その日、私は足を棒にして古書店を巡っていた。例の婦人雑誌を探すためだ。

 出版社に問い合わせてみたところ、運の悪いことに丁度その号だけ紛失されており、記事を書いた記者もとっくに無くなっていた。

 だが、わかったことが幾つかある。

 記事の取材が行われたのが、河中初音が逝去する一ヶ月半前、雑誌が出版されたのは、その死の二週間後であると言う事。

 そこに出版社のデータベースに残っていたという雑誌の出版日を考え合わせると、彼女の命日が特定出来る。

 その命日から少なくとも二ヶ月後までの新聞を調べていけば、死亡記事が見つかるかもしれない。

 それに関しては、現在別の出版社で歴史や文化系の記事を書いている友人に頼んで調べて貰っている。

 屋内労働が染みついた背中には、春の日差しが、嫌になるくらい熱い。

 小学校の遠足を思い出した。

 朝から探し続けて、時刻は正午を回ったが、収穫はまだ無い。


 これで、何件目になるだろう。

 日暮れ間近になって、漸く見つかったのだ。

 店舗自体、へしゃげかけたような店の埃だらけの床の上で、それは見つかった。

 出版年と号数を確認する。

 店の奥へ声を掛けると、夕闇の中でのそり、と影が動いた。

 サンダルをつっかける音がする。

「あの…、これ見せて戴けませんか?」

 私は、顔も上げずに言った。

「ど~ぞ、ご自由に」

 少しハスキーだが明るい声がそう言った。

「………!?………」

 驚いて顔を上げると、そこには長い髪をアップにして、露出度の高いドレスを纏った、中東風の女性がメイクも途中に立っていた。。

「アタシ、これからお店行かなくちゃならないのよね。三十分くらいで済ませてくれるとありがたいンだケド」

 言いながらも、化粧があっという間に進んで、顔が仕上がっていく。

「ごめんねぇ。ここの店主とこの裏にあるベリーダンスのお店のダンサーと兼業してるんだあ。なァに?これでいいの?」

「え…、はい……」

「えっとね……、2000円。値札書き直さないと駄目ねぇ。消費税はオマケしとくわ」

 店主は声が大きくて気さくだ…。関西のおばちゃんを思い出すのは私だけか?

 商品を包んでくれた紙袋には、「立志堂古書店」の文字が躍っている。

 それを受け取るのに、まじまじと顔を眺められて、居心地の悪い思いをした。

「アナタ変わってるのねえ、若く見えるけど。こんなお店入ってこようっていう人なかなか居ないのよ。……わかった!ひょっとして学者さん?」

 店主は、学者=変人と暗に言い切ってくださったが、どことなく愛嬌があるので、嫌みな感じは無い。

「学芸員です」

「あ~ら、ホントに?これからもご贔屓にしてくれると嬉しいわ。ここ難しい本が多くって。一般受けしないのよぉ。それにアタシ、インテリとか好きなの。こう見えても、教養は結構高くってよ」

 積み上げられた本に目を移すと、人文科学分野の専門書が国籍雑多取り混ぜて、無造作に置かれていた。

 視線を戻すと、彼女は、私にウインクを飛ばした。

「アタシ、宇佐見ナオ。前は半分日本人。でも帰化したからちゃんと日本人よ。おじいちゃんたち頼りにこっちに来たの。よかったらアナタの名刺もいただけないかしら?」

 そう言いながら差し出された店主の名刺には、画面一杯に丸文字で印刷された「なおちゃん」という名前とこの店の住所、それからメールアドレスが乗っていた。

 こちらも名刺を取り出して、宇佐見に渡した。

「ありがと」

 宇佐見は、にっこりと特上の笑みを見せた。

「また来てね。それまでにはお店キレイに掃除しとくし」

 どことなく覚束無い足取りで店を出る。

 なんだか狐にでもつままれたような気分だった。


 それから、駅前の喫茶店に入った。

 一息吐いたところで、私はさっきの雑誌を広げる事にした。

 特に貴重品であるわけでもないのに、お絞りで念入りに手の皮脂を拭き取ってしまうのは職業病だろうか。

 恐る恐るページをめくる。

 埃まみれだった癖に、保存状態がいい。

 写真の中の河中初音は、年老いてはいたが美しい人だった。

 おっとりとした物腰が写真を通じても伝わってくる。

 河中という苗字は、嫁ぎ先の物に変わっていた。

 晩年は国内・国外を問わず、孤児や貧困者の救済に奔走していたようである。

 記事はそれら活動の他、彼女の生い立ちや人生についても取材していた。

 女の人生と結婚は切り離せないのだろう。この話題には、彼女が行っていた活動の子細よりも、ずっと多く誌面が割かれていた。

 その中に、こんな文章を見つけた。

『わたくし、本当は主人の事があまり好きではありませんでした。互いに、親同士が勝手に進めた結婚でございましたから。それでも、主人はやさしかったし、とても大切にしてくださいました』

 私の心中は、読み進めるほどに複雑になる。

『でも、わたくしには将来を誓いあった方がいましたから、はじめは、主人のことはあまり好きになれませんでした 』

 人の思い出を勝手に覗いている、後ろめたさを感じた。

『それに、その方と二人、何処かへ逃げてしまうつもりでした。けれどわたくしが家の者に見つかってしまって、失敗してしまったのです。わたくしから言い出したことなのに……。必ず参りますと、約束していたのに……』 

 記事はさらに、事細かに彼女の過去に言及する。

『わたくしより一つ年上の警察官で、Sさんとおっしゃいました。仕事の時は大変厳しい方で、怖いくらいでしたが、普段は優しくて真面目な方でした。わたくしが最後にお会いした時も、お仕事の最中でした。巡回の途中で。わたくしは挙式をニ週間後に控えていて、亡くなった主人に連れられて街を歩いていました』

 自分の事でもないのに、ひどく悲しかった。

 笹部の感情に取り込まれてしまったかのような気分だ。彼に同情しすぎているのかもしれない。

『わたくしは、あの晩、家の者に見つかってからはずっとうちの中に閉じ込められていたものですから、Sさんにお会いするのは本当に久しぶりでした。このまま連れて逃げてくれないものかとも思いました。けれど、言い出せなかった……。お仕事の邪魔をして怒られたらどうしようかと思って…。決して仕事に私情を挟まない人でしたから。でも、Sさんはこの時、たった一言だけ、「幸せになってください」と、すれ違い様にわたくしに言い残して行かれました』

 馬鹿な人だ、あの人は。

 自分の気持ちを押し殺して、言葉をかけたのだろう。

 諦めようという気持ちもあったのかもしれない。

 けれど、諦めきれなかったのだ。

『後にも先にも、あの人が職務中にわたくしに言葉をかけてくださったのは、この時ただ一度きりでございました。それから程なくして彼は亡くなりました。自殺なさったのだと聞いています。わたくしも死ぬ事を考えました……。でも、幸せにとおっしゃったあの言葉が忘れられなくて、わたくしは絶対に幸せにならなくてはいけないと思いました。わたくしは、今日までその言葉に支えられて生きて参りましたわ 』

 記事はまだ続いていたが、もう読むのは止そうと思った。

 ただ記事の最後に付け加えられていた一文が私の目を引いた。

 他の文章に比べて、明らかに様子の違うその一文にだけ、私はもう一度目を通した。

『女史は、本誌発行直前に急逝されました。遺骨は、ここで語っておられた通り、遺族の方々が海に散骨なされたそうです。編集部一同、ご冥福をお祈り申し上げます 』

 やっと手掛かりを見つけたと思ったのだが…。

 深い嘆息と共に、私は雑誌をテーブルの上に投げ出した。


 駅の改札の手前で、携帯電話が鳴った。

“もしもし、高さんっ!?本宮ですっ!じゃなかった、コハルです”

「コハル…、声大きい…」

 ……耳鳴りがしている…。

 勢い込んで話し過ぎだ。頼むから、もう少し考えてくれ…。

 私は、電話から耳を遠ざけた。それでもよく聞こえている。

“あっ…ごめん。あのね、頼まれてたやつ見つけたよ。長男が喪主で、竜円寺でお葬式したみたい。新聞に載る一週間以上前に親族だけで済ませてるけど。夕方からお別れの会を開くって告知が載ってる。でも、お骨はとっくに灰にして海に流したって”

 彼女の就職先は、歴史と実績のある大手出版社であり、しかも彼女が所属している編集部は特に、顔が広い。それでも、ここまで早く結果が出るのは、彼女の有能さ故だ。

 これでこの天衣無縫も度が過ぎる性格が収まれば、完璧なのだが……。

 私が博物館に就職した当初、幽霊が多いと忠告してくれたのもこの友人である。

 彼女が残してきた様々な伝説はそのうち紹介することにしよう。

「それで、分骨とかは?」

“新聞には何も……。お寺に聞いてみればわかるかも”

「竜円寺だったよな?」

“うん、浄土宗だったよ。そうだ、お寺の電話番号メールで送るね”

「さすが、コハル。助かったよ」

“どういたしまして!高さんの作ったガトーショコラ楽しみにしてるから!またね”

「今度差し入れるよ」

 苦笑しながら電話を切った私は、表情をニヤリと豹変させた。

 確率は五分五分だが、浄土宗なら、使えるかもしれないコネがあるじゃないか。

 きっと今頃、藤野太一は何処かでくしゃみをしている事だろう。


“竜円寺の住職ぅ?”

 藤野さんは電話口で素っ頓狂な声をあげたかと思うと、今度は大きな溜息を付いた。

“めちゃめちゃよう知ってます。俺の親父の知り合いです。ってか、俺のマンション借りる時に保証人してくれたのもその人です……。で、何なん?”

「ちょっとある人の遺骨が分骨して納められていないか聞いていただきたいんです」

“また突然な……。プライバシーに関わることやからなぁ。教えてくれるとは限らへんで”

「だからわざわざ伝を頼ってるんです。墓に参ろうにも、海に散骨したとかで、竜円寺に分骨されていなければ海にでも参るしかありません」

“……何かあったんか……?”

 藤野さんは訝しそうに尋ねたが、

「……巻き込まれたいんですか?」

の一言で口を閉ざした。

 さすが幽霊嫌い。

 裏に成仏出来なかった霊魂が絡んでいるという事を、たったこれだけの言葉から読み取ったらしい。

“わかった、聞いたるから……。ほんで、その人名前は?”

 懐柔成功。脅迫成功とも言うが。

 やはり人脈は広げておくに越した事はない。

 それでこそ、藤野が仕掛けてくるプロレス技の数々に日々耐えてきた甲斐があるというものだ。

 一応承諾はしたものの、心底関わりたくなかったからに違いない。

 藤野さんからの返事は、二時間ほどで返ってきた。

 しかし、これまで事が順調に運んでいたからといって、それが長く続くとは限らない。

 竜円寺からの解答に、私は頭を抱えた。

 河中初音の葬儀自体は竜円寺で行われたものの、分骨はされていなかったのだ。

 最悪の結果と言えるだろう。

 私の取れる行動は限られていた。

 その一つは言うまでもなく、笹部を散骨がなされたという海へ連れて行く事。

 幽霊を連れて海。何とも間が抜けているが仕方がない。

 問題は、笹部をあの場所から連れ出せるかにかかっている。

 幾つかあるうちで、私が最も悩んでいるのが、手に入れた雑誌を笹部に見せるかどうかという事だ。

 女心という物でさえよくわかっていないというのに、男心の機微など私にわかるものか。

 意見を聞こうとしても、私の周りにいる連中は時代が隔たりすぎで参考にならない。

 一人だけ同時代の奴が居るが、笹部を毛嫌いしているので相談するのは気が引けた。

 恋慕の情だとか、複雑なことを考えるのはやめだ。

 私は、もう一度雑誌を広げた。

 その言葉をかけて貰って嬉しいか否か。

 そんな単純な価値基準から判断することにした。


 私が公園に足を運んだ頃には、夜はとっくに更けていた。

 単車のヘッドライトが消えると、闇に目が眩んだ。

 だが、その眩んだ目にもはっきり映る人の姿があった。

 陽平だ。

 硬い表情のまま近づいてきた陽平は、単車を挟んで私と向き合った。

『本当に構わねえんだな?』

 何の話だろうと、私は眉を顰めた。

『この世への未練から切れた奴は、そう長いことこの世に留まっていられなくなる。それでも、いいのか』

「わかってるよ」

 笹部は、自分の死んだことも知らずに泣き続けていたウィリアムや、江戸の行く末などという漠然としたものに未練を持っていた冬悟などとは違う。

 この件が片付いてしまえば、彼をこの世に繋ぎ止めるものは存在しなくなる。

「でも、私はそれでいい」

 陽平は何とも形容しがたい表情を作った。

「あの人の気持ちを知っていて、敢えてこの世との楔を断とうとしている」

 最初は、あの人が辛い思いをしなくなればいいと、それだけを考えていた。

 だが、今は違う。ずっとそれを自分の感情として認識するのを拒んでいる、もっと個人的で、冷ややかな感情が同時に根底にあった。

「酷い仕打ちだろ?……自覚はあるんだ」

 だから何も言わないでくれ、と私は頼んだ。

「でも、こんな本の一冊で納得して貰えるかはわからないけどな」

 手の中のそれは、なんとも頼りなく感じた。

『秋ちゃん……、あの笹部って野郎は、女のことに気を引かれてこの世に留まった。その巡査が、別の女に心を動かされてる。生半可な思いじゃねえって事だ』

 陽平は、率直な言葉を選んだ。

『……あの世まで諸共に連れて行かれないように気を付けろよ』

「付いて行かないさ」

 即答を返す。

「当分の間はアンタらと馬鹿騒ぎして、それからくたばる予定だ」

『俺は、仲間に嘘吐かれんのだけは嫌いな性分だ』

「奇遇だな。仲間にだけは、嘘は吐かない性分なんだ」

 『秋ちゃんには負けるぜ』と笑いを噛み殺しながら、陽平は闇に姿を消した。


 これまで調べたことは、すべて笹部に話した。

 彼はじっと耳を傾けていた。何も言わない。

「面目ないことに、お役に立てませんでした」

 そうは言ったものの、否定して貰いたい訳ではない。

 だから私は、笹部が何か言おうとするのを遮った。

「私が見つけられたのはこれだけでした」

 笹部の手に雑誌を押し付ける。

「初音さんが亡くなる暫く前に受けられた取材の記事です。貴方の事も載っていました」

 月の光が、笹部の顔に影を作っていた。表情を読むことはできない。

「少しでも、慰めになればいいのですが」

 貴方が二度と辛い思いをしなくて済むようになればいいと思う。

 ほんの僅かな間でも、貴方が本当に私だけを…。

 私だけを思ってくれたらいいのにと願う。

「……それは、置いていきます。海も、明日の夜なら御一緒出来ます」

 帰ろう。

 形になって欲しくない感情が、首をもたげた。酷く動揺している。

 早くこの場から逃げ出してしまおう。

 明日ならもっと、体裁良く振る舞えるはずだ。

「返事は、改めて聞きに来ますから」

 私は、逃げた。

 きっと、記事に目を通したあの人がどんな表情をするのか、それを見るのが怖かったのだ。



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