6
あれ以来、忙しさに拍車が掛かっている。
探偵の真似事などを始めたからだ。
それでも、精神的には前よりもへこんでいない。
忙しすぎてそんな事を考えている暇がないのだ。そんな時間が刹那でもあれば、次の行動の算段をしている。
しんどいのは、睡眠時間が多少減ったことくらいか。
『秋ちゃん…、色々と抱え込みすぎじゃねえか?』
私の夜更かしに付き合ている陽平が言った。
奴は元が夜型であるから、単に起きている時間が被っているだけだとも言える。
「浮世は、色々大変なんだよ」
『例の巡査の女探してんだろ?余計事ばかり背負い込んじまってどうする気だよ』
「義を見てせざるは勇無きなり、ってな」
『……呆れて物も言えねえや』
図録の解説の下案を書く鉛筆の音が部屋に響く。
台所の方からは、冷蔵庫が唸るような音を立てていた。
食卓の上一杯に広げた本が、蛍光灯の下で眩しいくらいに反射している。
食卓以外は電気を消しているから、より眩しく見える。
文物の名称は中国語読みも表記すべきだろうか、と考えて私は手を止めた。
その時、ソファーのクッションが、私目掛けて飛んできた。
「なんだよ」
陽平が痺れを切らしたらしい。
『何処まで調べが付いた?』
唐突に言った。
「は……?」
『巡査の女の話だ』
「名前と、嫁ぎ先……」
名前は笹部本人から聞いた。嫁ぎ先は、何処かの実業家の家らしいということしか、彼は知らなかった。この嫁ぎ先を特定するのに四日かかったのだ。
『それだけか?』
「それだけって……」
むっとしながら、床へと落ちたクッションを拾い上げた。
『名前は河中初音、嫁いだのは地元でも有名な製鉄業の社長の所だ。違うかい?』
それくらい俺でも知ってると言わんばかりの言い草だが、同時代を生きていたアンタと比較されても困る。
寧ろ、知ってたなら教えろ。どれだけ苦労したと思ってるんだ。
「後わかったのは、没年。それから、結婚した時に新聞の号外が出たって事と、晩年にそこそこ有名な婦人雑誌が取材したらしいって事くらいだ」
『墓、突き止めようなんざ夢の又夢だな』
「出版社さえはっきりすれば何とかなるさ」
『それで、その号外と雑誌がわかりゃあいいのかい』
「手始めにはな」
ぞんざいな動作でクッションを投げ返す。
悔しいことに、それは陽平が投げた別のクッションで相殺された。
「陽平、手伝う気もないのに口出すのは止めてくれ」
『だから、手伝ってやろうって言ってんじゃねえか』
……どういう風の吹き回しだ。
口に出す前に、表情に表れていたのだろう。
陽平は、
『困ってる親友を放っておく訳にもいかねえだろ』
と、つっけんどんに言った。
『明日の調べ事は俺に任せて、先に仕事片付けな。このままだと体が潰れちまう。それとな、今夜はもう寝ろ』
問答無用で電気を消された。
物理的な力で消したわけではないから、こうなるとブレーカーを弄ろうが、何をしようが梃子でも電気はつかない。
こういう時、幽霊ってやつは本当に厄介だ。
私は仕方なく寝床に潜った。
その晩、昔の夢を見た。
昔といっても、一年ほど前のことだ。
その晩は枝垂れ桜が狂い咲いていた。
半月といえども朧の月が懸かっていて、それなりに風雅な夜だ。
だが、当時の私にはその趣に目を留めるような余裕はなかった。
私は目の前の光景より、記憶の中の情景に捕らわれていた。
現実逃避だったのだと思う。
学生時代のことをつらつらと思い出していた。
友人と花見に行った平安神宮の事や、就職試験を受けた時のこと。
思い出すほど、我が身が矮小に思えてくる。維持とねじ曲がった根性くらいしか持っていない。結局は何一つ、マシになってさえもいない。
この職を続けていけるのだろうかという、不安に駆られていた。
就職して一年、愚痴を吐くにも、素直に打ち明けられるような人が近くにいなかった。
私は、遅くまであのベンチに座ってぼんやりと桜を眺めていた。
夜半に小雨が降り出す迄、時間の経過もわからないほどに。
私は、生きているのか死んでいるかも曖昧になるような、夢現の中にいた。
その間のことは、覚えていないはずだった。
けれどあの時、確かに誰かが私の背をそっと支えてくれていた。
その腕は、この前の昼間と同じ……、あの人のものだ。
宥めるように背を撫でてくれるその手に、無条件に安心していた。
無意識のうちに体を預けると、受け止めてくれている感覚が返ってきた。
思い出してはいけない。自覚しても、これは私の手に負えない。
『少しでも貴方を支えられればいいのだが……』
桜が涙で霞んだ。泣いたのは十数年ぶりだ。
『歯痒いな……。僕には何ひとつできることがない』
涙がこぼれ落ちないように目を閉じた。
じっと堪えていると、少しずつ涙が退いていくような気がする。
抱きしめてくれている腕はとても優しい。
この人が好きだと思った。
何処の誰かもわからない人を数時間のうちに、好きになった。
同時に、こんな風に軟弱な自分は嫌いだと思った。
目覚まし時計が鳴る前に、自然と目が覚めた。
意識は明瞭だが、生々しいくらいに夢の内容が、まだ私の脳に取りすがっていた。
去年の私は笹部の御陰で何とか持ち直したようなものだった。
その時の私は、泣き言を聞いてくれる存在が欲しかったのだ。普段なら意固地になって、誰かに泣きつくことなど無い癖に。
そして、優しく背中をさすってくれる手が、私のその欲求を満たしてくれた。
何故あの人は、こんなに無様で歪な人間に好意を寄せてくれるのだろう。
考えかけて、やめた。
馬鹿馬鹿しい。
どうせ考えたって、私にはわからないことだ。
部屋を出た後は、いつも通りやるべき事に追われて時間が過ぎていった。
そして午後。
昼休みを調べ物ではなく仕事に注ぎ込んだ所為で、少なからず余裕ができた。
失敗だ。就業時間まで二時間半はある。
これからどうするかということに気を取られて手が止まった。
その隙を狙っていたこの様に、日浦ねえさんが私に声を掛けた。
「ここのところ仕事の鬼になってるけど、どうしたの?」
「止まると死ぬんです」
回遊魚じゃないんだからと、ねえさんは呆れ気味だが、本当のことなのだから仕方があるまい。
「でも、前より顔色は良いわよね」
「何も手に付かなくなるんで、深く考えられないようにしています」
その為に、一秒たりとて休まずに仕事してます。
「で、壬生忠見の彼は、捨て置かれてるの?」
「あ、のっ……」
「恋人が支えてくれてるのかと思ったのに」
「い、いませんよ、そんなものはっ!」
己の努力の賜物です。
「……ひょっとして初恋だったりしないでしょうね」
そう取られても止む終えないとは思いますが……。
「流石にそれは、いくらなんでも……」
日浦さんが世話を焼いてくれるのは嬉しいが、こういう部分はできるだけつつかないで欲しい。
「じゃあ、誰と何時付き合ったの?」
嘘付いてると思われているのだろうな。鎌などかけなくとも、嘘は吐いていない。
「大学の時、同級生と」
好きでなくとも構わないから、付き合ってみてはくれないかと言われて、交際を始めた。
「もう別れましたけどね。冷たいとなじられたかと思うと、次の瞬間、平謝りに謝られながら捨てられました」
言っておくが、相手のことは嫌いではなかった。
「……何かしたの?」
「べつに何も」
日浦さん、そんな目で見なくとも言いたいことがあるのは、よっくわかりましたよ!
「高村くんって、身内には厳しいのよね。あと、人に甘えないし」
それはそうかもしれない。
「それじゃ今回が初恋と変わらないわよ」
「そうですか……?」
「甘えてみたら?好きな人に」
「有り得ないです。京都銀行のおでん竹輪の長さくらい有り得ないです」
私、そのCM見たこと無い、と日浦さんがむくれた。
そうだ、ねえさんの出身って北海道だったな…。
「……私、そんなに冷たいですかね?」
ふと思いついて聞いてみた。
「末期的に好きなのね、その人のこと。その惚れ込み様を相手に見せてやりたいわ」
「違いますってば!」
「だって、普段の高村くんはそんなこと気にしないもの」
それ程、他人の心証を無視した覚えはないが……。
「けど、よかった。元気出たみたいで」
日浦さんは、花のような笑顔を浮かべた。
ねえさんの為なら命も惜しくありませんとか、つい思ってしまう。
「それから、体調と仕事の管理はちゃんとしなさい。藤野くんが、高村くんにヘッドロックかけてもそのままの姿勢で仕事してるって、心配してたわ」
「それでびびって邪魔してこないんですね」
やけに大人しいと思った。
「じゃあ、私そろそろ仕事戻るから。壬生忠見の彼によろしくね」
「……壬生忠見ではないですよ」
最後の呟きは、ねえさんには聞こえなかったらしい。
けど聞こえなくてよかったと思う。これ以上つつかれては堪らない。
陸奥のしのぶもぢずり 誰故に乱れそめにし我ならなくに。
源融の歌の方が私の心情に近いなどと聞き出された日には、地元へ逃げ帰るしかないところだった。
家に帰ると玄関を開けたすぐそこに、喜色満面の陽平が待ち伏せていた。
手には、A3の紙が数枚。
差し出すものだから、何気なく手に取った。
「陽平……、これって」
『どうだい、ビンゴだろ?』
紛れもなくそれは私が探していた号外の記事のコピーだ。
「お前、これどうやって…」
まさか堂々と受け付けで、閲覧手続きなど踏んだ……はずがないな…。
『例の社長の地元の古文書館のだよ』
「そんなことはわかってる」
問題はどうやってコピーを取ったのか、ということだ。
『今朝、夜が明けない内に持ち出してコンビニで複写取った後、元へ返したんだ』
陽平はあっけらかんと言い放った。
この、小悪党……。
「資料が痛んだらどうするんだよ」
『俺には、指紋も皮脂も無えんだ。大丈夫だよ』
「光が原因で退化するのは知ってるか?」
『固いこと言うなって……。突然、鉛筆が記事の自動筆記始めるわけにもいかねえだろ』
それはそうだが……。
『雑誌の方は、現物は残ってなかったが、出版社と掲載号がわかった』
手渡された小さいメモには、某大手出版社の有名婦人誌の名前。
『後は俺じゃあどうにもなんねえからな』
「これで十分だよ」
出版社に問い合わせれば、バックナンバーが残されているかもしれない。
無かったとしても、古本屋をあたれば……。
『秋ちゃん』
思案を止めて顔を上げると、陽平からは得意そうな笑みが消えていた。
『死んじまったりしないよな……?』
なんだって……!?
「駆け出しの学芸員のままで死ねるかっ!てめえ、私の余命でも知ってやがるのか!?」
肩をひっ掴んで前後に激しく揺さぶってやった。
陽平の頭が廊下の壁にガンガンぶち当たっているが、構うものか。
『秋ちゃん…、舌っ…!舌噛むッ……!!』
「噛んだ所で害は無い」
死んでるから。
『秋………、壁はいいのか?』
あっ、穴が空く……。
手を離した時、蚊の鳴くような声で陽平が言った。
『こういうのは青山の旦那の役回りじゃ……』
冬悟が聞いたら怒るぞ。
『取りあえず、教方の旦那の御陰で助かったぜ』
もう復活したらしく、陽平は引きつった笑いを浮かべながら言った。
「教方さえ邪魔しなければ、こいつは今頃つぶれたたこ焼きのような頭に……」
『壁も砕けていただろうな』
教方が冷静に言う。
くそ、借家じゃなければ……。
苦々しく思いながら、部屋の奥に目をやると、怯えた様子のウィリアムが涙目でこっちを見ていた。
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