2
「昨日洗車したとこやったのに……」
窓越しに雨空を見上げながら、一徳が嘆いている。
「また洗えばええやろが」
本堂の雨戸を閉めに行って、濡れ鼠になった藤野さんが憮然として言った。
ラジオによると、大雨洪水警報及び暴風警報が発令されている。季節外れの異常気象だ。
この付近では停電が継続中で、近畿各地では、あまりの強風に電車も止まっている。
私は、早々に御暇したかったのだが、
「こら、あかん!高村さん、電車だけやのうて、増水や何やらで道も止まってるわ」
慌てて駆け込んできた住職と、
「国道沿いでは、倒れた電信柱が道路を塞いでしまったようです」
冷静に情報を伝えに来た藤野家長男の御陰で、それは不可能だとわかった。
雨脚はますます強くなる一方だ。今日中には降り止みそうもない。
雨宿りなどしても無駄だ。いっそのこと傘だけ借りて、歩いて帰るか。
傘を借りられるかと住職に相談すると、住職も住職夫人も目を丸くして、私を引き留めた。この天候で出歩くのは危ない、というわけだ。
泊まって行けとまで仰ってくれるのは有り難いが、初めて訪ねた他人様の家でそこまで世話になるのは図々しい。
それに、何時までも人の家に居座るのは、私にとって気詰まりだった。
住職夫妻との押し問答の末、私は苦しい言い訳をした。
「背は低いですけど、風に飛ばされたりとかはしませんので大丈夫です。帰ります」
「飛ばされるも何も、高村くんは泳がれへんやんか」
くそっ、藤野太一め。余計なことを!
一層、帰らせて貰えなくなった。
だから、人付き合いは苦手なんだ。どうにかして上手く断れないものか……。
その時、次男が口を挟んだ。
「気安うに泊まっていけ言うてるけど、高村さんは男と違うで」
思わぬ所から、天の助けと思ったのも束の間、
「男と変わらんと思うけどな」
住職は「太一、いつまでも喋ってんと服着替えてこんか!」と怒鳴りつけておいて、首を傾げた。
「一徳、今なんて言うた……?」
またか……。
「高村さんは、女の人やって言うたんや」
住職は、一瞬きょとんとした後、豪放磊落に笑いだした。
「男にしては可愛いらし子やなぁとは思たんや!なあ?一心」
長男は返答に困っている。母親が助け船を出した。
「いややわ、お父さん。男の子がこんな優しい顔してるわけないやないの。ねえ、高村さん」
目元が凛々しいだとか、眉が歌舞伎の助六か外郎売りみたいにきりっと吊り上がった男前眉毛だとかは、これまで散々、腐る程言われてきたことだが、優しい顔立ちなどと言ってもらえるのは、もしかすると十年に一度もないかもしれない。
「あ、電気付いた……」
送電が再開されたらしい。
一徳が何気なくつけたテレビの映像を見て、私は即刻思った。
これ、帰るの無理。
「ほ、ほら、一徳。高村さん女の子やねんから、こんな中帰らせたら余計に危ないでしょう」
と、夫人が言う。
強風に煽られ横転したサラリーマンが、そのまま吹き飛ばされるように川の中へ消える、という衝撃映像を目の当たりにした一徳は、開いた口が塞がらないまま、母親の意見に同意した。
見てはいけないものを見てしまった空気が部屋中を漂っている。
あれを見なかったのは着替える為に部屋を追い出された三男坊だけだ。
一心がテレビに向かって真摯に合掌しているのが、生々しくて嫌だった。
後日、テレビでこのサラリーマンのインタビューにより無事を知るまで、この映像は長く私たちの心に棘となって刺さった。
「ほんなら、高村さんには本堂に泊まってもらお」
と、微妙な空気を打ち払って、住職が膝を打った。
「いくら、うちに独り身の息子が三人おっても、仏さんの前で不貞は働かれへんやろ」
なんだかんだいいつつ、着替えからまだ戻らない三男を除く藤野一家は、私を本堂に泊める方向で意見がまとまったようだ。
私は寺の本堂なんて空恐ろしいところの世話になどなりたくなかったが、だからといって、いい年した大人が仏像が怖いので本堂は勘弁してくださいなどと言いだせるわけもなく。
「遠慮なさらずに。これも御仏がお結びになった御縁でしょう」
との厳かなお言葉をご長男から賜った私は、風に飛ばされても構わないから家へ帰してくれと思いつつ、「恐縮です……」と頭を下げた。
「お布団はこっちで用意しときますさかい、ゆっくりしていってくださいね」
住職夫人から菩薩オーラが発せられている。
母親というものに優しくされ慣れていない私は微妙にたじろいだ。
彼女は、少し早いけど夕飯の支度をしてくると、台所の方へ入っていった。
そういえば結局、移動やら何やらで昼飯を食い損ねていた。
「いいお母さんですね」
「そうかぁ?」
何時の間にか着替えを済ませて戻ってきた藤野さんが隣に立っていた。
どうやら風呂まで入ってきたらしい。
「うちのおかんみたいなんがええの?高村くんのお母さんは美人やって聞いたけど」
何処から小耳に挟みやがったんだ。
「私の顔をじっと見たって無駄ですよ。父親似なんで」
「……せやろな」
「会ったこともない癖にしみじみ言うのやめてもらえますか」
「気ぃつけるわ」
というものの、藤野には反省の色はない。
そこで私は先手を打った。
「家族写真は見せませんよ」
「残念」
私はマジで父親似なのだ。
さらに言うなら、曾祖父に瓜二つなのだそうだ。だから実家の仏壇の上に飾られている写真は一切見ないようにしている。
一応女として生まれた身にしては、笑われる要素が多すぎはしないだろうか。
「どんなお母さん?」
「うちの母ですか?」
我が母君は、半放任主義にして超スパルタ主義だ。それも、我が子を千尋の谷に突き落とすどころか、思い切り反動を付けて投げ飛ばすといった感じの人だ。
そう説明すると、今や私と藤野さんしか残っていない室内に、居たたまれない沈黙が訪れた。
「で……、高村くん。ホンマに本堂で寝るの?」
「住職が勧めて下さったので」
「寝るねんな?」
「寝ます」
わかったと言って、藤野さんは奥へと引っ込んだ。
「お母ちゃん、俺も本堂で寝るわ」
「はぁ!?あんた何言うてんの?」
と、仰天したような住職夫人の声が向こうから聞こえる。
「どうせ俺の部屋、物置みたいにされて人間が寝られる状態と違うやん。今日は兄貴も帰ってきたから、兄貴の部屋は使えへんし」
なんか、実家ならではの哀愁漂う話が聞こえてきたような気がする。
何を必死になっているのかはわからないけれど、藤野さんの声だけはよく聞こえてきた。
「俺と高村くんの間には、疚しいことは何一つない!」
確かに、それは無い。髪の毛一筋ほどの疚しさが入り込む隙さえ無い。
「それに高村くん、ホンマは仏像怖いねん」
あの野郎っ!人の恥をばらしやがって!!
他人様の家で怒りの捌け口を見つけることもできず、不完全燃焼のまま燻っていると、話を終えたらしい藤野太一が戻ってきた。
「俺も隣で寝かせてもらうから、寝てる間に蹴り入れンのは勘弁やで」
冗談交じりに言うその顔色が、少し青ざめているのが気になったが、
「枕投げなんか付き合いませんからね!」
「そんなんとちゃうわ」
「寝首でもかくつもりですか」
新手の締め技でも会得したのだろうか。
毎度毎度、新技の実験につかいやがって……。
奴に向かって下克上を叩き付けようか思案している私の頭を、片手で押さえ付けて置いて、藤野は声を潜めた。
「……阿呆、うちの本堂、出るんや」
何が、とは言わなかった。
しかし私には、その一言で十分に伝わった。
その時、雷鳴が一際高く轟いた。
何はともあれ、実家に連絡を付けないことには始まらない。
今夜はきっと私の分まで夕食を用意して待ち構えているはずだ。
明日、帰るなり母の鉄拳を浴びせられては敵わない。
そう思ってポケットを探ったのだが、携帯電話が何処にもない。
落としたか……?
軽く目眩がした。
この雨の中を落としたとなれば、見付かったとしても買い替え必須だ。
「車ン中で落としたんちゃうか?兄貴、ちょっと見たりぃや」
一徳は、弟の頼みを始めは嫌がっていたが、なくしたのが私の携帯電話だとわかると、急に態度を変えた。女遊びが激しいだけに留まらず、見境もないらしい。
「じゃあ、高村さん見に行こかぁ」
私の嫌いな猫撫で声で言われて、イラっとした。
傘をさして一徳が私の先を歩く。傍目にも浮足立っているのがわかる。
「やっぱり、女の子がおると家が華やかになるな」
「それは無理があると思います」
苦しすぎる意見だ。私に華などあるものか。
それより、雨で足元が悪いんだ。しっかり歩け。
そしてこっちへ泥はねなんか飛ばすな。
車まで探しに行ったはいいものの、何処もかしこも真っ暗である。
車内ランプの灯りだけでは、狭いシートの下にあるものでさえ、容易には探し出せない。
這いつくばってまで探したのに、探しただけ損だったかもしれない
一徳が差し掛けていてくれた傘を受け取って、私はシートの間から起き上がった。
「すみません、見当たりそうにないです」
「なぁ、高村さん。俺、ええこと考えてんけど。もしここに携帯あるとしたら、まず、こうするやろ」
と言って、一徳は、車内ランプを消してしまった。
「そんでな、太一に高村さんの携帯に電話かけさせたら一発で見つかると思わへん?」
言うが早いか一徳は、弟宛に電話を入れた
「太一か?あれ、なんか電波悪いな……。聞こえてるか!?」
雨の降りが激しいからか、電波の状態が安定しないようだ。
兄弟は二人とも怒鳴り合うようにして話しはじめた。時折、傘を打つ雨音と砂嵐のようなノイズに途切れながらの音声が、私の耳にまで届いていた。
「自分、高村さんの携帯の番号知ってるやろ。折り返しかけてみてや!え?折・り・返し、か・け・る・ねや!そうや、高村さんのとこっ」
一徳は、忌ま忌ましそうに通話を終了させた。
「あの鈍亀、まさか自宅の方にかけたりせんやろな」
相当とんちんかんなやりとりをしたらしい。
そう言っている側から、暗い車内で、小さな明かりが瞬き始めた。
窓越しに、聞き慣れた着信メロディーが小さく聞こえる。
「……新喜劇のテーマ」
「藤野さんからかかってくるとあれが鳴るようにしてあるんです」
「あいつ、お笑い好きやからな」
私は、見つかった報告を早いうちに入れて置こうと、鳴り続けている電話に出た。
「もしもし、」
無事に携帯電話見つかりました、と口にしようとして、私は言葉を失った。
電話回線の向こうから、不愉快なノイズに交じって、低い、女の唸り声が聞こえている。
唸り声は、藤野さんにも聞こえていた。
“……裏手にある林の方は絶対に見たらあかん”
真っ直ぐ前だけを向いて、声の原因となっている女には気付かれないように帰って来いと言う。
”家の中までは入ってこれへんはずや、早く”
電話が切れるのと同時に掻き消えたはずの唸り声が、今度は私の後ろ、雑木林の奥から響き始めた。
「……誰か、おるんか?」
一徳が不思議そうに眉を潜める。
辺りの空気がびりびりしているのは、きっと雨の激しさのせいだけではない。
そして、私達は見てしまった。
林の奥から、白い服をまとった人間が凄い速さでこちらに近付いてくるのを。
焦げたような臭いが、微かに漂っていた。
人の姿をしてはいるが、明らかに人間ではない。
かと言って、教方達の様な幽霊とも全く雰囲気が違う。言葉など到底通じそうになかった。
冷や汗が背筋を伝う。
こういう時、本能からのお告げというものはなかなか馬鹿にできない。
追い付かれたら最期だと思った。
「何や……あれ……」
呆然と林の方を眺める一徳の腕を引いて、正気づかせる。
「何してるんですかっ」
「……悪い、はよ行こう」
私達は得体の知れない恐怖に急き立てられるようにして、玄関まで走った。
その間、二人とも一言も口にしなかった。
私達が、居間に戻ってきた時、そこには誰もいなかった。
「兄ちゃんのとこやろ。太一に話したいことがある、て前から言うてたし」
まだ背筋がぞっとしている。
一徳は、それを紛らわすかのように饒舌になった。
「お茶いる?」とか、「熱いのでいい?」とか、「玄米茶と焙じ茶どっち好き?」に始まって湯飲みの柄に至るまで、普通聞かないようなことまで事細かに尋ねた。
話し続けていなくては、会話の途切れた隙間に、あの唸り声が忍び込んできそうだった。
そうやって無理矢理沈黙を埋めていると、玄関のチャイムが鳴った。
「……ちょっと出てくる。お客さん来たみたいやし……」
一徳の気乗りしない気持ちはよくわかる。
さっきの女が付いて来ていたらと思うと、腰が上がらなかった。
しかし、一人で行かせて、玄関先から断末魔の悲鳴が……!なんてことになったら後味が悪い。
「私も行って構いませんか」
「……ごめんな、今回はその方が俺も助かる……」
私達は血の気の引いた面を二つ並べて玄関に向かった。
磨りガラスの向こうに人影が見える。
もう一度、呼び鈴がなった。
「……どちらさん?」
一徳が恐る恐る問い掛けた。
「消防の者です!火災と増水で人員が足りないんです。協力をお願いできませんか!?」 声から察するに、切羽詰まった様子で呼び掛けているのは女性のようだった。
……この声、聞き覚えがある。
「すいません、今鍵空けます!」
一徳が急いで開けた戸の先に居たのは、奇しくも私の見知った顔だった。
「自分は、消防本部、救助隊第一班所属、広瀬……って高さんっ!?」
「……奇遇やな…」
そうとしか言いようがない。
そこに居たのは、私の小学校からの幼馴染み・
私も、広瀬もかなり驚いていた。つい先程の恐怖体験も忘れるくらいに。
広瀬は「なんでこっちにおるん!?」と聞きたそうな顔を瞬時に、仕事用に仕立て直した。友人どころではないのだろう。
「この下の所で家屋が倒壊して、まだ人が取り残されているんです」
「倒壊!?」
老夫婦が強風で押し潰された家の下敷きになっているらしい。
「手を貸していただけますか」
あちこちでの増水と強風被害で、消防署員はもとより、消防団員まで出払っていて手が回り切らないのだ。
「七軒向こうでは落雷から火事も発生していて、一刻の猶予もないんです!お願いしますっ」
「高村さん、この廊下の突き当たりに一心の部屋あるから太一ら呼んで来て!俺、お父ちゃん呼んでくるから」
久闊を叙す暇もなく広瀬は現場にとんぼ返りし、やがて寺に残っているのは私と住職夫人だけになった。
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