ぼろぼろになった蛇塚を前に、我々はあることに思い至った。

「なあ……?ひょっとして……」

「たぶん、これって……」


 これは……公共物損壊……か?


「……あかん。これ、絶対あかんって!」

「どないしょう!?」

 廊下で野球してて窓ブチ割った高校生の気分である。

 いい歳をした大人同士責任をなすりつけ合った結果、

「……逃げよか」

 一徳のその一言に、誰からともなく頷いた。

 逃げる時の一徳は、何度か犯罪に手を染めているのではないかと思う程、手際が良かった。突き刺さった鏑矢を抜き、鏃を拾って途中の池に投げ入れた。

 羽根などは捨てても浮かんでくるから、寺内墓地の花捨て場で一緒に焼却するという。

 脱兎の如く公園を後にした我々は、社会人とは思えない勢いで坂を駆け上がり、仙覚寺に戻ってきた。

 し、死ぬ……。

 運動部の合宿でもあるまいに、あんな坂を全力疾走してきたのだ。

 私はその場にへたり込んだ。

 救助隊員・広瀬は流石に涼しい顔をしているが、三十路兄弟にもこの運動はきつかったようだ。しばらくは口もきけない有様だった。

「おーい、高村くん。生きてるかぁ……?」

「……生きてますよ」

 私は俯いたまま返事した。

 顔を上げれば、藤野さんの首に残っている私の手の跡が目に入る。

 だから、顔を上げるのが怖かった。

「俺も、生きてるで」

 藤野さんは、私の頭に手を乗せて言った。

 私はこの人の、こういうところが嫌いだ。

 気付いて欲しくない時に限って、私の気持ちを察する。

「……藤野さん、さっきは……。さっきは、すみませんでした……」

「ええって、そんなん。俺が呼んだら、高村くんはちゃんと戻ってきてくれたやろ?」

 普通、あれだけ見事に乗っ取られたら、魂が追い出されてもおかしくないのだそうだ。

「でも……」

「デモもストライキもあらへん」

 謝る代わりに、私は別の言葉を探した。

「あの、藤野さん……」

「ん?」

「……ありがとうございました」

 顔を上げると、藤野さんが嬉しそうに微笑っているのが、夜目にもわかった。

「広瀬も、ごめんな……」

「こんなん、どうもないって。気にせんでええよ」

 それでも殴られた所が少し腫れているらしい。一徳が氷を取りに行った。

 もう一度、ごめんと謝ると

「ええっていうたやんか」

と笑われた。

「これで、残りは里子姉ちゃんともう一人やんな?」

「そうですね……っ!?」

 立ち上がろうとした私は、思いっきりよろけて、再び膝を付いた。

「この様子やと、今日は無理や。送って行くわ」

 何時の間に、この後も私が手伝うことになったんだ……。

 別に私がいなくてもいいと思う……。

 そこへ、間が悪く戻ってきた次男が、最悪のコメントを発した。

「太一はヘタレやから、一人やと逃げよる」と。

 なんと厄介なっ!

 折角立ち上がったのに、頭痛でまた座り込んでしまいそうだ……。

「……ゴメン、高村くん…。俺、蛇よりあの幽霊の方が怖い……」

 私の服の袖をつまんで引っ張っている、その指が震えている。

 まるで、遊牧民に屠殺されゆく羊のようだ。(断末魔の痙攣)

 大抵、羊はこの痙攣が収まると完全に事切れる。

「マジギレしてる日浦さんとどっちが怖いですか?」

「幽霊!」

 即答しやがった。

 重症だ。十三年間も実家へ寄りつかなかった事にも納得できる。

「わかりましたよ」

「ついでに泊めてくれると嬉しいねんけど……」

 私は、悩んだ挙げ句こう言った。

「…………リビングでよければ」

 さっきまで死にかけの羊みたいだった癖に、今やすっかり飼い主に愛嬌を振りまく大型犬と化している。

 しかし全く可愛くない。私は犬は嫌いなんだ。

「おおきに、高村くん!」

「拝んだって何の利益もありませんってば!」

 この種の遣り取りは、運転手を買って出た一徳の車の後部座席でも延々と続いた……。

 それこそ私の実家に辿り着くまで。

 ついでに家に泊まることになった広瀬が、助手席で笑い転げていたのは言うまでもない。


 その後は、何の心霊現象に悩まされることもなく、平穏に夜が明けた。

 さすが我が実家。伊達に霊感ゼロの人間ばかりが暮らしているわけではない。そういった要素が入り込む余地が微塵もない。

 そして、ついにこの出張の本題・フォーラムの開催日当日がやってきた。

 今日はまず、当博物館の副館長を新大阪駅まで迎えに行かなくてはならない。

 果たして、新大阪駅まで無事に辿り着いてくれるか心配だ。

 時に、ゴールデンウィーク三日目。交通事情を考えると更にぞっとする話だ。

 広瀬は昼から仕事に戻らなければならないと帰って行った。

 しかし藤野さんは私に付いて新大阪までやって来た。

 私は仕事用のスーツ、藤野さんは普段着という、珍妙な二人組である。

 副館長はタクシーで現れた。

 時間は間に合いそうだが、帰国早々やらかしてくれた。

 副館長は、タクシーから降りた瞬間、何もない所でつまずいた。

「「副館長っ!」」

 街灯に掴まった御陰で派手な転倒こそ免れたが、この人は本当に心臓に悪い。

 うちの博物館で、いの一番に教えられるのが「副館長に貴重品を持たせるな」だ。

「高村くん、わざわざすみませんね。お世話になります。おや、藤野くんまできてくれたんですか?」

「ええ…、ちょっとこっち帰ってきてたんで……」

「あの……、副館長。眼鏡が……」

「めがね?」

「「曲がってます」」

 つまずいた時にそうなったのだろう。コントのように見事に傾いていた。

 何はともあれ、無事に副館長と合流できたのだから良しとしよう。

「……ほな、高村くん。また後で」

「逃げたら承知しませんから」

 別れ際、藤野さんには釘を刺しておいた。

 今日も長い一日になりそうだった。


 フォーラムは、映像機器のトラブル等もなく、盛況の内に終了した。

 最後の結論が、結局「若手の活躍に期待する」といった、大雑把な感じで締めくくられたのが、微妙なところだ。

 途轍もなく腑に落ちないのだが、これは私が未熟な所為か……?

 出張の用件はこれで片付いたが、私にはまだ仕事が残っている。

 藤野(次男)命名「藤野家三男、幽霊嫌い克服大作戦」とやらが……。

 折角なので先日の御礼がてら、志織さんにちょっとした御土産を持って行くことにした。京都名産の品物を選んだのだが、気に入って貰えるだろうか。

 私は、抹茶のラスクと満願寺唐辛子を携えて、再度仙覚寺を訪ねた。

「どうしよう、お父さん。満願寺唐辛子やわぁ」

 籠に山盛りの唐辛子を前に、志織夫人は年頃の娘さんのようにはしゃいでいた。

「……うちのお母ちゃん、唐辛子ものすごい好きやねん。ようわかったなぁ」

 まさかここまで喜ばれるとは思わなかった。

「何にもできへんけど、高村さん。よかったら今日も泊まってってねえ」

 御母堂の発言を聞いて、藤野さんが、してやったりと微笑んだ。

 野郎……、私が逃げ出すかも、とか思ってたんじゃあるまいな……。

 見捨てて帰ってやろうかと、本気で考えた。

 次男は急な仕事で出掛けたらしい。

 長男・一心は家に居たが、前回会った時とは様子が違っていた。

 あれだけ落ち着いていた人が、そわそわと常に背後を気にしているのだ。

 檀家の癒しとなっているだろう穏やかな微笑も、今日は何処か引きつっていた。

「一心、どないしたんや?」

 住職が訊いても、

「い、いえ……、何でもありません」

と、歯切れが悪い。

 一心は食事を済ませるなり、そそくさと自室に籠もってしまった。

「今朝からあの調子や。ほんまに、どないしたんや。あいつ」

 住職夫妻はもちろんのこと、弟の藤野さんにも心当たりが無いらしく、そろって首を傾げていた。

 深夜二時。

 口から出任せを言って何とか本堂に陣取った私と藤野さんは、花札で時間を潰していた。

「………なぁ、ほんまにこんなん使うん…?」

 手札を持ったまま、藤野さんが視線だけで指し示したのは、本堂の柱に紐でくくりつけられた照明機材。

 それらは延長コードに繋がれており、延長コード上のスイッチを入れれば、一斉に点灯するように、藤野さんと二人で準備した物だった。

「見てたらわかりますって」

 コードや照明は、どれも昼間のうちに、大阪の秋葉原とも言われる日本橋筋で安く買い叩いてきたのだ。

 二本の柱にそれぞれ括り付けられたそれは、本尊を照らし出すように方向を調節してある。

「ご本尊には、あまり光を当てたくは無いんですけどね……」

「別に傷んでも構わへんのやけど……」

 構えよ…、重要文化財だろ…。

 藤野さんにとっては子供の頃から身近に有りすぎて、価値がわからないらしい。

「全部で幾らしたん?」

 わざわざ商品の中から、文化財を傷めるリスクが最も小さい照明を選んで買ってきたのだ。

「吃驚しますよ」

 思わせぶりに言うと、藤野さんの顔色が青くなった。

 金額を告げるなり、

「払わさせていただきます……」

 藤野さんは畳に突っ伏して呻いた。

「でも、高村くん……。めっちゃ買い叩いたやろ…?これ、結構ええヤツやもん」

「店頭表示価格なんて、いい加減なもんですよ」

「……今度、買い物付き合うてや」

「断ります」

 正直に答えたら、冷たいと詰られた。

 それがこんな深夜にまで幽霊退治に付き合ってやっている後輩に吐く台詞か。


「そろそろ、やな……」

 木戸の向こうから、みしみしと軋むような音が聞こえてくる。

 気配が木製の階段を一段一段踏みしめて上ってくる。

 私は傍に束ねて置いてあった五色の紐を抓み上げた。

 その紐の端を、阿弥陀如来の手に緩く括る。

 あの仏像恐怖症の私が。随分根性が据わったものだ。

 振り返ると、藤野さんが花札を取り落としたまま、硬直していた。

「開けてきます」

 そっと戸を開けると、本堂に何処からともなく月明かりが差し込んだ。

 目の前には、全身に火傷を負ったあの霊が膝を付いて座っていた。

 足を掴んでいた蛇はもういない。

 瞼のない目が私を見上げる。霊は怖々、私に向かって手を伸ばした。

 私は躊躇なく、その焼けた手を掴んだ。

 握り込まれた掌が焼ける。

 霊はさらに両手で、私の手を包み込んだ。

 まるで、礼でも言うかのように。

 すぐにでも振り解いてしまいたいのを必死で押さえ込んで、私は霊の手に紐のもう一方の端を結んだ。

 冷や汗が額を伝う。

 私は霊の正面から体をずらし、何とか本堂内へと引き込んだ。

「藤野さん、灯りっ」

 叫び出したいのを堪えて言う。

 しかし、藤野は青い顔で固まったままだ。

「灯りっ!」

 もう一度、今度は怒鳴るようにして言うと、藤野さんは弾かれたようにコンセントのスイッチを入れた。

 暗闇に、本尊が浮かび上がる。

 表面に押された金の箔に光が反射して、さながら極楽浄土が顕れたかのように。

 霊の手が、私から離れて合掌の形を作った。

 私が差し出した方の手は、赤く腫れてひりひりと疼いた。

 霊は口を動かしていたが、漏れてくるのは声にならない呻きだけだった。

 火災で喉をやられているのだろう。

 しかし、その調子に聞き覚えがあった。

 ……お経だ。

 きっと、経を唱えているに違いない。

 私は腰を抜かしたまま後退る藤野さんを引き起こした。

「あの霊の代わりに、お経読み上げて下さい」

「ゴメン……、わからへん」

「……聞き間違いか…?」

「だって、無量寿経とかやろ…?」

 知らんもん……、と藤野はむくれた。

「こっの……昼行灯!!実家のお題目ですよね……?」

「全然覚えてへん……」

「……真言なんか勉強する前に、それくらい覚えといたらどないですかっ!!」

 本堂内に、私の声が響き渡った。

「効きそうになかったから勉強してへんの!家を継ぐ気もなかったし!高村くんはどないやねんな!?」

「生憎とうちは日蓮宗徒でしてね!」

 我々の舌戦を尻目に、霊の泣き叫ぶような声は次第に大きくなっていった。

「も、もう置いといて逃げようや。こうして仏さんとも繋がってるし、何とかなるんちゃう?」

 その霊の声に藤野さんは余計にびびったようだ。

 張り倒してやろうかと思った矢先、堂内に凛とした声が響いた。

 朗々と経を読み上げるその声は、長男・一心のものだった。


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