翌朝、公園の枝垂れ桜は、枝一杯に紅の花びらを開いていた。

 それを見た時、花が咲かない理由がもう何処にもないのだということを悟った。

 笹部はいなくなってしまったのだろう。

 つまり、あの人が訪れない恋人を待ち続ける苦しさに耐えることも無くなったのだ。

 雑誌も何処かへ行ってしまって、見つからなかった。

 私は桜など気に掛けない振りをして、職場へ向かった。

 業務はいつも通り。

 時折頭を過ぎる言葉は、是が非でも考えないようにしていた。

 それでも、気を抜くとやってくる。

 「淋しい」という言葉が。

 笹部とは、別れの挨拶を交わすこともできなかった。

 自分が選んでしたことだ。

 責めるべきは自分しか居ない。

 あの人が、あの記事を読み終わるまで、せめて一緒にいれば良かった。

 そんな思いが頭を掠めたが、それを無理矢理に振り払った。

 ……やめよう、感傷的だ。

 予め、覚悟してあったことじゃないか。

 鳴り出した電話を取る。

 一度、仕事に手を付け始めると、時間はあっという間に流れていった。

 昼前の事だった。

 インフォメーションの女の子から、私宛に内線電話が入った。

 人が訪ねてきているのだと言う。

 私のような駆け出しを訪ねてくる人物など、家族か友人くらいしか思いつかない。

 それなら連絡の一つも寄越すだろう。

 しかも、訪ねてきているのは若い男らしい。

 ますます見当が付かなかった。

 根拠もなく警戒心を抱きながら、エントランスへ向かう。

 がらんとしたエントランスには、職員の他、濃紺色の背広を着た男が一人居るだけだった。

 男の見覚えのある後ろ姿に、胸が詰まる。

「あっ、高村さん来ましたよ」

 私に気付いたインフォメーションの子が、男に声を掛ける。

 その声に促されて、男はこちらを振り返った。

 振り向かないでいてくれたら、どんなによかっただろう。

「……美術工芸二課の高村です」

 似ているだけだと、思いたかった。

「断りもなく訪ねてすまない。僅かな手間だが、時間が惜しかった」

 服装こそ異なっているが、声も背格好も顔立ちでさえ、あの人とそっくり同じだ。

「僕には時間が残されていないものだから」

 男はそう言って、儚げな微笑を口元に浮かべた。

 その姿形は笹部利彦そのものだった。

 彼の名前を尋ねようとしたのに、言葉が喉につかえて、私はそのまま押し黙った。

 そんな私の心中を見抜いたかのように、男は言った。

「信じて貰えないかもしれないが、笹部です」

 私だけに聞こえるよう、小さな声で。

 何かに化かされているのではないかと思った。

 まるで生きているかの様に、笹部が目の前に立っている。

 私以外の人間にも彼の姿が見えているようなのだ。それに、まったく体が透けていない。

 インフォメーションの女の子が二人、声をたてずに私に向かって何か言った。

 そちらに注意を向けると、二人の唇は示し合わせたかの様に「彼氏ですか?」と動いた。

 私は慌てて首を横に振った。

「……高村さん…?」

 自分の後ろで何が起こっていたのか知らない笹部(仮)は、不思議そうな顔をした。

 どうにも確信が持てないので、ここでは(仮)としておく。

 インフォのお嬢さん方の視線が痛い。

 頼むから小声で冷やかさないで下さい……。

 私に聞こえているのだから、よりインフォメーションカウンターに近い位置にいる笹部(仮)に聞こえていないはずがない。

 幽霊であるが故の直情径行からか、笹部(仮)にはそんなこと気にならないらしい。

 私が黙っているのが不安なのか、そっと私の頬に手を触れた。

 そこに私が存在していることを確かめるかのように。

 その手はひんやりとしていて、最近慣れ始めている幽霊の手の温度だった。

「何で……。どうして……、いるんですか……」

 この世への未練は無くなったはずなのに。

 彼は臆面もなく言った。

「最後にもう一度、貴方に会いたかった」

 ……ぐうの音も出ない。

 私は赤い顔をして突っ立っているより他無かった。

 手強い……。この手強さは、本物だ。

 私は(仮)を外すことにした。

「それに以前……」

 言いかけて、笹部は口籠もった。

「以前……、案内してくださると…」

 自分の申し出が図々しいとでも思っているのだろうか、それとも私が覚えているかどうか心細いのだろうか。笹部は躊躇いながら口にした。

「……勿論、覚えていますよ」

 この状況はいろんな意味で恥ずかしくてかなわないのだが……。

「喜んで案内させていただきます」

 彼がここにいることが、嬉しかった。

 私は、インフォメーションの所で内線電話を借り、主任に連絡を取った。

 少し早いが、昼休みをくれるそうだ。

 すみませんと繰り返す私とは対照的に、主任は受話器の向こうで楽しそうに笑っていた。


 微妙な距離を保ちながら、笹部と並んで歩く。

 周りに人がいるのは恥ずかしかったが、二人だけになると余計に緊張する。

 しかも、平日の常設展ともなれば、人足も途切れ途切れだ。

 手を繋ぐとか、そういう発想の無い人で良かった……。

 そんなことになったら、私は発狂しそうだ。

 それよりも実際に起こるとすれば、突然抱き寄せられるとか、気が付けばあの世でした等の危険性の方が高いような気がする……。

 歴史関係の展示室を抜けて、美術工芸の展示室へ辿り着いた。

 ここまで歩きながら何を話したのか全く覚えていない。

 余所事にばかり気を取られて、上の空だったのだと思う。

 笹部の一挙一動に緊張していては、解説など務まるはずがなかった。

 これでは職業人として給金をいただいている資格がないな……。

 美術工芸は専門分野だという事もあり、私は解説に専念しようと心に決めた。

 「好きこそ物の上手なれ」との至言通り、得意分野であるから口数は増える。しかし、饒舌になったとはいえ、私に余裕が無いのには変わりなく、はっと気付いてみれば、笹部は展示されている絵画ではなく、私の顔を注視していた。

「………す、みません。べらべらと喋りすぎました……」

 呆れられてしまっただろうか……?

 相手の顔色を窺っていると、笹部が言った。

「喋り過ぎているようには思えないが……」

「そうですか…?」

「もっと質問しても構わないだろうか」

と、笹部は、別の絵を指し示した。

 お世辞であっても、そういう言葉をいただけると嬉しいものだ。

「勿論です」

 掌の上で転がされている様な気がしないでもないが。

 それからようやく平生の勘が戻って来たのだが、落ち着いた分、笹部の視線が気にかかった。

 絶対に展示を見ている時間より、私の顔を見ている時間の方が長い。

 「……何ですか?」

 考えてみてもわからないので聞いてみた。

 笹部は、ご婦人の顔をまじまじと見るなど失礼をした、と謝った。

「一昨年からは、貴方の落ち込んだ表情を見ることの方が多かったので、つい……」

 つい、の後に続く言葉を笹部は口にしなかった。

 私は訊くに訊けなかった。

 訊いてしまえば、深さ二百メートルくらいの墓穴を掘りそうな予感がしていた。

「けれど美術のことを話している貴方は、本当に楽しそうだ」

 そんな様子が見れてよかったと、笹部は言った。

 これまでは帽子の下に隠れてしまいがちだった笹部の表情が、今日はよく見える。

 笹部が嬉しそうにしているものだから、照れくさいような嬉しいような、変な気分だ。

 さっき、笹部は「一昨年からは」と言っていた。つまり、それ以前の私と比較することができる、と言うことだ。

「私がここに就職する以前から、私のこと御存知だったんですか…?」

「知っていたよ。貴方がまだ学生の時分から」

 好きになったのはもっと後のことだけれど、と言いながら、笹部は壁面の油絵に視線を移した。

「あの頃は、まさか貴方の名を知る事ができるとさえ思ってもみなかった」

 今度は、私が彼の横顔を眺めている。

「だから今、こうしていられることを堪らなく幸せに思う」

 体の外にまで聞こえてしまいそうな程、心臓が早鐘を打った。

「……光栄です」

 自分でも他に言い方があるだろうと思ったが、咄嗟にはそうとしか答えられなかった。 笹部は可笑しそうな表情を浮かべて、私の髪を撫でた。

 そして、名残惜しそうにその手を離す。

「長々と時間を取らせてしまって、すまなかった。もう休みも終わる頃だろう。僕はそろそろ失礼しよう」

「利彦さんが訪ねてくれて、嬉しかったです……。二度と会えないと思っていましたから」

「……会えない、とは?」

 笹部は怪訝そうに言った。

「桜が、咲いていたから」

 私が答えを返すと、そんなことか、と言って笹部は、安堵の表情を浮かべた。

「……高村さんの仕事終わりを待たせて貰ってもいいだろうか?」

 もう少し話をしたいのだと、笹部は言った。

「今日は遅くなりますが……」

 私達は夜にまた会う約束をして、その場を離れた。


 急いで仕事に切りを付けたのだが、日はとっくに暮れていた。

 職員用入り口を出ると、駐車場横の植え込みの向こうに笹部が待っていた。

 彼のこれまでのことを考えると、あまり待たせたくなかったので、私は小走りに駆け寄った。

「急がせてしまったな」

と、笹部は困ったように微笑んだ。

「私が気忙しいだけです」

 つられて笑っておいて、私は急に恥ずかしくなった。

 この人の前だと、猫被っているような……。

 秋さん、と呼ばれて、私は俯けた顔を起こした。

 人前とそうでないところとで名前を呼び分けられていると気づいたところで心臓の動悸が増した。こういう時、脳はもう少し鈍感であって欲しい。

「昼間は楽しかったよ」

 私は言語というものを見失ってしまったらしい。

 しばらくの間、赤い顔で口籠もっていた。

「ありがとうございます…」

と、タイミングも何もかもがずれた返答をすると、笹部はまた静かに笑みを零した。

 目を奪われそうになるのを制しながら、私は尋ねた。

「あの、海は良かったんですか」

「海には何の思い出もありません。それに、僕の想い人もそこにはいません。秋さんは、海がお好きですか」

「えっ、いえ、特には……」

「では特に僕にとっても重要ではない」

 これ以上は脳が瓦解すると思い、私は話を逸らした。

「あ、あの、公園まで歩きませんか?」

 なんだか、あの枝垂れ桜を見たかった。

 夜空の下に、八重咲きの花びらが幾筋もの流れを作っていた。去年と変わらない姿で。

 静まりかえった中に響いていた足音の高さが変わる。

 桜の周辺だけ、石畳が変化していた。

 こちらと、向こう側との境界なのだろうと思う。

「貴方だったんですね……。去年、私を慰めてくれたのは」

 一年前、この境界の上で、私は初めて笹部の存在を見つけたのだ。

 けれど、今日で最後だ。

 今日別れてしまえば、本当に二度と会うことはないだろう。

「夢だとばかり思っていましたが……」

 だから最後に、伝えておこうと思った。

 私は、笹部の顔を真っ直ぐに見上げた。

「その時から……、利彦さんの事が好きでした」

 指先が凄く熱くて、微かに震えている。

 平衡感覚がおかしくなりそうだった。

 座り込んでしまいそうな私を笹部の腕が支える。

『もう一度、言ってくれるとは思わなかった』

 そう言って、彼は私を抱きすくめた。

「……もう、一度?」

『ああ、貴方は覚えていないかもしれないな』

 引き寄せられた笹部の胸は、背広ではなく例の制服のもので、それが酷く切なかった。

『酔っぱらった時に、僕の膝の上で教えてくれたよ』

 記憶もないほどに酔いが回っていた私は、そんなことをしていたらしい。

『これもそうだったな』

と言って、笹部は歌を一首口ずさんだ。


 陸奥のしのぶもぢずり 誰故に乱れそめにし 我ならなくに

 

「貴方のせいです」

 彼の制服の袖をぎゅっと握りしめた。

「こんな気持ちになるのは全て……」

 泣いてしまいそうで、私は奥歯を噛みしめた。

 笹部は私に頬を寄せて、そっと呟いた。

 嬉しい咎だ、と。

『秋さんには世話になってばかりだった』

 背中に回されていた腕が片方離れて、

『何か御礼をしたいのだが、僕にあげられるようなものはこれぐらいしかない』

制服の内側から何かを取り出した。

『こんなものでも形見と思って取っておいてくれると嬉しい』

 そう言ってにポケットに差し入れてくれた物が何なのか、私には見えなかった。

 ただ、大切にしますと答えて、彼の肩口に顔を伏せた。

 笹部はさらに強く私を引き寄せた。

 同時に、別れが近くなったことを、私は痛感した。

『本当はこのまま連れ去ってしまいたい』

 一際高く、心臓が脈を打つ。

『けれど、それは僕の我が侭だ』

 静かで、優しい声が耳元で別れを告げる。

 この心臓が、初めから止まっていればよかったのに。

『そうなればきっと、楽しそうに話す貴方を見ることもなくなるだろう』

 彼の名を呼びたくても、声が出なかった。

 冷たい指が私の頬を撫でる。

『忘れません。たとえ、二度と出会うことがなくとも』

 そして私達は最後に一度だけ、唇を重ねた。

 確かに私の腕の中にあったはずの体が、次第に消えて行く。

 私の手の平に羅紗の感触を残したまま。

 やがて指は空を掴み、後には散り落ちていく紅の花びらがあるだけだった

 私は一人、闇の中に立ち尽くしていた。


 あれほど見事に咲き誇った桜は、翌日の雨で、ほとんど散っていった。

 あの時の事が、まるで幻であったかの様に思える。

 私は、薄縹色の空を透かせて僅かに咲き残っている花を見上げた。

 彼が残していったのは、一冊の手帳だけだ。

 この花も、すぐに跡形もなく消えてしまう。

 手帳と、その中に挟まれていた一枚の写真が、彼の存在を証明していた。

 そのモノクロームの古い写真だけが、笹部の姿をとどめていた。裏に記されていた走り書きによると、就職が決まった時に彼の父親が手ずから撮ってくれた物らしい。

 こんな一枚の紙が愛しくてならないのだから、人間とは不思議なものだ。

 写真の中の彼は、あの濃紺の制服を着て、どことなく誇らしそうに微笑んでいた。

 本当はあの時、このまま連れて行ってくれればいいと、少しだけ思っていたなんて、口が裂けても言えるはずがない。


 桜の花と共に過去を見送り、散りゆく花びらが新しい出会いと命を運んでくる。

 日ごとに、陽の光は輝きを増して、鮮やかな緑をはぐくむ。

 そして鳥は高らかに春の喜びを謳い、新しい生活の始まりを告げる。

 ほんの少し、私は春を好きになったかもしれない。

 それでも、私にとっての春は追憶の季節だ。

 来年はこの枝垂れ桜の花の下で、きっと貴方を思っている。

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