大陸暦1517年――出会い3
こちらへと近づいてくる母を見たオグは慌てて道をあけると、申し訳なさそうな表情で頭を下げた。彼は私が勉強の途中で抜け出してきていることなど知らなかったのだ。
母は軽く手を挙げると「頭を上げて」とオグに言った。おずおずと頭を上げた彼に母は微笑みかけると、今度はこちらへと向き直った。その表情は先ほどまでの微笑みなど存在しなかったかのように、険しい。原因は私だと、母はお見通しなのだ。
母は腰に手を当てると、いかにも怒ってますよ、と言う風に口を真一文字に結んだ。
今見ると微笑ましく感じてしまう母の仕草も、不思議なもので、当時の自分には、絵本に描かれた人を襲う化物、
「さて、今日はどうして抜け出したのかしら?」
母は何度目か分からない問いかけを、私に投げかけてきた。
遊んでいるところを見られているので理由は明白のはずなのだけれど、それでも必ず子供の言い分を聞いてくれるのが母という人だった。
私は恐ろしい母から逃れるように俯くと、ぽつりと零すように言った。
「休憩、だもん」
それは嘘ではなかった。
家庭教師にも休憩すると言って出てきたし、オグにもそう伝えて相手をしてもらっていたから。
「疲れたの?」
頭上に投げかけられた母の声音は、先ほどよりかは幾分か柔らかい。私は「うん」と答える。これも嘘ではない。興味のない内容を聞き続けることほど、頭が疲れることはないのだ。すると母は「そうなの」と一言だけ言うと、押し黙ってしまった。
普段だと母の口から次々と雷が落ちる場面なだけに、幼い私は内心ほくそ笑んだ。今日は怒られずに済むかも、なんて考えながら。
けど、そう上手く行かないのが世の常だということを、幼い私はまだ知らなかった。
「でも」母が不思議そうに口を開いた。「身体を動かしたら、余計に疲れないかしら?」
「大丈夫」私は顔を上げる。「遊ぶのは疲れないよ」
みるみると険しくなる母の顔を見て、私は失言してしまったことに気づいたが、時すでに遅しだ。
「セードーナー」母の雷が落ちる。「遊ぶのは勉強が終わってからと、いつも言っているわよねー?」
「でもでも」
私はまたもや俯いてしまうと、人差しゆび同士をいじりながら口ごもった。
嘘でも何でも言い訳をしたいのに、それが出来ないもどかしさを幼い私は感じている。
私にはどうしても嘘がつけない理由があった。
それは嘘が嫌いだからとか、嘘は駄目だと教えられているとか、そういう安易な理由ではない。
嘘をつくと体調が悪くなる、という理由だ。
嘘みたいな話だと自分でも思う。でも本当なのだから仕方がない。
私が初めて嘘で体調が悪くなったのは、四歳のときだった。
遊んでいるときに花瓶を割ってしまった私は、問い詰められ思わず自分ではないと初めて嘘を口にした。すると途端に息苦しくなりその場に倒れこむと、それから二日間、高熱で寝込むこととなった。
家族は風邪も引いたことがなかった私の突然の体調不良に驚きはしたけれど、かかりつけの治療士に『子供にはよくあることです』と診断されたのもあり、必要以上に心配することはなかった。
でも同じことが何度か続くと流石に見過ごせなくなったのか、あるとき私を治療院へと連れて行った。そこはいつものかかりつけの治療士がいる治療院ではなく、帝都の治療学の権威が集まるとされる帝都一の治療院だった。
私は問診を受けたのち、検査入院をさせられることになった。
検査の間、私はほとんどベッドに拘束されていた。文字通り拘束具がつけられていたわけではないけれど、検査中に動くことが許されない状況は拘束具がついているのと何ら変わりはなかった。
そうして数日間、不自由を強いられてやっと出た検査結果は『問題なし』という非常に端的なものだった。
つまり、大層な検査によって明らかになったのは私が健康体だということだけで、体調不良の原因は何一つ分からなかったのだ。
それでも帝都一の治療院で健康とお墨付きを貰えたことが安心に繋がったのだろう、家族はそれ以上、原因について調べようとすることはなかった。かかりつけの治療士が診断した内容を信じることにしたのだ。
それからも相も変わらず、原因不明の体調不良は続いた。
そして何度目かの体調不良から快復したある日、私はようやく思い至った。
体調が悪くなるのは決まって自分が嘘をついたときだ、と。
大人だったらそんな馬鹿な、と一蹴するような考えだったけれど、疑うことを知らない子供は、そうに違いないと信じてやまなかった。だから確認のために初めて意図的に嘘をついてみた。
そして、結果はもう言うまでもない。
私はこのことを家族に話さなかった。
家族が知れば私を治療するために動くだろうし、そのためにとりあえず連れて行かれる場所といえば治療院しかない。
私はそれが嫌だった。
以前は母が心配するので渋々我慢したけれど、じっと大人しく検査を受けるなど、元気盛りの子供には何よりも苦痛な時間なのだ。
私はこの体質を誰にも知られないために、嘘をつかないよう気をつけた。
とは言っても常日ごろから嘘ばっかり言っていたわけではないので、それは思いのほか難しいことではなかった。
ただ一つ注意しなければならなかったのは、両親に叱られたときだった。
これまでの体調不良の八割が、叱られたときに口にした言い訳だったからだ。
私は言い訳ができないことを不便には感じていたけれど、自分の体質を治したいとも疎ましいとも思うことはなかった。
でも士官学校に入り、多くの人と接する機会が増えてから、私は自分の体質が存外に面倒なことに気づかされた。
人に合わせられないのだ。
空気を読んで人に同調したり、目上の人に社交辞令なことを言ったり、まさに嘘も方便な局面に遭遇しても、自分の中で嘘だと判断されることを私は口に出せなかった。
だからその場合は角が立たないものに関しては素直に発言し、返答に困ったときは閉口してやり過ごすしかなかった。
そんな私を周りは、正直で嘘をつけない人間、と評した。
良い意味でも、悪い意味でも、だ。
幸いにも、これが原因で人間関係に大きな軋轢が生じることはなかったけれど、それでも私は初めて自分の体質を疎ましいものだと感じた。
これは治せるものなんだろうかと思った私は、試しに学内の心理士に相談してみることにした。ここで治療士ではなく心理士を選んだのは、昔の検査で肉体的な問題ではないことが分かっていたからだ。
心理士は私の体質に対して『何かしらの言動に苦痛が伴う場合は、そのことに対しての
その理論自体は理解できるものではあった。
けれども自分の場合はそれに当てはまらないとも思った。
嘘に
これはもう言うならば、生まれつきだ。
おそらく私は、生まれつき嘘がつけない体質なのだ。
とはいえ、絶対に嘘が言えないわけでもなかった。
勢いに任せるか、あとは普通に頑張れば嘘はつける。けれど嘘には代償を伴うし、その記憶は辛いものとして残っている。
たとえ考えなしの子供であっても、あのときの苦しみはもう味わいたくはないらしい。さらに子供時代の私には、もう検査だけはこりごりだ、という思いも強く存在している。
なので幼い私は、母に叱られても口をつぐむしかない。
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