大陸暦1517年――出会い4


「でもでも、ではありません」母は言った。「お父様みたいな文官になるにしても、結婚するにしても、お勉強はとても大事なのよ。きちんとお勉強しなきゃ駄目でしょう?」


 母はもう決められたことのように、私の将来を口にした。

 帝国貴族であるバルゼア家は代々、皇城こうじょうで文官を務める家系だった。

 それは始祖から今代の当主である父までのおよそ五百年間、一度も途切れたことはないらしい。

 だからその流れでいくと、確かに私の将来は決まっていた。


 文官になるか、はたまた嫁ぐか婿を貰うか。


 それは二者択一であった。けれどたった二択でも、女の私が選択できること自体が珍しいことではあった。帝国貴族に生まれた女児は、魔道士や騎士の家系ではないかぎり、家のために結婚するのが当り前だったから。

 そんな常識を破ってでも、母が私に文官の選択肢を与えてくれていたのには、母なりに思うところがあったからに他ならない。


 士官学校に入る前、母は一度だけ、身の上話をしてくれたことがあった。

 私と同じく文官の家系に生まれたことや、文官になりたかったこと。それを女という理由で父親に許してもらえず、そしてバルゼア家に嫁がされたことを。

 最後に母はこれでよかったのだと言った。父と私たちに出会えた今が幸せだから、後悔はないと笑っていた。

 それは嘘ではないと思う。

 母の笑顔は本物で、本当に私たち家族を愛してくれていたから。

 でも今なら分かることもある。

 人の気持ちがそう簡単に割り切れるものではないということを。

 諦めた気持ちは、夢は、母の心の何処かに残っているのだろうということを。

 だからこそ母は、せめてもと私に結婚以外の選択肢を与えてくれていたのだ。

 それは母なりの思いやりだった。

 でも私は、文官になるのも、嫁ぐのも、どちらも嫌だった。

 だって私には他になりたいものがあったから。

 母と同じく、幼いころの私には夢があったから。


「それなのに、枝なんて振り回して遊んだりして」母はなおも私を叱る。

「でもでも」


 遊んでいたのは事実だけど、枝を振り回していたのには理由があった。

 文官になるために、結婚するために、勉強が必要なように、私の夢にはこの枝を振り回すことが必要なのだ――幼い私はそれを母に説明しようと顔を上げた。けれど怒った母の顔を目にしただけで、心は萎縮してしまい、結局なにも言うことができずまた俯いてしまった。


「何ですか? 言いたいことがあるなら言いなさい」母の怒った声が降ってくる。


 そんなに怒ってたら言いたいことも言えないよ、と幼い私は心の中で反論する。

 母がいつもより怒っていることは幼い私でも感じていた。けどその理由が、これまでの脱走の積み重ねによる、母の堪忍袋の緒が切れてしまったことだとは気づいていなかった。

 だけどこれだけは悟っていた。

 今日の説教は長くなる、と。

 幼い私がそのことを覚悟しかけたとき、ここにいる誰でもない声が、助け船に入った。


「セドナは騎士になりたいんだよ」


 まだ声変わり前の、少年の声。

 それが誰だか、もちろん幼い私も分かっている。

 顔を上げると、いつの間にやって来たのか、母の背後から少年がひょっこりと顔を出していた。

 私が困った時にはいつも現われ、どんなときでも私の味方をしてくれた、

 母の金の髪と、父の癖毛を受け継いだ、五つ上の兄――。


「セバル」


 上体を後ろに傾けた母が、驚くように兄を名を呼んだ。母も怒るのに夢中で、兄の接近には全く気づいていなかったらしい。

 兄はこちらに来ると、私が持っている枝を指した。


「これは枝じゃなくて剣。そして悪いやつをやっつけてた。そうだろ、セドナ?」


 幼い私の沈んでた気持ちは、みるみる元気を取り戻す。

 兄にはまだ夢のことは話していなかった。

 でも何も言わずとも兄は分かっていた。

 私の夢も、行動理由も、全て理解してくれていた。

 このときの私はそれが嬉しかった。

 私が元気よく「うん!」と頷くと、兄は人懐っこい笑顔を浮かべて頭を撫でてくれた。


「騎士って、うちは騎士の家系ではないのよ」


 兄の登場で気が抜けたのか、そう言った母の顔からはすっかり怒りが消えていた。


「家系でなくてもなれるよ。貴族以外の制約はないんだから」

「それはそうだけれど、女の子が――」母はそこで言い淀んだ。

 そんな母に兄は意味深な微笑みを向ける。

「それに、女の子だからって騎士になれない理由はない。そうだろ? 母上」


 母は痛いところを突かれたかのように、顔をしかめた。

 兄の言葉は角度を変えれば『女の子を理由に夢を諦めさせるの?』と言っていた。それは女を理由に文官になれなかった母には、何よりも効く言葉だった。母は兄にも昔話をしていたのだ。

 母は何か言い返そうとしたのだろう、口を開きはしたものの、結局は何も言わず諦めにようにため息をついた。そして自分に言い聞かせるかのように小さく頷きながら「そうね」と言った。それは母が私の夢を認めたことを意味していた。

 そのときの私は、兄が母を言い負かしたことに素直に喜んでいた。

 けれど今は、母が少し可哀想に思えた。

 母が兄との会話で言い淀んだとき、母は続けて『女の子が騎士だなんて危ない』と言いたかったのだと思う。騎士は命を落とすこともある危険な職業だから。

 だけどそれを言ってしまうと、女を理由に文官になることを許さなかった父親と同じになってしまう。だから母は言えなかったのだ。たとえその理由が、純粋に我が子を心配してのものだったとしても。

 あのときの母の、そして今の母の気持ちを考えると、私は心が痛んだ。


 ……親不孝な娘だと自分でも思う。

 けれどもう、どうしようもないことだ。


 母を陥落させた兄はこちらに向き直ると、しゃがんで私の顔を見た。

 私は自分でも分かるほど頬が上がっていた。騎士になれるのならもう勉強をしなくて済むんだ、と短絡的に喜んでいたのだ。でも兄は、私がそのように考えることはお見通しだった。


「それはそうとセドナ、勉強時間なのに抜け出したんだって?」

「うん。でもでも、騎士になるには強くならなきゃいけないもん」

「確かに騎士になるには強さが必要だ。大事なことだ。でもなセドナ、それと同じくらいお勉強も大事なんだぞ」

「そうなの?」


 騎士は強ければいいんだと思っていた私は、兄の言葉がよく分からなかった。そんな私に兄は、子供に分かりやすい例えを出してくれた。


「あぁ。セドナは強いだけの騎士と、強くて賢くてかっこいい騎士。どちらになりたい?」


 それはもちろん、単純な子供が選ぶものは決まっている。


「強くて賢くてかっこいい騎士!」

「だよな。この前、僕たちを助けてくれた騎士もそうだったもんな」


 兄の言葉で、私は自分が騎士に憧れるきっかけを思い返した。



 

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