大陸暦1517年――出会い2


 今では架空の物語に心躍らせる幼い私も、以前は物語に興味が持てない子供だった。

 それは物語そのものが嫌いだったから、というわけではなく、活発で好奇心旺盛な子供にとって、静止した絵本の世界よりも、常に変化する外の世界に触れるほうが面白かったからだ。

 だから大好きな母が絵本を読んでくれたとしても、きまって途中で飽きて外に飛び出していた。

 そんな私を母は集中力がないと咎めることも、最後まで聞くようにと強要もしなかった。その代わりに、読み聞かせ自体をやめることはなかった。

 子供のころから読書家だったらしい母は、私にも本の良さを知ってほしかったのだろう。たとえ私が最後まで聞かなくとも、気難しい客に合う商品を探す店員のように、さまざまな種類の絵本を持ってきては私に読み聞かせ続けた。

 そうして母の根気強さが私の書架を埋めそうになっていたころ、母はいつものように一冊の絵本を持って私の部屋へと訪れた。そしてどこか自信に満ちた表情を浮かべると、オグとどれだけ高く積み木を重ねられるか遊びをしていた私に『今日はね、女の子が冒険するお話よ』と言った。


 女の子が冒険――その一言に、私は興味をそそられた。


 冒険の絵本自体は、これまでにも読んでくれたことはあった。

 私が冒険という言葉に心惹かれており、冒険と称して邸宅内を探険していることを母は知っていたからだ。

 でも私が絵本の冒険に熱中することはなかった。

 それは内容が悪かったわけではなく、主人公が男の子や動物ばかりで感情移入ができなかったからだ。

 当然、母もこのことには気づいていたはずだった。

 それでも私の書架が埋まるまで女の子の冒険ものを用意できなかったのは、単純に手に入れるのが難しかったからだろう。帝国では、女性の自主性を表現するような書物はあまり売られてはいないらしいから。

 私はソファに座った母の側に寄ると、絵本の表紙を見た。

 表紙の中心にはお城らしき絵が、表紙の上部には題名【おひめさまと小さな冒険】と刻まれている。

 私が『おひめさま』と意味を知らない単語を口にすると、母が『皇城こうじょうにおられる皇女こうじょ様のような人をお姫様っていうのよ』と教えてくれた。皇女様のことを聞き知っていた私は納得しながら、お姫様の絵本はこれが初めてだと思った。

 これまでお姫様の絵本が出てこなかった理由は、今ならわかる。

 やんちゃで男の子みたいだった当時の私には、お姫様の絵本は合わないと母が思っていたに違いない。

 それでも今回、この絵本を選んだのは、妥協した結果なのではないかと思う。

 普通の女の子の冒険ものが手に入らなかったから。

 もしそうだとしたら、この妥協が逆に功を奏すことになるとは、母も思いもしなかっただろう。

 そしてそれはきっと、今でも気づいてはいない。

 母は絵本の表紙をめくると、お姫様の小さな冒険を語り始めた。

 それは題名通り、本当に小さな冒険だった。

 外の世界に興味を抱いていたお姫様が、お城を抜け出してただ城下や森を歩くという、私から見ればまるで散歩のような冒険。


 でもそのお姫様の小さな冒険は、幼い私の世界を大きく変えることとなった。


 物語が終わり絵本を閉じた母は、娘が初めて最後まで物語を聞けたことへの感動と、自分の根気がやっと実を結んだことへの達成感が合わさったかのような、感極まる面持ちで私を見た。そんな母を感動の余韻に浸らせることなく、私はすぐさま再読をせがんだ。

 そうしてその日から私は、毎日のようにこの絵本を読んで欲しいと母にお願いをした。母はしつこいぐらいの娘の頼みを呆れることなく、笑って余すことなく叶えてくれた。そのときの母の顔には、娘が物語に夢中になってくれたことへの嬉しさが浮かんでいた。

 私はそんな母を見て、少し複雑な気持ちになったのを覚えている。

 騙してはいないけど、なんだか騙しているような、そんな後ろめたい気持ち。

 母が思うように、確かに私はお姫様の絵本に夢中になっていた。

 でも夢中になっている対象が、母の思わくとは違っていた。

 私を夢中にさせたのは、冒険の物語ではなかった。


 絵本に描かれている、だった。


 お姫様はこれまで見たどんな女の子の絵よりも美しかった。

 帝国の冬に降る雪のように白い肌、透きとおるような薄緑の瞳、そして長くふわふわで輝くような金の髪――それらは一目で私の心を掴んで離さなかった。


 ……そう、私は恋をしていたのだ。

 本の中のお姫様に。


 あのときの私は、まだそれを知らなかったけれど、無闇に人に話すべき想いではないということは幼いながらにも感じていたのだろう。

 だから母にも言えなかった。

 お姫様が好きと言うことは、恋をしていると告白するのと同じだったから――。


 分からなくとも自然とそのことを感じ始めた私は、お姫様の絵本を読んでもらうことを控えるようになった。最初はほかの絵本との間に、そして徐々に一人でこっそり見るようになった。

 そのおかげだと思う。

 私がいつの間にか、物語が大好きな子供へと変貌を遂げていたのは。

 偽装的にほかの絵本を読んでもらっているうちに、物語自体の面白さに気づいたのだ。まさにお姫様の絵本がきっかけとなって。

 あれから母も、別のお姫様の絵本を持ってくるようになっていた。

 でもそれが本当に稀だったのはやはり、私がお姫様の絵本に夢中になったのは、女の子が冒険する内容がよかったのだと思っていたからだろう。

 私としては冒険をしていても、していなくとも関係はないので、別のお姫様の物語も楽しんで聞いた。けど新しいお姫様と出会うたびに、思い知らされることもあった。


 自分にとって、お姫様は最初のお姫様だけなのだと。

 あのお姫様こそが、私のお姫様なのだと。


 別のお姫様の絵本を読んで気づいたことは、ほかにもあった。

 お姫様の容姿だ。お姫様は絵本ごとに様々な目色や髪質をしていた。でも不思議なことに、髪の色だけはほとんどが金色だった。

 そのことが私の中で、お姫様といえば金の髪、と決定づけることになったのだと思う。

 現実の金の髪に興味を持ちだしたのも、そのころだ。

 邸宅内には家族と使用人を含め、何人か金の髪の人がいた。その中で、もっとも綺麗だと感じたのが母の髪だった。

 母の髪質は、私のお姫様みたいにふわふわではなく真っ直ぐではあったけれど、私はそれを残念には思わなかった。

 だって私のお姫様はお姫様で、母は母だから。

 私のお姫様は、絵本の中にしか存在しないのだから――。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る