四、


 雨と泥とで汚れた衣服を脱ぎ、志織さんから借りた服に着替えると、いくらか気分がさっぱりした。

 しかし、思い返してもぞっとする。

 私達三人は誰も口をきく気になれず、重い沈黙の中で座を囲んでいた。

 志織さんは、それを空腹のためと解したらしい。

 大量の洗濯物と雑巾を片付けた後にも関わらず休みなく働いて、志織さんは夕食を作りにかかった。

 服まで貸してもらった上に、本当に申し訳なく思った。

 まもなく運ばれてきた藤野家の夕食は、おかずが一品ごとに大皿の上に山のように盛りつけられていた。

 こんな大量の料理、いくら私が七人家族の家庭で育ったといえど見たことがない。

 大皿からそれぞれの皿に取り分けて食べるのが、藤野家の家風のようだ。

 どの料理も野菜中心で、肉はほとんど使われておらず、肉の入った皿だけ、他の皿よりも量が少ないのが印象的だった。父親と長男は、肉を口にしないのだろう。

「男ばっかりでがっついてるから、高村さんも負けんようにしっかり食べてね」

と、志織さんがにっこり微笑んだ。

「すみません、御馳走になります」

「お母ちゃん、俺らもう三十路や……」

 いつまでも子供扱いされるのがもどかしいのか、三男が苦々しそうに言う。

 それを横目に、住職がぼそっと呟いた。

「太一、出遅れてんぞ」

 住職の言うとおり、一徳は既に一杯目の飯を食い終えていた。

「お母ちゃん、おかわり注いで」

「……あんなもん見た後で、なんでそんな入るねん……。変態か、この解剖マニア……」

「人聞き悪い事言うなや。俺は、法医学者」

 職業柄慣れているのか知らないが、一徳は平気で食事をかき込んでいる。

 スプラッタの苦手な藤野さんは、不信と軽蔑の隠った目で兄を見やった。

 藤野さんは箸に触れてさえいない。

 しかし、兄はそんなこと一向に気にしなかった。

「高村さん。ぼおっとしてると俺がみな食うてまうで」

「……遠慮なくいただきます」

 私は割り箸を二つに割った。

 あんなグロテスクなもの見た後で、食わずにやっていられるか。

 ただでさえ気味が悪い思いをしたというのに、空腹だとさらに気合い負けする。

「た、高村くん?」

 「文句あるんですか?」と、口にしかけてやめた。ここは藤野さんの実家だ。

 ぎっと睨み付けると、藤野さんは虚ろに目を泳がせた。

「食べないとやってられへんのですよ」

「ホンマやで。焼死体見た後やし。どんどん食べな」

と、一徳が重ねて言う。

 その理由付けには今ひとつ納得しきれないのだが、職業病なのだろうと、無理矢理割り切ることにした。

「なんか、高村くんが遠い世界に……」

「だって、食わなやってられんやんな?」

「やってられませんよね」

 三男坊そっちのけで、私と一徳は次々に料理を平らげた。

「藤野さん、食べないと倒れますよ」

「ほんなら、きちんと食べるから、これ引き取って」

 藤野さんが私に差し出したのは、一切れの椎茸だった。

「あの……、藤野さん……」

「口あけえや、金魚みたいに。ほら、あーって」

 馬鹿にしているのか……?

 頭にきたので、次男に振った。

「要りませんか」

「……それだけは、俺もパスかなぁ」

 そういえば、一徳もがっつり食っている癖に、椎茸だけは器用に除けている。

「ほら、高村くん。あー」

 何なんだ、この兄弟……。

「……自分で食えや」

 そろそろ忍耐が限界に達していたので、別の椎茸を藤野さんの口に放り込んでやった。

「んんーっ!!」

 藤野さんは、あっという間に台所へ消えて行った。

 母親の志織さんはにこにこと、この遣り取りを眺めていた。

「なんや、里子ちゃんが帰ってきたみたいやなあ。女の子が居ると、朗らかでええ」

 やけに楽しそうな住職の言葉に、一心と一徳の箸が不自然なくらいにぴたりと止まった。

 里、子。

 確か一徳が、消えてしまったのだと言っていた。

「もう、お父さん。そんなこと急に言うたかて、高村さんには何の事やらわかりませんやんか」

と、志織さんがたしなめた。

「すまん、すまん。里子いうんは、姪っ子でな」

「俺らの従姉や。もう死んでしもたけど……」

 そう言って、一徳は味噌汁をすすった。

 視線を外すと、部屋の前で入り難そうにしている藤野さんの姿が目に入った。


「そろそろ、対策会議でもしようや」

 食後の片付けも慌ただしい中で、次男が言い出した。

 一宿一飯の恩義を受けている私としては、片付けの手伝いが最優先事項である。

 今のところ、台の上の皿を引いて台所まで持っていくのが私の役目だ。

 お前ら、息子なら母親を手伝え。

 長男はこの通り、割烹着姿で洗い物に精を出している。

「兄貴、用があるんなら終わるまで待っといた方がええで」

と、藤野さんが兄を止めた。

 暫くして、私が台ふきんを手に戻ってくると、次男・三男は小競り合いを繰り広げていた。

 さすがに取っ組み合いの喧嘩をするのは避けたらしい。二人は、殴り合いを腕相撲で代用しながら、舌戦に忙しかった。

「おまえ、あの化けモンが寺におるの知ってて黙ってたやろ!この愚弟っ」

「やかましいわ、クソ兄貴!見えるの俺だけやったし……ッ!言うたところで信じたか!?」

「信じられるか、ボケェ。今でも信じたないわ!」

「信じたないのは俺かて同じやっ」

 実力は拮抗している。腕相撲は押しつ押されつを繰り返し、決着が付かない。

「つーか、あれ一人だけやろな?」

「墓行けばもっとおるわ」

「俺は、居着いて害がありそうなヤツの話をしてるんやけどな」

 腕相撲は諦めたようだ。兄はギリギリと弟の指を握りしめて、地味にダメージを与え始めた。

「アレに掴まれたとこ火傷になってたやろが!」

「痛っ……!痛いやんけ!あんなんが、二体も三体もいて堪るか」

 弟は兄の手を振り解いた。

「……本当に一人だけなんですか?」

 果たして林の中にあった人影とあの全身に火傷を負った霊とは同じなのだろうか、という疑問が私にはあった。

「……わからへん。でも、電話口の声と高村くんにしがみついとったヤツは同じ霊や」

「お前、こっち帰ってけえへんかったん、あれのせいか?」

「そうや……」

 不本意そうに藤野さんは答えた。

「初めて見たんは、裏の林のとこやったのに年々近づいて来るんや」

 次は家へ入ってくるかもな、と藤野さんは諦めた様に冷めた笑みを浮かべた。

「……なあ、高村さん。俺も本堂で寝てええ?」

 一徳は愛想笑いを浮かべていたが、目が笑っていなかった。

 気持ちはわかるが、私に訊かれても、客分でしかない私には何の権限もない。

 決定権があるのは、どちらかといえばそちらの方だろう。

「だって本堂が一番安全そうな気ぃするやん」

 実はそうでもなさそうなのだが、私も藤野さんも何も言わなかった。

 道連れは多い方がよかろう。

 私と藤野さんは無言のうちに結託した。

 一徳も一緒に寝ると聞いて心配した住職からは、何かあったら「椎茸!」と叫びなさい、という訳のわからない助言をいただいた。

 しかし、断言してもいい。何事も起こらん。(ただし超常現象以外に限る) 


 暗い本堂で寝るということで、仏像恐怖症の私はどうしたものかと思っていたが、何とか仏像側を一徳に押しつけることができた。

 これで少しは恐怖が和らぐ。

 背後から重苦しい程、仏像の存在感が襲ってくるのに変わりはないが。

 本当は本堂正面の雨戸に近い方に寝たかったのだが、そちらはどうしても藤野さんが譲ってくれなかった。

 恐らく、先ほどの霊は本堂正面からやってくるのだろう。

 一徳は寝付きがいいらしく、あっさり寝てしまった。

 明日は京都の方で仕事がある。寝付けるか心配だったが、それは杞憂に終わった。

 昨夜、と言うか今朝方は、深夜に友人から電話がかかってきたり、その後も中国絵画の論文に目を通していたりして、眠ったというよりは「机の上で力尽きた」というような有様だった。

 それに疲れが加わって、私は思った以上に早く寝入った。


 どれくらい時間が経ったのだろうか。

 がりがりと何かを引っ掻くような音に、私は目を覚ました。

 枕元に置いた腕時計を見ると、午前二時を過ぎようとしていた。

 身を起こした私の腕を、藤野さんが引き留めた。

 唇だけを動かして、「行くな」と言った。

 あの霊が、表に来ているのだ。

 爪で木製の雨戸を掻く音に、必死で戸を叩く音が交じりはじめた。

 どうしたわけが、一徳が起きる様子は全くない。

 死んでいるのではないかと思って息を確かめると、すやすやと寝息を立てていた。

 すげえ腹立つ……。

 つい、握りしめたこの拳を一徳の寝顔に叩き付けてやろうかと随分迷った。(私が真っ当な社会人でなければやっていた。)

 そんなことをしている間に、ふと表が静かになった。

 空気がどことなくひんやりとして外気が流れ込んできているような感じがする。

 雨戸が、ほんの少し開いている。

 指が二本、通るか通らないかというその隙間から、こちらを覗いている眼が在った。

 夕方掴まれた所が火傷になっていたのだろう。

 腕がひりつく様に痛んだ。

 爪がまた、がりがりと雨戸を掻く。

 とても不愉快だ。

 黒板を引っ掻く音の次の次くらいに不愉快だ。

 私は、つかつかと雨戸に歩み寄ると、施錠を外し、いっそ爽快なくらいに潔く戸を開け放った。

「おい、そこのっ!用があるなら入って来んかいっ!」

 雨戸は、今のこの場に不釣り合いなくらい景気のいい音を立てて開かれた。

 何してんのっ!!?という藤野さんの絶望の叫びが聞こえたが、気にしていられるか。

 霊は、私の憤怒相にも怯えず、私に向かって片手を伸ばした。

 見た目の壮絶さに惑わされていたが、必死で誰かに助けを求めるような、そんな様子だった。

 灼熱の手が、再び私の腕を掴む。

 何か訴えかけているが、私には唸り声にしか聞こえない。電話に紛れ込んだ、あの声だ。

 さらに、雨音がその霊の声をかき消していた。

 霊は一層、私に縋り付いた。

 瞼のない双眼が私を見上げる。

 脳裏を疑問が過ぎった。

 これは、私を見ているのか……?

 私を通して、私の後ろの何かを見ているのではないか。

「……っ!」

 ぐっと強く、体を引っ張られた。引きずり降ろされそうだ。

 自然と視線が下へ行く。

 そこで私は目を疑うようなものを見た。

 霊の焼け爛れた足を、真っ白な女の手が掴んで放さないでいるのだ。

 まるで、霊が本堂に上がるのを邪魔するかのように。

 手の本体は見えない。

 暗闇の中に、手だけが不気味に浮かび上がっている。

 この世のものではない白い、美しい手。

 霊はその白い手から逃れようとしているのか、もう片方の手を必死で伸ばした。

 私は、霊の手を自分から握った。

 いや、握ろうとしたのだ。

 私が霊の手を握るよりも早く、藤野さんの手が私の手を掴んだ。

「阿呆っ、君は何をしようと……」

 藤野さんは私を叱りかけて、言葉を失った。

「……さと、こ姉ちゃん?」

 彼の目は、私には見えない従姉の姿を闇の中に見出していた。

「嘘、や」

 霊のすぐ隣の何もない空間に、藤野さんは顔色を変えて呼びかけ続けた。

「姉ちゃん、姉ちゃんっ!俺……っ」

 私には、何も見えない。

 そこには、誰も何ものもいない。

 その時、暗がりに何かが浮かび上がった。

 完全な人の形はしていない。霊の足を掴んでいるのと同じ、白い腕だ。

 その手は、藤野さんに向かって差し伸べられた。

 この上なく美しい、そして最も危険な手だった。

「里子姉ちゃん……」

 藤野さんの手が闇に伸ばされる。

 あの手にだけは、触れてはいけない。

 これは人間とは全く別の存在のものだ。

 急に、私に縋っていた霊の存在が消えた。

「藤野さんっ」

 今度は私が藤野さんを止める番だった。

 藤野さんは、弾かれたように私の顔を見た。

「そこには誰もいません……」

私達がもう一度外に視線を戻すと、白い手は消え失せていた。

 私も藤野さんも頭から水を浴びせられたかのように冷や汗をたっぷりかいていた。

 時刻は丑三つ時が終わって、午前二時半を少し回ったところだった。


 すっかり目が冴えてしまったのは私だけではないようで、

「……なんか話しようや。寝られへん……」

三男坊は、勝手に寝たら祟りでもなしそうな陰鬱な表情でそう言った。

 一徳は爆睡している。

「コイツ、むかつくやんなぁ?」

 藤野さんは実兄の頭を小突いた。それでも一徳は起きない。

「……落書きでもしときますか」

「そうしよか」

 そして我々は油性マジックで、一徳の顔に猫ヒゲを書き加えたのだが、あまり笑えるような心境ではなかった。一徳は、書かれ損だ。

「なあ、高村くん。聞いてくれる?」

 返事はしなかったが、私は藤野さんの顔を見た。

「嫌な予感はしててん……。これまで何も言わへんかった兄ちゃんが、今日に限って話があるとか言うて、里子姉ちゃんの話持ち出してくるし……」

 聞きようによっては、単なる愚痴のようにも思える。

 ところが、藤野さんは急に声まで凍り付かせて、こう吐き捨てた。

「俺、里子姉ちゃんが消えてしもうた時、傍に居ったんや」

 沈黙を縫うように雨音が聞こえる。

 今はもう、小雨になっていた。

「里子姉ちゃんは、あいつに連れて行かれた。……俺の、代わりに」

 こんな話を、ただの同僚でしかない私が聞いてもいいものだろうかと、戸惑った。

 けれど、藤野さんは話を続ける。

 口を挟むにも、藤野さんの様子が平生と違いすぎて声をかけるのが躊躇われた。

「姉ちゃんが消えた翌日、あの雑木林の下の……、公園で死体が見つかった。俺が、あの時、里子姉ちゃんを引き留めてたら……」

 俺が連れて行かれてた方がよかったんや…、と藤野さんは声を詰まらせた。

「せやから、高村くんは、いなくなったりせんといてや」

「……残念ながら、私は里子さんほど優しないんで」

 しぶといですよ、と言うと、藤野さんは呆れ気味に微笑を浮かべた。

「君やったら、一筋縄ではいかんか」

「常套手段でどうにかなるように見えます?」

「絶対無理」

 即答された。それはそれで少し心外だが、今回だけは、黙っておいてやろう。

「藤野さん、やけに幽霊嫌いやなぁって思ってたら、あれが原因やったんですね」

「最初に見たんがあんなんやったら、無理もないやろ?」

「……そうですね」

「俺は最初に見たんが教方でも、無理やけど」

「あれの何処が怖いんですか?」

「……そんなん言うの君だけやわ」

「藤野さんがヘタレなだけですて」

「そんな言い方されたら、傷付くし」

と言いながら、藤野さんはくすくす笑った。

「高村くんに話したら、多少気が楽になったわ。おおきにな」

 素直に感謝されてしまうと返答の仕方がなかなか思いつかない私は、別にとか何とか、ぐだぐだ言った。

 藤野さんは、面白いものでも見つけたように、機嫌を良くした。

 げっ……。

 話を誤魔化そう。

 そこで、

「あの、志織さんから聞いたんですけどっ」

 藤野さんが学芸員になろうと思ったきっかけだという、学者の話を持ち出してみた。

「お母ちゃんが覚えてたん……?」

「そうですよ」

「高校の時に、蔵ン中入って遊んでたら見つけてんけどな。あれ読んだ瞬間、俺、ホンマにびっくりして」

 案の定、話題に乗ってきた。

 さすが尊敬している人の話だ。

 心酔、と言えばいいのだろうか。奴の話は止まらなかった。

 藤野さんの意外な一面を発見してしまったような気がする。

 ある一定の箇所になると諳んじてしまっているくらい、繰り返し読んだらしい。

 結局、藤野さんは朝日が昇るまでとことん喋り倒した。

 途中で何度かうつらうつらして聞き逃していたのだが、ばれてはいないだろう……。



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