かんだ。

「海馬だ!」

 アルキメデスもきっと同じ心持で「Eureka!」と叫んだのであろう。「かいばぁ?」と間抜けな面で首をかしげる彼に解説することにした。おっと、今度はわかりやすく噛み砕いて説明しよう。

「海馬というのはつまり記憶の貯蔵庫さ。側頭葉の深部に、左右対称に存在している。Seahorse《タツノオトシゴ》の形に似ているからそう呼ばれているのだが――乗り物内に転がっている日記だと解釈してくれ」

「そのタツノオトシゴの日記がどうしたって?」

「要するに我々は記憶喪失のパイロットを交換してしまったわけさ。全てを失ったパイロットは新しい乗り物にやってきて、そこにある記憶の日記を読む。するとどうだろう。『ああそうだったそうだった! 私は私だったのだ!』」

「すまないがもう少しわかりやすい説明にしてくれないか」

 この男は本当にだめだな。彼のアンコールは無視して実験の仕切り直しといこう。

「今度は海馬の内容も一緒に交換しよう。そうすれば今度こそ入れ替わりに成功するはずだ」

 装置に必要なプログラムコードを打ち込むと、さっさとバンドを装着しスイッチを押した。再びフラッシュが視界を飛ばす。


 ゴドンと鈍い音が響き頭が痛む。どうやら目をまわしてバランスを崩し、床に頭を打ったらしい。――と、いうことは?

 床に手をついた腕は焼き立てのクリームパンみたいにもちもちと膨れ上がっている。これは彼の肉体だ!

「実験は成功だ!」

 起き上がって振り返ると、そこには私の姿があった。少しふらふらとしながら「私」は口を開いた。

「ああ、本当に驚いた。僕がそこにいる」

 私は喜びのあまり飛び跳ねそうになったが、階下に迷惑をかけたくはなかったので静かにガッツポーズをした。そんな私を彼は満足そうに見ている。

「君が嬉しそうで何よりだ。頼まれて手伝った甲斐があったよ」

「ああ本当にありがとう。もうこれで十分だ」

 若い女にでもなれたのなら話は別だが、私は入れ替わり自体にさほど興味はない。私の理論が正しかったことが示せればそれで充分であった。――私の理論……?

 再び意識を元に戻そうと装置に向かったが、手がとまる。

「どうしたんだい? まさか僕の身体が気に入ったなんて言うんじゃないだろうね」

「いや違うんだ。ああ、まいった。知識としてはきちんとここにあるんだがね、ああ困った」

「何が困ったのさ」

「どうやら、君の脳みそだと私の理論は理解できないらしい」

 装置になんと打ち込んだらいいのかわからないまま、二人で呆然と『success』の文字を見つめていた。

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