見ない振りをしていても、着々と溜まっているストレスからは逃げられないようで、それは無視していた分振り幅を大きくして、我が身に返ってきた。

 無理矢理出勤して来たというのに、資料を目前に広げたまま、私は何も考えられなくなった。もう三時間ばかりほとんどなにも手に付いていない。

 単語は認識出来るのに、それを文章として繋ぐことができないのだ。

 自分が何を書こうとしているのか、わからなくなってしまった。

 今の状況を含め、一心不乱に進めてきたこれまでの仕事の反省、後悔で頭がぐちゃぐちゃだ。

 結局自分は駄目な奴だ。

 藤野さん達は出払っていて部屋には私一人。

 頭を抱えて、机に突っ伏していると、突然誰かが私の肩を叩いた。

 リストラ……?って……まさかっ!

 がっと身を起こして振り向くと、いつもながらに紳士的な主任の笑顔……。

「……これですか?」

 立てた親指で首を切る動作をしてみせると、主任は快活な声で笑った。

 そして、柔らかな笑みを残したまま言った。

「うちの課長からの預かりものだよ」

「はぁ…、課長から……」

 主任の手から、細めの事務用封筒を受け取った。

 って、課長って……、うちの課長って…。

「ふ、副館長からですかっ!?」

 当館の副館長はどういう理由か、二課の課長を兼任していらっしゃるのだ。

「それでも読んで元気を出しなさい、高村くん」

 主任は、もう一度私の肩を軽く叩くと、歴史学課の部屋へ消えていった。

 元気を出しなさい、と言うからには、免職処分を伝える文書ではないという事だ。

 宛名は、見紛うことなく私の名前になっている。

 封筒を裏返すと、差出人は私が貸し出し交渉を行っていた中国の学芸員の名前。

 一番交渉が難航した所だ。交渉の返事が来たのだろうか。

 それと封筒には、蛍光ピンクのポストイットが一枚貼ってあった。

 ポストイットには、「文物をお借りするにあたって、向こうから返事を戴きました。その中に、高村くん宛にきていた物が有りましたので、大沢主任に預けておきます」と、副館長らしい達筆、しかも毛筆で簡潔に書かれていた。

 なんだろう。

 心当たりの無いことに首を傾げながらも、封を切る。

 便箋には、最近とてつもなく見慣れてきた外国語がびっしり書きこまれていた。

 一度、頭から終わりまで目を通してみて、私は目を疑った。

「ははっ…、まさか……」

 独り言を口走ってしまうくらい、それは衝撃的だった。

 最も信じられなかった一文を、何度も読み返して、今度は辞書を引きながら訳しなおしてみた。

 確かに、こう書いてある。

 「展覧会の趣旨や設備環境は元より、何よりも貴方の熱意を見込んで、海外では未公開となっている一連の文物の一部をそちらの博物館に貸し出すことに致しました」

 先程までとは別の意味で思考が凍結する。

「嘘だろ……」

 呟いてみたところで、私の手の中には封筒も便箋もしっかり存在している。

 試しに自分の頬のひとつも平手打ちにしてみるべきだろうか。

 しかし、そんなことをする必要はなかった。

 がっすん、と頭部に重い衝撃が…

「ッ……!!?」

 あまりの痛さに涙目になる。

「………いったあ……」

 私の頭の上から、聞き慣れた声がする。

「何のつもりですか!?藤野さんっ」

 後頭部を押さえながら振り向くと、藤野さんは顎を押さえ悶絶していた。

 アンタどれだけの勢いでぶつかったんだ…。

「痛ぁ……。やのうて!高村く……」

「高村くんっ!」

 また、なんか来たっ!!

「よくやったわ!」

「ひ、日浦さん?」

 日浦さんは、私の首にたおやかな腕を巻き付けて、ぎゅうっと抱きついた。

 背中越しでもわかる。なんだか、ひどく嬉しそうだ。

「主任から聞いたわ。高村くんが例の海外未公開の貸し出し取り付けたって!」

「あ~もう、ねえさんに先言われたやんか…。取りあえず、高村くん!大手柄や!」

 藤野さんは大きな手で、私の髪をがしがしと掻き乱した。

 何時もなら鬱陶しいと思うのに、今日は何だが嬉しかった。

「頑張ったな」

「だから大丈夫だって言ったでしょ?」

「「さすが、わが弟子!」」

 自分のことのように喜んでくれる先輩達の顔を見比べる。

「今日は潰れるまで飲ませてあげるから覚悟なさい!」

「ぼさっとしてたらあかんで、高村くん。おごられ酒ほど美味しいお酒はないで」

「支払いは藤野くんと私の折半に決まってるでしょ」

「懐にとどめ刺された気ぃするわ……」

「無駄遣いばかりしてるからですよ」

 そんなことを言いつつも、じわじわと実感が湧いてくる。

 あれだけ落ち込んでいたのが馬鹿みたいだ。

 文物の貸し出しで一番の要素ともいうべきものが、相手の学芸員への信頼感だ。

 博物館同士の事とは言え、どうしても個人間の信頼に左右されてしまう。

 特に、こちらが新米だとハードルは高くなる。

 その分、この手紙が運んできた喜びは又と無かった。

「それじゃ、高村くん。このやり直し分、はりきって片付けといて」

「了解しました」

 それからの仕事は、自分でも不思議なくらい軽快に進んだ。

 これまで避けたくてならなかった作業でさえ、苦にならなかった。

 電話に出た時の第一声も、意外なほど明るかったらしい。

 外から電話をかけてきた歴史学課の課長に、受話器越しに「誰!?」とまで叫ばれた。

 普段の声…、そんなにドス効いてましたか…? 課長……。


 終業後、交渉成功祝いをした場所は、日浦さんの知り合いがシェフとオーナーを兼ねている、こぢんまりとした西洋料理店で、職場からもそんなに遠くない。

 貸し切りにして貰ったものだから、藤野さん達は外しすぎるくらいに羽目を外していた。

 楽しかったのも束の間、私は潰れるまで飲まされた…。

 この際はっきり言っておこう。

 宣言通りに私を酔い潰したのは、他の誰でもない。日浦さんだ。

 ところがその日浦さんが、誰よりも激しく酔っていた。

 主任と藤野さんに両脇を支えられた日浦さんと別れてすぐ、見た目よりも頭がへろへろになっていた私は、知らないうちに公園へと歩を進めていた。

 枝垂れ桜の周辺には、やっぱり誰もいない。

「とーしさんっ」

 見つけた後ろ姿に躊躇無くそう呼び掛けると、大袈裟なくらいに手を振った。

 私の奇行はそれだけでは終わらなかった。

 余程おかしな酔い方をしたらしい。

「利さん、私が任されていた今度の企画展の交渉、成功したんです!」

 この時、私は笹部の手を両手でしっかり握っていた。得意そうな笑みまで浮かべて。

 そして、酔っ払いのテンションは切り替わりが早い。

 次の刹那には、握り込んだ彼の手に目線を落として、溜息を付いた。

 酔いのせいか、見慣れたはずの石畳まで、全く別物に見える。

「唐突で驚かれたでしょうけど……、どうしても貴方に聞いて欲しかったんです」

 異様なテンションも言動もそこまでは辛うじて覚えていた。

 私の意識は、ここで一旦途絶えている。

 次に意識がはっきりした時、私は何故か笹部の膝の上に、横向きに座っていた……。

 膝の上か……。

 子供の頃乗せて貰った兄の膝の上を思い出す。

 いや、待て。

 この人は兄ではない。

 そして我々は西洋美術のピエタ像でもない。マリアとイエスでもないのにこの位置関係はまずい。加えて、私がイエスの座り位置なのは非常にまずい。

 その上、気付いてみれば手をしっかと握りあっている。それどころか、上体を笹部にもたせ掛けているのだ。

 右の頬が、笹部の制服の胸に、その紺羅紗の生地に触れている。

 血の気が引くような思いだ。

 これまで彼氏と呼ばれていた人間ともこんな位置関係で座ったことは一度としてなかった。

 一体、私は何をしていた……?

 混乱したまま、私は身じろぎした。

「すみませんっ、酔っ払いが不逞を働いたみたいで!酒臭いですし、すぐに降ります」

 降りると言うよりは落ちそうになった私を、笹部はすんでのところで抱き留めた。

『平気だ。気にはならない』

 アンタが気にならなくても、私は気になって仕方がないんだ。

 それこそ子泣き爺の如く固まっていると、笹部は一層私を引き寄せた。

 近い、近い、近いっ!

 酔いよ、何故醒めた!?

 本当に愛しそうに見つめられて、心臓が跳ねる。

「と、利彦さん?」

 闇雲に呼び掛けてみると、彼はこちらの動揺を見て取ったのか、くすりと笑った。

『もう利さんとは呼ばないのか?』

 やばい、まずい。

 顔が熱い……。

 その時、公園の奥から私を呼ぶ声が近づいて来た。

 主任だ……。

 私を心配して探しにきてくれたらしい。

 私が桜の樹相手に喋っていると主任に思われるのは、まずい……。

 二度と飲みに連れて行って貰えなくなる。

 何よりも、例え酔っているとはいえ、そんな醜態をさらすのは私自身が嫌すぎる。

「高村くーん、もう帰ったのかい?」

 近くなるにつれ、主任が心配してくれている様子がよくわかる。

 立ち上がろうとすると、笹部の腕が私を押し止めた。

 ほとんど息と変わらない声で、

『行かないで欲しい』

と、私に告げる。

 途端に、自分の肩が緊張するのがわかった。私は、その場から動けなくなった。

 主任との距離はさらに近付く。

 目の前を通り過ぎても、主任は私に気付かなかった。

 まるで私など何処にも存在しないかのように。

 私は、直感的に思い当たった。


 これは、現世と切り離されたかもしれない。


 石畳が見慣れないのもそのはずだ。

 この桜の周囲だけ恐らく、笹部が生きていた時そのままなのだろう。

 『死んじまったりしないよな…?』と言った陽平の言葉を思い出した。

 久しぶりにぞっとした。

 『秋さん……』

 と、笹部が呼ぶ。

 その声音にぞくりと肌が粟立つ。

 こんなにも恐ろしいのに、それでも笹部の事をおぞましいとは思えない。

 なんとお目出度い頭だろう。

 死にたくないとは思う。

 やっと、自分の仕事が報われたのだ。続けていたい。

 それに私の知らないことは、この世界にまだ腐るほどある。

 その一方で、こんな考えが頭にちらつく。

 もしこのまま笹部の隣にいられるなら、この人は私の事だけを見ていてくれる。

 恋人と引き合わせて、彼の存在をこの世から消してしまわなくても済む…。

 けれど。

 そんなことをしても何にもならない。

 何ひとつ解決しない。

「利彦さん」

 私は彼の名を呼んだ。

 今だけでもこうしていたいと思った。

 貴方が生きているうちに出会いたかったという言葉は、口にしなかった。

 それだけは、口にしてはいけなかった。

『もうしばらく、ほんの少しでもいい。このままでいてくれないか』

 私は返事をする代わりに、彼の体に腕を回した。

『……僕は何れ貴方から離れなくてはならん』

 笹部の言葉は力無く響いて、闇に融けていった。




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