朝日とともに本堂へやってきた僧侶二人の勤行に、何故か私と藤野さんも参加していた。

 昨夜の恐怖体験が残らず清められていくような気がする。

 仏像を見ると別の恐怖が襲ってくるのだが。

 もちろん、清められているような気がするだけだ。あれで終わりの筈がない。

 一徳は、読経の最中もぐっすり眠っていた。ある意味、尊敬に値する。

 志織さんは、昨日汚れた私の服を洗濯し、浴室乾燥機まで駆使して着られる状態にまで仕上げてくれていた。

 しかも、解れかかっていたボタンの糸まで仕付け直してくれているという目の行き届きようだ。

 朝御飯までご馳走になって、私は「今度菓子折など持って改めてご挨拶にうかがおう」と密かに決意した。

 雨は止み、電車も通常の運行に戻っていた。

 来た時と同じように、本堂から外へ出る。

「滑るから、気をつけて降りや」

と、藤野さんが言う。

 本堂の中には、まだ一徳が転がっている。

 一体どれだけ寝れば気が済むのだろう。昨日は午後九時就寝だったぞ……。

 濡れて滑りやすくなった木の階段を慎重に踏みしめて、石畳に降り立つ。

 早朝の境内には昨夜の霊の気配など微塵も残っていなかった。

 ただ爽やかな空気だけがある。

 靴の踵を直そうとして身をかがめると、視界の端できらっと光る物があった。

 硝子だろうか。

 不思議に思って指先に乗せてみると、何かの鱗のようだった。

「どうしたん?」

「鱗みたいなものが」

「……うろこ?……なんやろ、この辺りやったら蛇くらいしか思いあたらへんけど」

 昨夜の、白い手は何処にいた……?

 慌てて位置を確認する。本堂の段の下にいたのは間違いない。

 腕が浮かんでいたのは、あの時の私から見てどの位置だっただろうかと、必死で思い返す。

 そうだ……、あの手は確かに……。


 今、私が立っているこの場所にいた。


「ど、どうしたん?突然ニヤニヤしたりして気持ち悪い……」

「起死回生の布石が転がり込んできたんですよ」

 怖いからといって逃げばかり打っていては、事態が好転するはずがない。

 君子危うきに近寄らずと言うが、生憎と私は君子などという大層な柄でも無い。

 妖怪退治の第一歩は、相手の正体を看破するところから始まるのだ。

 幽霊に触られた部分の皮膚には紅斑が残り、まだひりひりと痛む。

 その部分をもう一方の手でぐっと握り締めながら、決意した。

 とことん痛い目に遭わせてやろうじゃないか、と。

 反撃の糸口を掴んだ私は、それこそ会心の笑みを浮かべた。

 傍にいた藤野さんは昨夜以上に背筋が凍る思いだったという。(失礼な……!)

 その後、私はそれまで送って行くと煩かった藤野さんを黙らせ、何とかバス停までの道を聞き出す事に成功した。


 水溜まりがまだ干上がりきらない道を歩いていると、後方でクラクションが鳴った。

 振り返ると、運転席の窓から一徳が顔を出して、こちらに手を振っていた。

 藤野さんと落書きした猫ヒゲがくっきりと顔に残っている。

「駅まで送っていくわ」

 そう言う一徳の髪は、寝癖で凄いことになっていた。

 たしか、私が出て来た時はまだ本堂で眠りこけていたはず……。

 慌てて追いかけてきたのだろうか。

「起きたらおらへんねんから、びっくりしたで」

 徒歩の私の横を徐行でぴったり追いかけてくるという嫌がらせ(しかも猫ヒゲが付いている)に負けた私は、あの派手な外車の後部座席に座らされていた。

「何かご用ですか」

 今にも笑い出しそうなのを堪えて、私は言った。

 この伊達男が身なりも気にせず追いかけてくるのだから、どうしても譲れない用があるのだろう。

「高村さん一人で帰らせるの心配やし。それから…、ちょっとした相談があって」

「はぁ……?」

 一徳のその相談内容に、思いの外高い面白効果を発揮している猫ヒゲが全く気にならなくなるくらい呆気に取られた。

「……広瀬の連絡先?」

 それだけのために……!?

 広瀬の連絡先が知りたいというそれだけのために追いかけてきたと言うのか!?

「……アカン、かなぁ?」

 あかんに決まっている。コンプライアンス的にNO!だ

 そう、言おうとしたのだ。

 ところが、多少邪な考えが頭をもたげた。

 これは使えるかもしれない。

「返答次第では教えて差し上げても構いませんよ」

 慇懃無礼な口調でそう言うと、私は一徳に交換条件を持ちかけた。

 広瀬の連絡先を教える代わりに寺内の文献から蛇にまつわる話を調べろ、というのがその条件だ。

 このままだとあの蛇によって、広瀬を含め、少なくとも我々四人の命に危険が及びそうだ。

 決して、私が復讐心に駆られたからだけではない。危険の芽は早めに摘み取るべきだと、そう判断しただけのことである。

 居候連中がこれを聞けば、「言い訳がましい」と口を揃えるに違いないが。

「……要するに、蛇にまつわる怖い話を調べたらええねんな?」

「必ず寺内に伝わる文書を調べてください。金石文も込みです」

「キンセキ……」

「……墓や石碑も調べてください、ってことです」

「ああ、そうか……。それはたぶん、兄ちゃん使えばなんとかなるわ」

 次男があの浮世離れた長男を顎で使えるのか甚だ疑問だが、三男坊を利用しても恐らく何とかなることなので、追求はしなかった。

「……ちょっと待って、もしかして自分……、化け物退治とかする気やったりする?」

 退治する気どころか、殲滅に乗り出そうかという勢いだ。

「伊達や酔狂で親友のメールアドレスを餌になんかしませんよ」

 引かれるに違いないと思っていたら、駅前に車を止めた一徳は、喜色満面で後部座席を振り返った。

「退治する時、呼んでくれへん?」

 正気か!?

「……考えておきます」

 車からの降り際に、私は一徳に名刺を渡した。

「何かわかったら、この名刺のメールアドレスに連絡下さい」

 それから私は、妖怪退治の件は絶対に三男坊には告げないように言った。

 私が妖怪退治をしようとしているなどと知ったら、藤野さんは即座に逃げ出すに決まっている。

 駅のホームに上がると、丁度上手い具合に電車が滑り込んできた。


 仕事先の博物館には、時間に有り余る程の余裕を残して到着した。

 そして、この日の仕事は拍子抜けするくらいあっさり片付いた。

 そもそも私は、明日のフォーラムにパネラーの一人として出席するうちの副館長の代理でしかないのである。

 中国の内陸部(シルクロード地域)に出向中の副館長が、調査の最新結果を発表するというのが、このフォーラムの目玉の一つなのだ。

 その副館長の帰国は、偶然の賜物による新発見により、フォーラム開催の三時間前に関西国際空港着という、とんでもないスケジュールに作り直されてしまった。

 そんなわけで、打ち合わせだとか資料の確認だとかを、下っ端の私が代理で行うことになったのである。

 しかもフォーラム当日、副館長の出迎えにも行かなければならない。

 副館長はかなりの方向音痴なのだ。

 時間が余りに余ったので、私は博物館を見学していくことにした。

 別館では、仏教美術の特別展が開催されている。

 今回のフォーラムもこの特別展に合わせて開かれるのだ。

 ゴールデンウィークど真ん中ということも手伝って、特別展が催されている別館の周囲には長蛇の列ができている。

 私は、人足のまばらな常設展示を見て回ることにした。

 人混みはどうしても苦手だ。

 常設展示には、悲しいくらい人がいなかった。

 事情は何処も似たり寄ったりなのだなぁ…と思いながら、私は展示室を進んでいった。

 この博物館へ来る度に思うのだが、ここの展示室は他にはなかなかないほど薄暗い。

 それだけ古く貴重な物が展示されているという事だ。

 古さと貴重さではこの博物館の建物も負けてはいない。

 築百二十年を過ぎた洋風建築で、文化財指定を受けている。

 内部は展示のため改装が進んでいるが、玄関ホールや天井などの意匠は当時のまま残されている。

 展示の中程まで進むと、展示室と展示室を繋ぐ中部屋の様な場所に突き当たる。

 その端っこの、少し奥まった所にL字型に長椅子を並べた休憩所のようなスペースが確保されている。

 そこには小さな天窓があり、春の日差しが穏やかに差し込んでくる。

 私はその暖かな日差しにつられて、長椅子の端に腰を下ろした。

 誰もいない。博物館を独り占めしているような気分だ。

 これからどうしようかとぼんやり考えながら、私は天井を見上げた。

 蛇退治と言っても、私は古の豪傑ではないのだ。

 武器といえば大叔父の形見に貰った日本刀があるのみ。

 物騒なのでこちらへ一緒に持ってきたのだが、効力があるかが問題だ。

 そもそも生きている蛇なのかどうかも怪しい。

 私は一人溜息を吐いた、つもりだった。

「どうかされましたか?」

「………!?………」

 突然、隣から声をかけられて私は危うく椅子から転げ落ちるところだった。

「失礼。貴方が困っていらっしゃるご様子だったので」

 いつの間にか、私の隣に二人分くらい席を空けて、初老の紳士が腰掛けていたのだ。

 誰もいないと思っていたので、心臓が止まるかと思う程驚いた。

「すみません、見ず知らずの方にご心配をおかけしてしまったようで。大した事ではないんです」

「そうでしたか」

 紳士は三つ揃いのスーツを着て、膝の上に中折れ帽を乗せていた。

「あの……、お一人ですか?」

 何か話さなければいけないような気がして、私はそう訊ねた。

「左様です。貴方もお一人で?」

「一人です。仕事のついでについ寄り道を」

「気持ちはよくわかります。私も現役時代はよくやってしまったものです」

 紳士の髪や口ひげには、随分白髪が交じっている。ロマンスグレーと言えば良いのだろうか。

「ご職業を伺っても構いませんかな?」

「一応、学芸員の端くれを……」

 美術工芸史が専門だと答えると、

「では、同じ穴の狢ですな」

と言って、紳士は微笑った。

「肺を病んでやめてしまいましたが、かつては大学で教鞭を執っていました。今は気楽な隠居の身です」

 初めは他愛ない雑談だったのだ。

 ふとした弾みで、中国美術史を勉強し直しているところだと口を滑らせた事がきっかけとなり、先生の特別講義へ突入した。

 それが絵画史だったが為に軽く流さず、端々で突っ込んで質問した私も悪いのだが、内容はどんどん深い方向へ突き進んでいった。

 しかし、所詮は俄勉強。

「すみません……、先生。これ以上は付いて行けそうにないです……」

 残念だったが、ここで降参しなければならなかった。

 紳士は本当に楽しそうに美術を語った。

 学生時代、この人に教えてもらいたかったな、と心底思う。

「これは申し訳ない。つい現役の頃を思い出してしまいまして」

 紳士は、ばつが悪そうに口ひげを捻った。

「中国絵画を教えていらしたんですか?」

「年度によっては日本画もやりました。東洋絵画全般ですな」

 昔はよくここに学生を連れてきては色々と論議したものだと、紳士は懐かしそうに言った。

 さっきから小一時間程話しているが、誰一人通らない。

「人がいませんね……」

「特別展に人足を取られてしまっているようですしなあ……。貴方は御覧になりましたか?」

「いえ……。恐ろしく人がいるので諦めました」

「わかります。どうせああいった物を見るなら、直接お寺にうかがった方がよろしいでしょう。こちらで見るのとは、趣が違います」

 確かに、物はあるべき場所に在ってこそ真価が発揮されるのだろうと思う。

「見に行くとすれば、先生は何処のお寺がいいと思われますか?」

「センガクジがよろしいでしょう。あそこの阿弥陀如来は無名ですが、いいお顔だ」

「センガクジ……ですか?」

 ちょっと待て…、聞き覚えがあるぞ…。

「赤穂浪士で有名なあのお寺ではなく、大阪の方のお寺でこう書きます」

 仙覚寺、と。

 ……藤野さんの実家だ。

 記憶は朧気だが、そんな名前だった。

 世界は狭い。吃驚するほど狭い。

「仙覚寺ですか……」

「あの寺は面白いですよ。蛇伝説なども伝わっていましてな」

「それ、教えていただけますかっ!?」

 世界は狭いが、偶然が思わぬ副産物を連れてきた。


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