10

 一心は霊の傍に座って、経を唱え続けた。

 刻一刻と、霊の姿が薄くなる。

 私と藤野さんは、呆けたようにそれを見ているだけだった。

 遂に、霊の姿が掻き消えようとした時、霊はあのおぞましい姿でなく、若い女性の姿になった。そして、こちらに向かって嬉しそうに、本尊と結ばれた方の手を挙げて見せた。

 それを見た藤野さんは、何故か顔を曇らせていた。

 霊の姿が完全に消えてしまうと同時に、一心の声が止んだ。

 不思議なことに、それと時を同じくして、手に負った火傷の痛みも波が引くように消えてしまった。

 ほっとしたのも束の間、私達は一心が突如として前につんのめるのを見た。

「兄ちゃんっ!?」

「里子、嬉しいのはわかったけれど。そこを退いてもらえないか……?」

 一心が畳の上で潰れたまま言った。

 私には何も見えないが、藤野さんは「姉ちゃん……」と言ったまま絶句してしまった。

 恐らく一心の背後に里子さんがいるのだろう。

「里子……。見ての通り太一も無事だ」

 私から見ると、一心は誰もいない方向に向かって話しているように見える。

「……わかった。高村さんには、私から礼を言っておく」

 今、私の話題が出たらしい。

「兄ちゃん……、見えるんか?」

「気配くらいならわかる。けれど、姿を見たのは里子が初めてだ」

 しかも、里子さんの姿が見えるようになったのは、ここ数日の事なのだそうだ。

「いつも何か言いたそうにして現れるのに、私が近づくとすぐに消えてしまうから、どうしたものかと思っていました。それが、今朝になって急に……」

 積極的に体当たりかましてくる程の改善が見られたらしい。

「だから、突然里子姉ちゃんの事で話があるって……」

「お前のことも、さっきの霊のことも、里子は酷く心配していた」

「……姉ちゃん…、ごめん。俺、心配ばっかりかけて」

 私の目には映らないが、一心の背後で誰かが微笑んだような気配があった。

「私がもっと早く気付くべきだった。里子のこともそうだったが……」

 太一、すまなかった、と一心が謝った。

「一人で辛かっただろう……。私が早く気付いてやれれば……。一人で怖い思いを抱えなくてもすんだだろうに」

 一心は、真剣にそう思っているようだった。

「……嫌やなぁ、兄ちゃん。俺、もう小学生と違うで」

 藤野さんは苦笑を浮かべた。

「それに、今は高村くんが気付いてくれるし!」

「わ、私ですか?」

 急に話題を振られて驚いた。頼むから、巻き込まんでくれ…。

「太一、お前はまた……」

 一心が頭を抱えている。

「申し訳ありません……、高村さん……」

「……………最近、慣れてきました……」

 慣れたくもなかったが。

「里子の事も、ありがとうございました」

 丁寧に頭を下げる一心に、私も恐縮しながら頭を下げた。

 そして顔を上げるなり、はたと思い出した。

 照明、着けっ放し……。やべえ……、仏像が傷む!

「照明っ!藤野さん、消して下さいっ」

「あ、」

 藤野さんが大慌てでコンセントを抜こうと腰を上げた。

「うわっ……」

 花札を踏んだ藤野さんが、足を滑らせてひっ転んだ。

「まったく何やって……」

 詰ろうとした私の声をかき消す、一心の怒号。

「こら、里子っ!ご本尊さんに座ったあかんっ!」

(里子さん、仏様に座ってんの……?)

 長年に及んだ仙覚寺の幽霊問題は、こんな調子で幕を閉じた。

 藤野さんの幽霊嫌いが治ったかどうかは、別問題のようだけれども……。

 私の仏像恐怖症は、治らなかった。阿弥陀如来に括った紐を外しに行くのは、恐ろしくてならないので、藤野さんに代わって貰った。

 里子さんは、当分成仏する気はないらしい。

 この様子だと、一心はこれから受難の日々が続くだろう。


 昼過ぎに、私と藤野さんはシキミの束を持って仙覚寺の雑木林へ入った。

「地図で見た限りこの辺……」

「これやないですか?」

「どれ……?」

 私が指した所に、草に埋もれるようにして小さな石仏が立っていた。

「これやな……」

 石仏は、あの蛇霊が起こした火事で亡くなった人の為の供養塔だった。

 私達はシキミを手向け、線香を供えた。

 手を合わせ終わり、私が目を開けようとした時、藤野さんが石仏に向かって頭を下げた。

「……俺が初めてアンタを見た時、まだ七つやった……。けど、それを二十四年も放って置いたりして……。アンタに罪があったわけや無かったのに!すんませんっ。どうか、どうか許して下さい」

 私は声を掛けそびれて、黙ってそれを見ていた。

「行こうか」

 それからは特に話すこともなく、境内を歩いていた。

 すぐ横手には墓が並んでいる。見たところ、どれも古くからあるものだ。

 私は不意に思いついて聞いてみた。

「藤野さんは地元に戻るんですか?」

 逃げ回っていた原因は無くなったのだ。

 そうなればお家騒動とやらも収束に向かうだろう。

「……地元は好きやけどなぁ」

 藤野さんはそこから二、三歩あるいて、考え込むように足を止めてしまった。

 明るい日差しが、反射光が眩しいくらいに地面に降り注いでいる。

 背が高い方の影が動いた。

「やっぱ、やめとく。今の職場好きやし。向こうやったら、主任もねえさんも、高村くんもおるしな」

「上手言うたかて、仕事は手伝いませんからね」

 溜息を吐きながら、藤野さんを見上げる。

 普段の様に、へらへらと笑う藤野さんがいた。

 日の光の眩しさに早々に視線を戻すと、一つの墓に目が留まった。

 それは藤野さんが立っている斜め後ろ。

 献花は絶えて久しいようだった。

 その墓石には『長岡総一朗』と刻まれていた。

「……なっ……」

 同姓同名の別人だと思いたかった。

「どうしたん?」

 絶句している私を不思議に思った藤野さんが、墓石を振り返った。

「ああ、これ。この前説明した、俺が尊敬してる先生の墓や」

 藤野さんは、気楽そうに「会うたことはないけど」等と言っている。

「……長岡さん、って言うんですか?」

 私は、全身ぞっとするような気分だ。

「説明したやん!」

と、藤野さんは言う。

そうだったか……?本当に説明したか……?その人、そんな名前だったか……?

「高村くん、ひょっとして寝てた?」

 うっ……。

「様子がオカシイなあとは思ったんや。人が折角、熱く語ってたのに!」

「自分が、『先生、先生』言うて名前を省略するからやないですかっ!」

「名前はちゃんと覚えな。今度職場に入って来た人の名前覚えてるか?」

「佐伯、と……加賀…」

「……ちょっと微妙な気もするけど…。まあええか」

 どうせ、加賀(?)は古生物学専門だから関わり合うことも少ない。

「けど、高村くん。先生の名前知らんかったみのに、急にどないしたん?」

 どないしたんと言われても……。

「一昨日、会いました」

と、答えるほか無い。

「会うた!?何処で!?」

 博物館の場所を言うと、藤野さんは驚きと悔しさが交ざった複雑な表情を作った。

「嘘っ!あのおっさん?昔っから、あそこにおるで!マジで!?」

「顔知らないんですか……?」

「写真残ってへんもん…。うわ……、ホンマに?お近づきになっとけば良かった……」

 藤野さんほど重度の幽霊嫌いでは到底無理だ。

「話したん?どんな感じやった?」

 質問攻めに遭い、私は正直に喋っただけなのだが、藤野さんはその場に座り込んでしまった。

 自分がその幽霊の正体に、全く気付かなかったことが余程ショックだったのだろう。

「……高村くん」

 嫌な予感がする。

 返事したくなかった。

 しかし、

「何ですか…」

「呼んで来ようや」

「はぁっ!?」

「先生、寂しいみたいやし」

 地縛霊を引き剥がして来いと?

「大丈夫、高村くんならできる!」

 って、何を根拠に!

 うやむやなまま、勝手に約束させられた。

 藤野さんが会いに行けばいいと主張すると、「夕方の新幹線で東京戻らなあかんから」とあっさり流された。

「高村くんは戻るの明後日やろ?」

 奴が最後にぬけぬけと言った一言が未だに引っ掛かって、苛々の種になっている。

 納得いかないと思いながらも、翌日、博物館を訪れている私が居た。

 展示には目もくれず、奥へと進む。

 私とて、もう一度話してみたい、という思いはあった。

 長岡は、この前と同じようにあの長椅子に腰掛けて、ぼんやりと天井を眺めていた。

 しばらくの間、私は膝に掛けて貰ったコートを入れた紙袋を下げたまま、一つ手前の展示室に立ち尽くしていた。 

 覚悟を決めよう。

 断られた時は断られた時だ。

 もし、承諾してくれたら、その時はその時で何とかなるだろう。

 私は思いきって、一歩踏み出すと声を掛けた。

「長岡先生……」

『どうやら、私の正体がばれてしまった様ですな』

 長岡は、残念そうに言った。

『驚かしてしまいましたか?』

「驚くには、驚きましたけど……」

 何というのか……。

「わりと、慣れてますから」

 そう答えると、長岡は口元を押さえて視線を逸らした。面白かったらしい。

 失礼だと思って我慢しようとしたようだが、

『……慣れていらっしゃるのですか』

と聞き返した長岡の声は、堪えた笑いの所為で微かに震えていた。

「コート、ありがとうございました。一応、クリーニングには出しておいたんですが…」

 そう言って、紙袋を差し出す。

 長岡は益々愉快そうに『幽霊の服も洗濯できるんですなぁ』と言って受け取った。

「厚かましいお願いだとは承知の上で、言います」

 緊張して、膝が震えてしまいそうだ。

「もし、先生さえよければ、講師をお願いできませんでしょうか」

 今度は、長岡が吃驚する番だった。

「と、言っても生徒は二人しかいませんけど…」

 藤野さんと私のたった二人だけ。

 長岡はゆっくりと瞼を閉じ、手の平で両目を拭った。

 そして、右手で両目を覆ったまま、こう答えた。

『何人でも構いません。お受け致しましょう』

「いいんですか?」

 私が再度確認した声は嬉しさに上擦っていた。

 しかし報酬も最低限の衣食住の保証ぐらいしかできない、と言うと

『死んだ者には過ぎ足るくらいです』

との返事が返ってきた。

 礼を述べて握手を求めると、長岡も立ち上がり、躊躇いながらも手を差し出した。

 その手を掴み損ねることなく握った私に、長岡は驚きながら呟いた。

『……これは、不思議な……』

 触れるはずがない、とでも言いたげだ。

「特技なんです」

 極度に限定的な特技だが。

 長岡の驚き方がおかしくて、今度は私が笑ってしまった。

「高村秋です。よろしくお願いします」

『改めまして、長岡総一朗と申します。こちらこそよろしくお願い申し上げる』

 紳士の手は冷たかった。

 しかし、それに違和感を感じていない辺り、私は幽霊との共同生活にすっかり慣れてしまったらしい。

 それから、私は幽霊を五月晴れの空の下に連れ出した。

 鳶が悠々と空を飛んでいった。

 天窓越しの空よりもこうして見上げる空の方が素晴らしい。

 そう言った長岡の横顔から寂しさが消えていて、それが私には嬉しかった。


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