6
紳士が教えてくれた仙覚寺の蛇伝説は、このような話だった。
今からおよそ600年前、というから室町時代後期のことだ。荒れ寺になっていた仙覚寺に住み着いている大蛇がいた。
ある時、この蛇に出くわした村人が、恐怖のあまりに、持っていた農作業用の鉈で蛇を傷つけてしまった。蛇は深々と鉈の刺さったままの体を引きずって草むらに姿を消した。
その日以来、村に奇病が流行るようになった。「手負いの蛇」の祟りだった。
蛇を傷つけた村人は三日も経たない内に死んでしまったが、病の流行は治まりそうもない。そんなある日、旅の僧侶が通りかかった。僧は、荒れ寺に宿を取り、人々を懸命に看護して回った。
僧が村にやって来て七日目の晩、僧の枕元に立つ者があった。白い装束の美しい女が、自分のことを蛇だと名乗り、僧に助けを求めた。
夜が明けてみると、俄に村が騒がしい。僧が行ってみると、一本の楓の木の下に、痛手を負った蛇が、静かに横たわっていた。体長10メートルはあろうかという、大蛇である。体には、村人に刺された時のあの鉈が、深々と刺さったままになっていた。
蛇は苦しがって体をくねらせる。僧は、これは鉈を引き抜いて貰いたくて自分の元に現れたに違いないと考えた。しかし、鉈を引き抜いたところで蛇は死んでしまうだろう。
村人たちは、蛇に逆恨みされるのではないかと怖れて、誰も鉈を抜こうとはしない。
そこで僧は、「今から、鉈を抜いてやるが、そうすればお前はきっと死んでしまうだろう。懇ろに供養をするつもりではいるけれど、どうしても憎いのであれば、私一人を恨むように」と大蛇に語りかけ、鉈を体から引き抜いてやった。
すると、それまで流行っていた奇病はその場でぴたりと治まった。
その晩、再び夢に女が出て来て僧に礼を述べ、恩返しをしたいというので、僧の一族やその子孫にだけは決して祟りをなしたり、危害を加えたりしないようにと、そう約束させた。
それからというもの、仙覚寺の楓の木の根本には、蛇霊が住み着いているのだという。
「この蛇はその後も、色々と悪さをしたそうで、仙覚寺には蛇を封じ込めておくための
「恥ずかしながら、愛好しております」
私は小声でそう答えた。
どうやら紳士も怖い話がお好きらしい。
「これはこれは。思いがけない所で同好の士を見つけてしまった」
と、美術の話以上に楽しそうである。
しかし今回、残念なことに、私はただ趣味のためにだけ聞いている訳にはいかないのだ。
「あの……、火事の話。もう少し詳しくお聞かせ願えませんか?」
「確か、文明年間。応仁の乱で京を焼け出され、逃げてきた人々が暮らしていた仮屋が焼け落ちたのだとか」
仮屋……。
境内の様子を思い返すが、そんな物が立てられそうな場所は思いつかない。
現在とは、寺内の配置が違うという事も考えられるが……。
霊の現れた場所から考えて、雑木林の中が怪しいかもしれない。
「……趣味以上に何かご事情がお有りのようだ」
差し出がましいようですが、と一言断って
「私のようなジジイが相手でよければ、愚痴でも零されてみては如何ですかな」
と、紳士は言った。
雪女の話ではないのだから、喋ったところで命が取られるわけではないだろう。
それに誰かに話した方が、考えに整理が付くという事もある。
「……信じて頂けるかはわかりませんが」
私は昨日から今朝にかけて起こった出来事を話した。
「馬鹿馬鹿しいですよね……」
自分で話しておいてなんだが、余りにも胡散臭い。
ちらりと様子を窺い見ると、紳士は口髭を捻りながら、難しい顔をして考え込んでいた。
果たしてそんなに大層に考え込むことだろうか。
もしかして、気が触れているとでも思われたのか……!?
輪をかけて馬鹿げた心配をしている私を余所に、紳士はしばらくの沈黙の後で口を開いた。
「……信じます。信じますよ。以前の私ならば面白がりこそすれ、きっと信じようとはしなかったでしょうが」
紳士は、膝の上に置いた帽子を指先で撫でながら言った。
「先に肺を患ってからというもの、この世には不可思議なことが正しくあるのだと、そう実感するような事柄を私も経験いたしました」
それに、と言って私の方を見た紳士は、子供のように邪気の無い笑みを浮かべた。
「この話のような不思議な出来事が、無いよりは『在る』と思いたいのが、我々のような好事家の心情だとは思いませんか?」
「私も、そう思います」
「しかし、今回の場合はそんな悠長なことも言ってはいられないのでしょうな」
「いえ、先生の御陰で少し気が楽になりました。きっと何とかなりますよ」
私の心境としては「何とかなります」と言うよりも、何とかします、と言うしかない気分だった。
蛇の思惑が見えてきたのだ。何故今になって蛇霊がこのような行動に走ったのか、その原因は掴めていないけれど。
藤野さんも人のことを言えないくらい、厄介なものに狙われているじゃないか。
しかも、今回に限って味方が私一人という辺り、途方もなく運の無い人だ。
「おや、電話がかかってきているのではありませんかな?」
うっかりしていて、携帯電話をマナーモードにするのを忘れていた。
「……あっ……、すみません……」
迷惑になってはいけないと思い、私は横を向いた。
“高さん、無事か!?”
その第一声に、我が耳を疑った。
「広瀬っ!?何かあったんか…!?」
“何処にいるん?まだ仙覚寺に居るんやったら後で掛け直……”
「今、京都やから大丈夫や。……何かあったんやな」
“……あんまり、認めたないんやけどな……”
と、広瀬は渋々ながら言葉を続けた。
「テレビが火を噴いた…!?」
“つい十分程前、非番で帰ってきたら突然……”
火を噴く直前、電源の入っていないテレビ画面に、一瞬、ぬるりとした影が映ったのだと言う。
紳士がすっと立ち上がった気配があった。
失礼だとは思ったが、私は会釈だけをして、紳士の方には顔を向けないまま広瀬の話を聞いていた。
“あれは、蛇やった。……それに昨日しがみついてきた奴が、うわ言みたいに繰り返してたんや。蛇が……、蛇が火を付けたって”
「あいつ、話したのか!?」
私には何も聞こえなかったのに…。
“頭ン中で、そう聞こえた……”
広瀬は自信が無さそうに言った。
突如巻き込まれた超常現象に、混乱しているのだろう。
「信じるって。それで、直接の出火原因とかは?」
“何も思いあたらへんけど……。強いて言えば、雷かな”
それこそ納得がいかなかった。
今朝からは近畿一帯、すべて晴れの予報の筈だ。
“急に天気悪なってさ。さっきまでこの辺は真っ暗やった。今は、晴れてるけど……。空が暗なったと思うたら、すぐさま稲光、雷鳴、そんでテレビがズドン、や”
やはり広瀬まで標的か……。
「こっちは大丈夫やから、今日は変に出歩くなよ!」
一方的に言って、電話を切った。
どうやら、少しの猶予も無さそうだ。
ぼやぼやしている内に、広瀬も藤野さんもあちらの仲間入りだ。
明日は五月五日。蛇退治にはぴったりだと思ったのだが、それでは遅すぎる。
けりを付けるなら、今夜か。
ふと目線をそらすと、私の隣に紳士が持っていた中折れ帽が置かれたままになっていた。
忘れ物なのか、それとも帽子を置いてトイレにでも立ったのだろうか。
もう少しして戻って来ないようなら、落とし物として届けておこう。
昨日から持ち歩いているノートパソコンを立ち上げてみた。
一徳からのメールはまだ届いていない。
確証は得られていないが、紳士の語った蛇伝説から、昨日の出来事にもそれなりの関連性が見つけ出せた。
蛇は水神としての一面を持つ。降って湧いたような季節外れの豪雨も、天候を左右できる水神の性格から考えれば合点がいった。
そして、文明年間の火事。蛇が起こしたとすれば、雷を使ったに違いない。広瀬のテレビと同じように。
そんなことを考えているうちに段々と瞼が重くなる。寝不足なのだ。
そういえば、昨日燃えたという家屋もそうだ。
広瀬が仙覚寺を訪れる切っ掛けとなった火災も、出火原因は雷だった。
考えがどんどん散逸していく。
昨日のことは初めから仕組まれていたのだろうか。
仙覚寺の蛇は何故祟るのだろうか。
眠る、眠らないの選択も出来ない程の睡魔に襲われて、次に私が瞼を開けた時には、長椅子の上に置かれていた中折れ帽子が無くなっていた。
時間は三十分程度しか経っていないようだったが、熟睡していたらしい。
紳士が戻ってきた事にも気が付かなかった。
誰かが私の膝にコートを掛けていった事にさえも。
色からすると、やはりあの老紳士のものだろう。着ていたスーツと同系色だ。
私は慌てて、順路を辿り追いかけたが、既に帰ってしまった後のようだった。
紳士の姿は何処にも見当たらなかった。
途方に暮れた私は、何か身元を特定できるようなものが残されていないか、コートを探した。
するとポケットにメモが一枚入っているのが見つかった。
“ぐっすり寝ておられたので、余計なこととは思いましたが、膝掛け代わりに置いていきます。今日は、教員時代を思い出すような、楽しい一時でありました。何れ機会があれば、お会いできるとよろしいですね。 長岡総一朗 ”
これで名前は判明した。
大学で教鞭をとっていたとの事だから、職場の先輩方の人脈を辿っていけば、そのうち連絡が取れるかもしれない。
近くのバス停で京都駅行きのバスを待っていると、携帯電話の着信音が鳴り響いた。
着信メロディーは某お化け一家のテーマ。これを設定してあるのはあそこしかない。
実家だ。
あまり出たくないなぁ、と思いながらも、私は受信のボタンを押した。
「はい……」
『秋?』
母さんだ……。
よりによって母さんからだ……。
一聞した限りでは機嫌はそう悪くない。しかしヨソサマ用に猫を被っている。来客中だ。
『今何処におるの?』
広瀬に聞かれた時とは違い、どことなく背筋に冷たいものを感じる。
「まだ京都……」
『職場の同僚いう方がみえてはるんやけど』
同僚……?
「取り敢えず、今から帰るから」
日浦さん達がわざわざ東京から来るとは思えない。
となると、必然的に……
「高村くん、遅かったやん。先にお邪魔してるで」
やっぱり、アンタか……。
「藤野さん、こんなとこで何やってんですか?」
まさか、お前。うちの母親の顔見物しに来たんじゃなかろうな……。
そんな疑いを持った矢先。
「君んとこのお母さん、ホンマに別嬪さんやねんなぁ」
コイツ、昨夜あんな目に遭っておきながら、ただそれだけのために!?
「雪斗、この無頼をつまみ出せ!」
私はつい、かっとなって叫んだ。
母がいることもすっかり忘れて……。
間髪を入れず、冷たい指が私の口の端を捻り上げる。
「お客さんにそんなん言うのはこの口なん?」
(い、今、皮膚に爪刺さった。)
母が私にだけ聞こえるように言う。
「昨日の事といい、今日の事といい、お客さん帰らはったら覚悟しよし……」
まずい……、目茶苦茶怒ってる……。
昨日より七割増しで忍び寄る命の危機に、額に冷や汗が滲んだ。
母にだけは勝てる気がしない。
「ほな、私は席を外しますよって」
母は客人用に表情を一変させ、にこやかに言った。
脅威は去った。
一時的にだが、脅威は去った……。
「……おかん、怒らせんとってや。俺にとばっちりくるねんから……」
雪斗が言う。
「阿呆、一番しわ寄せ行くのは父さんやろ」
「そやから、書斎に籠城中」
道理で姿が見えないと思った。いつもなら、居間で紅茶でもすすっている時間なのに。
「仕事の話やったらあかんから、俺も出とくわ。じゃあ、藤野さん。ごゆっくり」
「ほな、また。クッキー、ありがとうな」
やけに親しそうである。
雪斗もまた、父親に似て扱いにくい奴の筈だが……。
「で、何用ですか」
「何用て、そんな時代がかった……」
「用がないなら帰れ」
「そんな!中根とかと同じこと言わんとってや」
「中根って誰やねん」
「友達。……いやぁ、実家帰るん怖いから泊めてもらお思て、地元残ってる友達んトコ寄ってみてんけど、みんな冷とおて」
私は先手を打って断言した。
「泊めませんからね」
「殺生やで、高村くんっ!最後の頼みの綱やったのに……っ!?」
未練がましく言い募ろうとする藤野さんの襟を吊し上げて言った。
「ガタガタ言ってないで、今夜で決着つけりゃいいんですよ」
「……ケリ付ける……って」
藤野さんは目を見開いてそう繰り返した。
「でないと近いうちに死にますよ」
襟から手を放す。
よれた襟を直すことも忘れて、藤野さんは
「そうかもしれへんな……」
と、力無く呟いた。
その態度が、私には癪に障った。
「……外行きましょうか」
母に聞こえるような場所で職場の先輩を怒鳴りつければこっちの命が危ないので、私は藤野さんを連れ出した。
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