3
三、
住職夫人と私は、何をするでもなく居間に座っていた。
最初に通されて、停電に遭遇したあの部屋だ。テーブルの上には、夕飯の支度がすっかり整っている。無いのは料理だけだ。
気拙くて落ち着かないのだが、生憎と、場を楽しく盛り上げるような技術も才能も、私には備わっていない。
それに林の奥の白い人影のことや、広瀬たちのことも気になっていた。
だから、先に口を開いたのは夫人の方だった。
「心配せんくて大丈夫。仏さんが守ってくれはるから」
不思議なことに、私の緊張の糸は一気に緩んだ。
夫人の言葉や表情には、何ともいえない安心感があった。
そして夫人は、三兄弟の幼い頃のエピソードなどを上品なユーモアに包んで話してくれた。その後で、夫人は、御三男である太一の最近の様子を私に尋ねた。
私は、普段の様子を控えめに申し上げた。
あくまでも、「控えめ」だったことを強調しておこう。
決して嘘は言っていないつもりだ。意図的に言わなかった箇所は多々あるが。
三男坊は高校卒業以来、数えるほどしか家に帰って来ていないそうなのだ。
「帰ってきたと思うたら、日暮れまでにはどこか行ってしまうし…。それに、男の子ってあんまり話してくれへんでしょう。でも、ちゃんとやってるようで、安心しました」
あの子は、何かにつけて面倒くさがる子やったから、と夫人は懐かしそうに言った。
「太一は、高校の二年に入って暫くした時に、急に学芸員になりたいて言い出して」
それまでは日本画の画家になると言い張って、勉強にはさっぱり手をつけていなかったらしい。
それで藤野さんの専門は仏教彫刻ではなく日本画なのかと、私は妙に納得した。
「お蔵の中に、二代前の住職と懇意にしてた美術史の学者さんの遺品を預かっててね。その中にあった本を読んだんがきっかけみたい」
そんなきっかけがあったとは初耳だった。
「元々、飽きっぽい子やったし、学芸員になったはいいものの、何にもしてへんのちゃうやろかと思ってねぇ……」
三十路にもなって、なんという心配のされ方だ……。
一体どんな高校生だったのだろうか。
想像がつくような気もするが、今より数倍ひどかったに違いない。
「あの子、仕事せんと寝てそうやから……」
「その、ふ……」
藤野さんのお母さんが心配なさっているようなことはなかった、と言おうとして、私は口籠もった。
それは藤野さんが仕事もせずに寝倒しているからではなく(ちゃんと仕事している)、「藤野さんのお母さん」という呼び方に違和感を感じたからだ。
何故なら、彼女もまた「藤野さん」に違いないのだ。
夫人はそれを察したらしく、
「いややわ。母ですとだけ名乗っておいて、名前言うの忘れてた」
と、恥ずかしそうに笑った。
「うちは、
お母さんと言われるよりも、志織さんと呼んでもらう方が嬉しいと、夫人は言った。
だから、私はそれに倣うことにした。
余談だが、私の母の名は
「志織さんの心配なさっているようなことは、私が就職してからは一度もありませんでしたよ。好きな仕事の時は、張り切り方が際だって違いますが」
逆に奴のテンションが低いとき、決まって迷惑を被るのは私だ。仕事の手助けをしつつ、機嫌も取らなければならない。
ええ格好しいやから、後輩の手前、きっと頑張ってるんやねぇ、と志織さんは言った。
もしかしたらそうなのかもしれない。
気分にムラがあるだけで、仕事自体はしっかりとこなしている。少々、人を使うのが…、利用するのが上手すぎるような気がしないでもないが。
それに、不必要なほどいろいろと私に構ってくれるのも、藤野さんなりに、後輩に気を遣ってのことなのだろう。
「でも、高村さんには格好つけても全部見抜かれてしまいそうやね」
「そんなことありませんよ」
私は苦笑しながら否定した。
志織さんが、あんまりやわらかく、やさしく喋るものだから、雰囲気に負けてついつい「はい」と返事をしてしまいそうになる。
雨戸が、ガタガタと鳴った。
向こうから、人が叩いているように聞こえて、私は少し身を固くした。
さっきの…、唸り声の女だろうか。
がん、がん、と音が立て続けに聞こえる。
私が窓の方へ行こうと立ち上がりかけたその時、戸を叩いていた気配が掻き消えた。
雨音に混じって、車のドアが閉まったような音が聞こえた。
「帰って来たみたいやねぇ。高村さん、申し訳ないのやけど、タオル持っていくの手伝ってもらえますやろか?」
「わかりました」
用意されていた山積みのタオルとバスタオルを受け取る。
玄関の扉が開いて、案の定、「おかあちゃん、タオル!」と叫ぶ、次男の声が聞こえてきた。
玄関には濡れ鼠が三人と、濡れ坊主(まるで妖怪の一種のようだ)が二人立っていた。
「おう、高村さんまで。すまんかったな」
住職は特に泥だらけだったが、息子達よりもまだ元気が有り余っているようだった。
長男は初対面の印象のごとく、浮世離れした静けさを保っている。
僧侶二人は、夕方のお勤めの時間が過ぎていると言って、ろくに体も拭かぬまま本堂へ行ってしまった。志織さんは廊下を拭きながら、その後を追いかけていった。
「……俺、風呂入ったとこやったのに…」
下の息子二人は、応援に駆けつける前に遭遇した怪奇現象との相乗効果で、随分と意気消沈している。玄関先でのろのろと髪を拭いていた。
依然雨の降りは激しく、弱まる気配もない。
広瀬は挨拶を終えて帰ろうとしていた。彼女にはまだ、仕事が残っているのだろう。
私は雨除けのある玄関先まで進み、「お疲れ」と声をかけた。
広瀬は軒下ギリギリのところで立ち止まり、
「それじゃあ、またちょっとパシられてくるわ」
と、疲れた表情で笑った。
広瀬は、隊で配布されたのだろう雨衣を着ていたが、それが何の役目もなさないほどに濡れていた。
雨衣からしたたり落ちる雫が、玄関外の、雨除けの屋根の下にあって乾いていた筈の石畳の上に、水たまりを作っていた。
「気ぃつけや。砲撃に吹き飛ばされへんように」
「大丈夫。“杉野”は見捨てて逃げることにしてるし」
と、説明しなければわからないような冗談を叩き合っていると、先に家の中に入ったはずの一徳が、タオルと傘を手に出て来た。
「広瀬さん、あんまり意味無いかもしれへんけど、これどうぞ」
百均のタオルやからそのまま捨ててもうて構へんし、と言いながら、一徳はタオルを差し出した。
「………ありがとうございます」
広瀬は、一徳の差し出したタオルを訳がわからないままに受け取った。
何故ここまで親切にしていただけるのだろう、と広瀬の顔に疑問符が浮かんでいる。
確かに、一徳の第一印象からこの親切な行動は想像しがたい。
親切そうな雰囲気はあるのだが、一徳は、どう見ても7対3でホストの要素が強いただのチンピラにしか見えない。要するに、胡散臭いのだ。
これでなかなかモテるらしいのだから、世の中は不思議だ。
「よかったら傘も使うてください。ビニール傘ないから、こんなんしか渡されへんけど」
「い、いや、ここまでしていただくわけには……」
広瀬は困っていた。小学校以来の親友の目から見ずとも、明らかに困っていた。
一徳は、俺の傘やから気にせんでいいよ、と言うが、お前の傘が高級品だからこそ、広瀬は輪をかけて困っているんだ。
そして、一徳の魂胆は何となくわかっていた。が、広瀬は何もわかっていないだろう。昔からそういう奴だった。
広瀬の視線が、私に「何とかしてくれ」と訴えかけている。
どうしたものかと、一徳の方を見やると、彼の肩の向こうを黒いものが横切った。
一徳は背が高い。ほんの少ししか見えなかったが、あれは人間の頭部だった。
すぐ後ろで、びしゃりと水が跳ねた。
人が通り抜けたような気配があった。
弾かれたように視線を戻す。
視界の端に、ぐらりと大きく傾く広瀬の姿が目に入った。
「広瀬……っ!?」
足下から崩れ落ちるようにして倒れる、広瀬の腕を間一髪で捕まえたものの、支えきれない。私は、水溜まりの上に片膝を付いた。
広瀬の体が異様に重い。
これは、一人の人間の体重ではない。
「広瀬さんっ!?」
一徳が広瀬の傍に膝を付く。
その声を聞きつけた藤野さんが玄関から顔を出したが、構っていられなかった。
広瀬の呼吸がおかしい。
彼女の手が、私の腕をぎゅっと掴んだ。
「しっかりしろ、広瀬!」
広瀬は俯いたまま、荒く呼吸をしている。
その呼吸の合間から、絞り出す声で、熱い、熱いと繰り返す。
体温が上がっている。焼けつくような熱が掴まれている部分から伝わってくる。
死体を焼くような厭な臭いがした。
私から見て正面、一徳と広瀬の間から、焼け爛れた人間の顔が覗いていた。
広瀬の後ろにいるそれは、火膨れた左手を広瀬の肩に乗せ、右手で私の手に触れた。
「っッ……!」
皮膚を焼かれる痛みに、私は必死で悲鳴を噛み殺した。
息の整わない広瀬は、声を上げることすらできない。
さっきの異様な体の重さも、こいつが……!
「くそっ……」
蹴り飛ばしてやりたい衝動に駆られたが、自由に身動きがとれない。
何処か、地下深く引きずり込まれているような感覚がある。
酸欠でも起こしたみたいに意識が朦朧とする。
そいつはさらに腕を伸ばして、今度は私にしがみつこうとした。
私の体から力が抜ける。もう広瀬を支えていられない。
「太一っ!」
バランスを崩した広瀬の体を抱きとめて、一徳が叫んだ。
「わかってる!」
そんな遣り取りなど、私には知る由もなかった。
朦朧とした意識に加え、全体重をかけて私に取り縋ろうとする霊をいなす事に必死だったのだ。
私の後ろから伸びてきた別の手が、忌々しい火膨れた手を捕まえる。
「悪い、遅なった」
その声を聞いて安心した自分が口惜しい。
藤野さんは、私を羽交い締めにしている腕を振り解いた。
しかし霊は尚も取り縋ろうとする。
藤野さんはそこから遠ざけるように私を後ろへ引きずった。
視界の端を一枚の紙が舞い落ちる。
二人も連れて行かせへん…、と藤野さんが呟いたような気がした。
霊は、焼け爛れて腫れ上がった腕を蠢かしていたが、やがて消え入るように姿が見えなくなった。
軒の外に、不動明王の護符が落ちて雨に打たれていた。
「高村くん、無事か……?」
「……本気の教方にとっ捕まった事を思えば、余裕です……」
我ながら口の減らない奴だと思う。
「そりゃ、あれに比べたら、どんな霊も屁でもないやろうけど」
と、藤野さんは何処かほっとしたように笑った。
「藤野さんっ、広瀬は!?」
「衰弱してるけど、大丈夫や。脈も正常やし。敢えて言うなら、首と肩ンとこの火傷くらいかな」
一徳が淀みなく言った。
「あの兄貴、ああ見えて医者やから。信用できると思うで」
「まっ、解剖医やけどな」
坊主と解剖医。家ぐるみで死体と関わる職業についているらしい。
日ごろの慣れか、霊が離れるなり私の体調は何事も無かったかのように回復したのだか、広瀬の顔からはすっかり血の気が失せてしまっていた。生気がないと言ってもいい。
それでも広瀬は仕事に戻ると言って聞かなかった。
「もう落ち着きました。すみません、ご面倒をおかけして」
立ち上がったその足取りはしっかりしていたが、心配なものは心配である。
「体調的には大丈夫やとは思うけど……」
と、一徳は言葉を濁した。
「途中まで送っていくわ。流石にそこの坂降るの危ないと思うで。そういうことやから太一、家の事頼む」
「それなら私が」
「ええよ~、高村さんは家おって。寺までの帰り道、一人になるやろ?今日は女の子を一人でうろうろさせたないねん」
軽い口調だったが、そこには有無を言わせない何かがあった。
太一が何か言いたげな視線を兄に投げ掛けている。
一徳は面白くなさそうに弟を見やったが、急に、にやっと笑って、
「なんか言いたそうやな?」
「……は!?俺、何も……ッ!!」
突然、弟にヘッドロックをかけた。
「ははっ、また引っかかったな!」
私は普段の職場での藤野さんを思い出し、納得した。
そうか、こういう“家庭”だったんだな……。
虚をつかれた藤野さんは、かなり的確に締め上げられたらしく、軽く涙目になっていた。
「アホっ、お前、何して……っ」
巫山戯ている振りをしながら一徳が、やっと聞こえるかどうかの声で言った。
「……思い出したんや。
何かを怖れているような、沈んだ声だった。
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