ゴールデンウイークを潰した出張(とその代休)を終えて、やっと東京へ戻ってみたら、いない間に天地がひっくり返るような事態が起きていた。

 かの日浦夏貴女史が行方不明だそうである。

 玄関口で突っ立っていても仕方が無い。

 私はジャンを奥へと案内した。

 美大で講師をしているというジャン・サイードは、籍こそ入れてはいないが、私の職場の先輩である日浦夏貴と事実上夫婦関係にある。

 初め、喧嘩でもしたのではないかと疑ったのだが、どうやらそうではないらしい。

 日浦さんは、今から三日前、友人の出産祝いを持って一人出掛けたのだという。

 二人の関係を周囲には隠している事と、日浦さんが運転する車に乗るのは、胴体着陸するしか手の無いコンコルド(最高運行速度マッハ2.05)に乗り込むのと同じ気分が味わえる、という事も手伝ってジャンは家に残っていた。

 夜十一時には帰ると連絡があり、待っていたのだか何時まで経っても帰ってこない。

不思議に思い携帯電話にかけてみるが繋がらず、結局その日、日浦さんは戻って来なかったのだそうだ。

 翌日、思い切って訪問先の友人宅にかけてみると、日浦さんは昨夜九時過ぎには友人宅を後にしていた事が判明した。

 そして方々探したが見付からずに、困り果てたジャンは私を訪ねて来たのだった。

「職場には来てないんですか?」

 仮に何らかの気まぐれを起こしたのだとしても、日浦さんが仕事を放棄するとは考えられない。

「連絡を入れようとは思ったのだが…」

 事情があって二人の関係が私と日浦さんの勤め先である博物館側にばれてはまずいらしく、職場には連絡できずにいるとの事だった。

「私はここ一週間程、出張で不在にしていたもので…」

 こちらの状況はわかりかねる。

「藤野さんにそれとなく聞いて見ましょうか」

 内線で二課へ回してもらったのだが、藤野さんが出るまでに随分時間がかかった。

“はい、美術工芸二課…”

「度々すみません、高村です」

“どないしたん…?そんなに暇なんやったら、こっちは今すぐにでも出て来て貰いたいくらいやで”

「絶対御免です。ところで、日浦さんいらっしゃいますか?」

“姉さんいるんやったら、俺らここまで困ってないわ……。ほんま、冗談抜きで今から来られへん?”

「……すぐには無理です」

 ジャンや長岡もいるし、荷物の片付けもある。

“じゃあ、一時間後は?”

「厳しいですね」

“どれくらいやったらいけそう?”

「一時間半」

“ほな、それで。悪いけど頼むな。長岡先生によろしゅう言うといて”

 藤野さんは一方的に電話を切った。

 日浦さんについて、今日は不在であるという以外何も聞き出せなかったが、これはこれで重要な情報だった。

 実は明日、常設展の展示替えがある。

 だから今日はその下準備などでばたばたしているはずなのだ。

 そんな日に、日浦さんが個人的な気分で休むはずがなかった。

 第一、今度の展示では、日本を含めた東洋の仏教美術か中心になる予定だ。

 日浦さんの専門は仏教彫刻。今回の美術工芸部門の展示企画は日浦さん主動で動いていた。

 責任感の強いあの人が、それを放り投げていなくなるとは思えない。

 試しに私の方から日浦さんに電話を掛けてみたが、それも繋がらなかった。

「わざわざありがとう。どうやら、家出ではなさそうだな……」

「失礼だとは思うのですが、日浦さんはこれまでにも家出されたことが?」

 ジャンは苦笑を浮かべた。

「実は、何度かくだらない喧嘩をして帰ってこなくなった事が。それでも、これまでは一時間も経てば、澄ました顔で帰って来たのに」

 ジャンは、私に「何かわかったら連絡がをして欲しい」と電話番号を知らせると、次は警察に相談してみると言って、帰って行った。

『それで、秋殿はお出かけになるのですか?』

「仕方がないから、さっさと荷物片付けて、藤野さんを手伝ってくるよ」

『さっき帰ってきたとこだってのに大変だな』

「今日の休み自体お情けで貰ったみたいなものだし。半日と少しでも休みとれただけマシだって」

 私は洗濯物を洗濯機に放り込むと、今晩は家に泊まっていって欲しいという事と今から留守にする事を、長岡に説明した。

『どうかお気になさらず。ここには私のお仲間もいますし、退屈はしますまい』

 長岡もそう言ってくれているし、今日は外面のいい陽平もいるから何とかなるだろう。

 ウィリアムも基本的に人懐っこい。教方はああ見えて結構柔軟な考えができる奴だ。

 問題は、冬悟だけか……。この攘夷派め……。

『ここのところ天気が悪うございますから、お気をつけて』

 ウィリアムが、単車のヘルメットを差し出しながら言う。

 私は礼を述べてそれを受け取ると、何か言いたそうにしている冬悟に声をかけた。

「明日の晩飯、中華にするから、用心棒引き受けないか?」

『……それは構わんが…』

 そう言いつつも、冬悟は不満げだ。

『日浦殿の事はどうするつもりだ?』

と、冬悟の後を受ける様に教方が言った。

『まさか、放っておくなどとは言わぬだろうな!?』

 さっきの不満げな面はそのせいか……。

「心当たりを片っ端から探してみるに決まってんだろ!」

 心配でないはずがない。

 重度の二日酔いでもがんがん仕事しているあの日浦さんが、今日に限っていないのだ。

 何かあったに決まっている。

 しかし、ただでさえ日浦さんがいないことで混乱している職場を放っておくわけにもいかない。

 仕事放り出して探しにいったと知れたら、それこそ、日浦さんに叱り飛ばされる。

『絶対だな?』

「けど、その前に仕事だ」

 天気はまだ曇っていたが、幸か不幸か、雨は辛うじて止んでいた。


 職場に駆けつけてみると、藤野さんが精も根も尽き果てたと言わんばかりに、休憩室のソファーの上で伸びていた。

『あまり長くは無さそうだぞ』

 冬悟の容赦ない余命宣告を受けて、藤野さんは飛び起きた。

「助かったとこの命そんなん言うのやめて貰えます!?」

 それにしても、日浦さんがいないとここまで回らなくなるものなのか。

 それを素直に口にすると、

「回るも回らんも、日浦さん昨日から全然来てないんから、説明もなんもしてへんねん。しゃあないから、これまでに聞いてた内容とねえさんの机から探し出した書類の内容を合わせて進めてるんや」

 藤野さんは、薄手のバインダーに挟まったリストを渡すと

「これ確認して、後はいつも通りで」

と、無責任極まる説明をした。

 受け取ったばかりのバインダーで藤野の頭に一撃加えてやろうかと、私が考えたのとほぼ同時に

「藤野先輩、大沢主任が休憩終わりだって言ってましたよ」

 若々しい声が響いた。

 ………出たよ……。

 盛大に溜息を吐きたいのを堪えつつ、私は声の方に目をやった。

 奴が来てしまった……。

 やって来たのは、本年度から採用になった古生物学課配属の学芸員・加賀辰信かがたつのぶ

 新卒の二十二才。化石人類が専門らしい。

 私がこいつを苦手としているのは何も、私が文系で、奴が理系だからというわけではない。

 かといって、初対面から失礼な奴だったとか昔からの確執があるとか、複雑な事情があるはずもなく、理由は単純で低レベルで自分勝手だ。

 一つは加賀の容姿に、勝手に劣等感を覚えるのである。

 加賀は、ポスターになって街中に貼り出されてもおかしくないくらい整って優しい顔立ちの、まるで女性かと見まがうばかりの、美青年というやつだ。

 身長が低めなのが、欠点と言えば欠点だが、芸能界に進出していてもおかしくない。

 それと、性格が苦手だ。

 加賀は猫を被るのが上手い。

 猫を被る事に関しては、陽平も負けてはいないのだが、加賀の場合、何処か腹が黒いと言おうか……。

 奴の容姿に対する嫉妬と受け取られても構わない。

 兎も角、加賀は苦手だ。

 いちいち構ってくる藤野さんよりも、数倍苦手だ。

 その私が苦手としている加賀は、私を見つけるなり

「高村先輩、来てたんですか?お休みのところ大変ですね」

と、私にとって蕁麻疹の出る様な笑顔で笑いかけた。

「………仕事ですから」

 瞬時に血の気の引いた私を見て、冬悟がにやにや笑った。

 この場に加賀がいなければ、丁髷にバインダー挟み込んでやるのに!

「それから、前の展示の撤去終わったそうなので確認お願いします、と伝えて下さいって」

「おおきに。今から高村くんと手分けしてやってくるわ」

「頑張って下さい」

 加賀は笑顔の大安売りをしているが、私は見たのだ。

 インフォメーションの女の子に対するのと、私達学芸員仲間に対する態度が全然違うのを。女の子達は適当にあしらい、我々には何処か気に入られようとして接してくる。

 不思議なことにそれに気付いている人は、私の他にはまだいないらしい。

 マジで苦手だ。苦手が嫌いになるのに長くはかかるまい。

 苦虫を噛み潰しながら私は加賀の隣を通り抜けようとした。

「あの、高村先輩」

 呼び止められた……。

 私のツラはいつでも不機嫌そうなので咎め立てされる心配は無いはずだ。

「何か…?」

「高村先輩の机の上の写真って、おじいさんか誰かですか?」

「机の上?」

 間抜けに聞き返しておいて、私ははたと思い当たった。

 笹部だ……。何を思ったのかは忘れたが、笹部の写真をフレームに入れて、机の上に伏せておいたのだ。

「見たんですか…?」

「すみません、僕が倒しちゃったんじゃないかと思って」

 わざとだろ。

 私は出かかった声を何とか飲み込んだ。

 こいつ、少女漫画から抜け出てきた様な面しやがって……。

「祖父ではありませんが、親しい人です」

 適当に返しておいて私は藤野さんの後を追った。

 こういう輩は関わり合いにならない方が身の為だ。


 それから数時間後、私は運び入れた作品の最終点検をするために地下の保管庫にいた。

 保管庫は、温度管理と湿度管理、防虫・防カビ等のために三重の扉で閉じられている。

 その為、電波が遮断されて機種に依れば携帯は不通、業務連絡用のPHSでさえ場所によっては使えない。

 その保管庫の一番奥で、すっかり退屈して宙に浮かんだまま居眠っている冬悟を疎ましく思いつつ、私は作業に追われていた。

 私以外にも藤野さんが庫内にいるが、姿が見える様な位置には居ない。

 そこの区画での作業を終えて、次に移ろうと顔を上げた時、船をこいでいた冬悟の頭が私の後頭部に激突した。

「『…………っ』」

 痛すぎて声にならない。

 幽霊と二人、床に蹲って痛みに耐えていると、PHSではなく、携帯電話に着信が入った。

 まさか扉が開けっ放しなのかと慌てたが、大きな鉄製の扉はしっかりと閉じられていた。

 折りたたみ式の電話を開いてみると、ディスプレイには「日浦夏貴」の文字が明滅している。

「もしもし!?日浦さんっ!?」

 まだ後頭部がずきずき痛むが構っていられない。

 広い保管庫の中に、私の声が反響する。

「何かあったんですか!?」

 日浦さんは、力無く「わからない」と言った。

「どうして今まで何の連絡も……」

“片っ端からかけてみたんだけど、誰にも繋がらなくて……。でも、高村くんに繋がって良かった……”

「何処にいるかわかります?」

“………病院みたいに思えるけど…、誰もいないの。廃墟じゃないかしら?動けないから、何とも言えないわね……”

 知らない間に足首を捻ったようだ、と日浦さんは言った。

「すぐ迎えに行きます。窓から何か見えませんか?」

“……木と、私の車だけ。後は……”

 日浦さんの声が耳鳴りを大きくした様な高音にかき消される。

 そしてその直後、通話が途切れた。

 通常の画面に戻った電話のディスプレイを見て私は愕然とした。

 そこには、はっきりと「圏外」の文字が浮かんでいた。

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