潮風に手を振って
父から借りた鍵を使って部屋の扉を開ける。瞬間、ほこりとカビの混じった粉っぽいにおいが鼻をくすぐった。急いで部屋の奥に行き窓を開ける。風が舞い込んだ。ほんのりとべたつく潮の香りが鼻腔を洗浄する。いつ来てもここの風は変わらない。
千葉県富津市金谷。かつて祖父母の暮らしていた土地である。小学生のころ、夏休みは毎年ここに来ていた。ここでは朝の陽に起こされ、その陽が沈むまで海で遊び山で遊び、東京に帰るころにはすっかり小麦の肌となったものだ。
ベランダにでて海を見ると、ちょうど久里浜から来たフェリーがやってくる頃だった。ああ、ここから見るとこんなに小さいのか。甲板にいるゴマ粒ほどの家族を見て、かつて自分がそこにいたことを思い出す。
普段はアクアラインを経由し車で二時間ほどかけてやってくるのだが、たった一度だけフェリーを使ったことがあった。その日のことはよく覚えている。
毎年金谷は楽しみにしていた。その年も例外ではない。いつもより早起きをして我一番と車に飛び乗った。「今日はフェリーで行く」父がそう言ったが、当時それが何なのかはわかっていなかった。しかしなんとなく知らないままでいようと、あえて「フェリー」については聞こうとしなかった。自分の目でその存在を知りたかった。
「フェリー」の正体を理解したのは出発して二時間ほどしたあたりだったか、横須賀まで来たときのはずだ。港が見えた瞬間、「船で行くの」と声を上げ、「なんだ知らなかったのか」と父が笑った。
そこからはすべてが初めてだった。車で乗れる船があるのか、船の中はこうなっているのか、船はこれくらい揺れるのか。すべてが新しく面白く、一つ一つ目に映るものを丁寧に記憶していった。
しばらくしてから家族で甲板に上がった。いつのまにか向こう岸の金谷はもうすぐそこまで来ていて、船ってはやいんだとまた新たに知った。
父が指さす。その先に祖父母の家が見えた。「おじいちゃんとおばあちゃんいるから手を振りな」遠くているのかいないのかもよくわからないまま、「今から行くよ!」と大きく手を振った。あの時、祖父母には私が見えていたのだろうか。
私は通り過ぎるフェリーに向けて大きく手を振る。
「見えてなかっただろうな」
そうつぶやき、笑った。
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