一頻り励ましてくれた後、日浦さんは一層艶やかに笑ってこう続けた。

「確かに、今の事も前々から気になってたんだけどね。でも私が今日聞きたかったのは、その話じゃないのよ」

 ……来たよ。

 って他に、何かあるだろうか……。

「特に様子がおかしいと思ったのは、今日の午後からなのよね…。お昼はどこか行ってたみたいだし」

 そう言う間に、日浦さんの後ろで煙草を吸おうとしていた歴史学課の先輩が、ねえさんの容赦ない裏拳を喰らってテーブルに沈んだ。

「そ、それは、自分の未熟さと不甲斐なさにへこんでさすらいの旅に……」

「嘘ね。そういう時とは表情が違ったもの」

 語尾さえ言わせて貰えない。

 当然の如く、これ以上の言い訳は許されそうもない。

 さて、ねえさんになんて説明しようか……。幽霊の所へ遊びに行ってから調子が狂ってるんです等と、言う訳にはいくまい。

 考えあぐねていると、吃驚するような先手を打たれた。

「忍ぶれど色に出にけり、ってやつでしょ」

「わが恋は、ものや思ふと人の問ふまで……??」

 いや、確かに色々と思い悩んではいたが……。

 しかし……

「それは無いですよ!」

「それじゃあ、物憂げに何を考えていたのか説明していただこうかしら」

 私、日浦さんになんか悪い事しましたっけ……?

「その……、財布の中身の心配を」

「幾らなの?」

「…………ぇ、」

「ばれる嘘は吐いちゃいけないのよ」

 そんなじわじわと攻めるくらいなら、いっそ焼き討ちにでもして欲しいものだ……。

 渋々、昼間の事を洗いざらい話した。

 むしろ、口を割らされた。(笹部が死んでいることは伏せなければならなかったが……)

 素面なのに、日浦さんの暴走は止まらなかった。

「成る程ねえ……。「忍ぶれど」じゃなくって、「恋すてふ」だったわけだ」

「壬生忠見ですか……」

 何処をどうすれば、そんな話になるのやら…。

「丁度そんな心境でしょ。わが名はまだき立ちにけり、人知れずこそ思ひそめしか」

 確か「誰にも知られないようにあの人を思い始めていたのに」って意味だよな……。

 何でこんな頭の痛い事になってるのかわからないが、決して私の所為ではない。

 強いて言えば、全部笹部の所為だろう。

 目眩がしそうだ。

 こめかみを押さえた指先の冷たさが、あの時触れた笹部の手の温度とよく似ていた。

 笹部に掴まれた左手が気になって仕方がない。

 何を血迷ったのだろう。私は、

「……どうしてわかったんですか?」

と、日浦さんに聞いた。明らかに思考が混沌のど真ん中にある。

「高村くんって見慣れるとわかりやすいわよ」

「見慣れると?」

「表情が動いていないように見えて癖があるから、それが分かるようになると感情が読めるのよ」

「そうでしょうか…」

 日浦さんに洗脳されているだけのような気もするが。

「でも、認めたくないです」

 笹部のことが好きだとか。そんなことは有り得ない。

「知り合って間もないですし、好きになるはずがありません」

「あきれたこと」

 日浦さんは心底呆れ顔だ。

 けれどこればかりは、日浦さんに何と言われようとも、認めないつもりでいた。

 第一、幽霊に恋愛感情を持つなど不毛すぎる。


 恐るべき事に、災難はまだ続いていた。

 家に帰ると、教方が一人、居間にいるだけだった。

 冬悟と陽平がウィリアムを連れて夜遊びに出掛けたのだという。

 ……幽霊も楽しめるようなアミューズメントなど存在したか?

 取りあえず、家には教方しか居なかったのだ。

 これを幸運と言うべきか、不運と言うべきか。

 奴は見抜いてしまったのだ、私の様子がおかしいことを。

『どうした?好きな男でも出来たか』

「……っな」

『当たりか』

 私は凄い勢いで首を横に振ったが、微塵も信じては貰えなかった。

『誰だ?……藤野殿ではな』

「絶っ対違う!」

『………それは本当らしいな』

「当たり前だ」

 気色の悪いことを言うな。

『相手が生きている人間なら、俺は何も言わぬが』

 何でこんなに鋭いんだよ……、此奴……。

 だてに死線を潜り抜けてはいないと言うことか。

「……それがさ」

 自分でも、日浦さんの時より素直だなと思いつつ、昼間のことを教方に話した。

 教方は、難しい顔をして言葉を探しているようだった。

『秋……、それは一昨日、陽平が会うた男だな。余り言いたくはないが、呼ばれたのではないか……?』

 呼ぶとは、どういう意味だ。

『その男は恐らく随分前から秋に惚れている』

「まさか」

『でなければ、秋がこうして霊に呼ばれるはずなどあるまい』

 私が言い返そうとした、その矢先だった。

『高村、帰っていたのか』

 デコボコ三人組のご帰還だ。何をやっていたのか知らないが、ウィリアムがぐだぐだに酔い潰れて……、違うな、酔い潰されている。

『呼ぶとか呼ばぬとか、何の話だ?』

『秋が何処かの死霊に呼ばれたかもしれぬ、という話だ』

 えらいことになっているウィリアムを放り出して、保護者談義が始まったらしい。

 恐れ多くも大黒柱(私だ)は蚊帳の外だ。

 今回ばかりは有り難いが、いい加減、当事者無視して話進めるの改めろよ。

 冬悟が面白がって、ああだこうだ言っている中、

『……それは公園の桜の所にいる奴か?』

 陽平の第一声は、恐ろしく不機嫌だった。

『そのようだ』

『秋ちゃん、あいつはやめとけ!あの野郎、未だに彼処で、振られた女待ってやがるんだ。相手するだけ時間の無駄だ、放っときな』

『片倉、その口ぶりだと、生前から其奴を見知っているようだな』

『俺はまだ、十五かそこらだったが、失恋苦にして首くくった腑抜け巡査と言や、ちょっとした有名人だったぜ。自分の女連れて逃げる甲斐性もないってな』

『確かに腑抜けだが、俺にはお前が其処まで嫌う理由がわからん』

 冬悟は大袈裟に首を傾げて見せた。

「警察と名の付くものは、のべつ幕無し嫌いなんだろ」

『当然じゃねえか!』

 うちの曾じいさん、警官でしたって言ったらどんな顔するんだろうな。

『陽平、暫し落ち着かぬか……』

 積年の恨みが噴出した陽平を宥めてやるのは、教方だけだった。

「そもそも、相手はとっくに死んでるっての」

『牡丹灯籠のような話もあるぞ』

 ……幽霊の娘と生きているお侍が恋仲になる話だ。

「取り殺されるのは、旗本だろ」

『うっ……』

 旗本・青山冬悟はダメージを受けた。要らん事を言うからだ。

 しかし、この「取り殺される」発言は、残る両名にも波紋を広げていた。

『そうなると……、拙いな』

『だろ?』

 そりゃあ、大黒柱がいなくなるからな!

「あのな、別に好きだとか何だとかそんなことは一言も言ってないだろ」

『額面通りに受け取ればな。お主は、額面通りに物を言った例しがない』

 ったく、一旦言い出したら聞かない奴らだ……。

『一つ言っておくが、高村』

「何だよ」

『生きている男より、とうに死んだ男に引っかかる方が後が怖いぞ』

 お前らも日浦さんも、いい加減にしてくれ。


 昼休み。私は、そっと職場を抜け出してきた。

 まるで、伯母さんの家を抜け出すトム・ソーヤの様な気分だ。

 この先に待っているのが、わくわくするような冒険でも、相棒のハックルベリー・フィンでもないのが残念だが。

 公園で私を待っているのは、何とも頼りなさげな巡査の自殺霊である。

 巡査は、私の姿を見つけると一度は敬礼してみせたが、自分がとっくに死んでいることを思い出したらしく、慌ててその手を引っ込めた。

 慌てて引っ込めたりしなければ、そこそこ格好良かったのに……。

『高村さん、お昼はもうすみましたか』

「これから食べるところです」

 今朝はウィリアムが二日酔いでへろへろだったので、弁当は自分で作った。

 別に頼んでおいたわけでもないのに、申し訳ないと謝り倒すウィリアムを宥め、冬悟と陽平に説教を喰らわせてきた御陰で、遅刻寸前という有様だ。しかも、作る材料が無くて、二日連続サンドイッチという情けなさである。

 そう言えば、うちの居候連中は喜んで食事をするのだが、この人はどうなのだろう。

 取りあえず聞いてみるか。それが一番手っ取り早い。

「よかったら、一緒にいかがですか?」

『僕も……?』

 笹部は、暫く逡巡して言った。

『御言葉に甘えて戴こう』

 笹部の顔には、少し朱が差して見えた。

 首を吊ったが故の鬱血か……?大丈夫なのだろうか。

 昨日のように、ベンチに二人並んで座った。その距離は昨日よりは近い。

「もしも多いようなら、残して下さって構いませんから」

 そう言って、サンドイッチを一切れ手渡した。

 笹部は、ご丁寧にも『いただきます』と一言断ってから食べ始めた。

 ……不覚にも、可愛いとか思ってしまった…。

 そんなことは横へ置いとくとして、一つ気になっていることがある。

 鬱血も気になっていないと言えば嘘になるが…。

 私が「笹部さん」と呼び掛ける度に、その表情に何とも言えず淋しそうな陰がさすのだ。

 これは推測に過ぎないが、笹部が待ち続けているという恋人が、彼の事をそういう風に読んでいたのではないだろうか。

「笹部さん」

 そう呼び掛けた瞬間、彼の肩が微かに震えた。

「……この呼び方は改めた方がよさそうですね」

 笹部は突然の事に理解が追いついていないようだったが、私は勝手に話を進めた。

「笹部巡査と呼ばれるのと笹やんと呼ばれるのとでは、どちらがいいですか」

 公的な感じのするものから、親しみの籠もったものまで両極短を用意してみたのだが、どうだろう。

 これくらい用意しておけば、無難だと踏んでいたというのに……。

『名前で呼んでくれないか』

 今度は私が、きょとんとする番だった。

 名前、で……。

 「で、では、利彦さんで」

と、口に出しておいて、私は大層閉口した。

 なんか……、この呼び方だと変に照れ臭い。きっとこの微妙な響きの所為だ。

 挙動不審だとは思いながらも、恐る恐る笹部の顔を見上げた。

 うあっ……、やっぱりちょっと顔が赤いよっ!!

 幽霊で顔色が青白いから、特によくわかる。

「大丈夫ですか?もしかして、縄が苦しいとか……」

 熱があるとか……。

『……縄?』

 笹部は不思議そうに首を傾げて、今度は降って湧いたかのように笑い始めた。

『確かに僕の首には縄の跡が残ってはいるが、もう苦しくはない』

 食べかけたサンドイッチを一度置いて、笹部はくすくすと笑いながら制服の襟をくつろげた。詰め襟の間から覗く彼の首筋に、生々しい縄の跡が浮かんだかと思うと、やがてゆっくりと消えていった。

「でも今、顔が赤かったですよ……」

 頬が上気したのをしかと見たのだ。未練がましくそう言うと、

『っ、そんなに赤かったか……?』

 今度は、笹部の方が狼狽えていた。

 昨夜の教方の言葉が思い浮かぶ。

 恐らく、随分前から……。

 これ以上踏み込むと私にとって危険だ。追及しない方が良い。

 私は、どうかしたんですか、と喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。

 会話が途絶える。

 何となく、気まずい。

 その気まずさに追い打ちをかけたのは、笹部だった。

『高村さんは……、いえ、秋さんは、どなたか好い人がいらっしゃるのか』

 幻聴であってくれ、と心底思った。

「……いませんよ」

『では、ご結婚なされているとか……』

 これはまた、随分思い切った質問を……。

「面目ないことに、いかず後家です。いけず後家とも言いますが」

 そう言うと、笹部にほっとした表情が浮かんだ。

 それはそれで気になるんだが、結婚云々の話題になると切り返し慣れているせいか、なんとか調子を取り戻せる。

 母との電話で「これでは将来、負け犬決定だ」という話になったところ、「アンタは犬言うよりも、狼ちゃうの」と評されたのはまだ記憶に新しい。

 「負け狼」。獰猛で悪かったな。

「……利彦さんが、待っているのは恋人なんですね」

 変な所に獰猛さを発揮して、私はそう言った。

 あの唐突な質問に対する、ちょっとした仕返しのつもりだった。

「不躾だとは思いましたが……、この間の連れから聞きました」

 困ればいいのにと思ってしたことだが、実際に相手が困惑しているのを見ると、妙に胸が痛んだ。

『恋人と言ってしまって良いのか、自信が無い。彼女とは結婚の約束をしていたけれど、結局は他の男と婚約してしまった』

 枯れ枝のままの桜が、風にざわざわと揺れる。

 笹部の声は静かだった。その分、悲しみを押し隠しているように聞こえた。

『駆け落ち仕損ねたというのも本当だ。待ち合わせていたはずの、この木の下に、あの人は来てはくれなかった』

 私はこちら側に踏み込まれまいとして、相手が触れて欲しくなかった部分を掘り起こしてしまった。軽率だったとしか言いようがない。

『馬鹿げた話だが、それでも諦めきれなかったのだろう。僕はずっと此処で待っていた。決して来てはくれない人を』

 胸が痛いのは、この人への同情からだろうか。

 それとも、自分で言ったはずの「恋人」という言葉に、勝手に心を痛めているのか。


 指先に、ざらざらとした感覚がある。

 私の手が羅紗の生地に触れている。

 ほんの一瞬、考え事をした刹那に、笹部はまるで縋り付くかのようにして、私をその腕の中に抱き込んでいた。

『死んでからの数十年が、どれほど辛かったことか』

 笹部の声が、私の皮膚を通して、体の中にまで響くかのようだった。

『諦めたつもりでいても、桜が咲くと思い出す……』

 こうして誰かに縋り付かれたことは何度かある。号泣するウィリアムにも背中を貸して

やった。

 それでも、こんな風に緊張したり、切なくて堪らない思いをした事は、一度も無かった。

『貴方だけが、僕の支えだった』

 指が震える。

『不誠実だと罵られるかもしれんが、この数年間ずっと高村さんのことが好きだった』

 耳を塞いでしまいたかった。

 この感情は、私には御しきれない。

『貴方を見ていると全て忘れてしまえた』

 笹部の手が、穏やかに私の背を撫でる。

 慈しむようなその触れ方に、確かな覚えがあった。

『あの夜と同じ咲き誇る桜の下でさえ、貴方が傍に居るだけで、僕はあの人を待たずにいられる』

 思い出したくない。引き返せなくなる。

『本音を言おう。本当は貴方を帰したくない』

 ずっと傍にいてくれ、と言われて、思わず彼の服を握りしめた。

『貴方が帰ってしまうと、僕はまたあの人を待たなければならない。特にこの桜が咲いていると、どうしようもできなくなる。僕が、どれほど貴方に焦がれていようと』

 誰かが言っていた。

 自殺した霊は、その死の瞬間の苦しみを死後も延々と繰り返さなければならないと。

『だから咲いて欲しくない。いっそのこと枯れてしまえばいい』

 この人にとって、そんなにも辛いことだったのだ。

 恋人を失ってしまったことが。彼女が、彼を選んでくれなかったことが。

 私は、生きている人間の簡単に変わってしまう心は不実だと思っていた。

 変わらない方が良いに決まっていると決めつけていた。

 しかし、この人は自分の心が変わらないことに、こんなにも苦しんでいる。

 自分の気持ちにはまだ整理が着かないが、一つだけ確かだった。

 これ以上この人を苦しめたくはない。

「利彦さん、私はそんなに辛そうな表情を見ていたくありません」

 私は、普段のように話せているだろうか。

「来てくれないのなら、こちらから会いに行けばいいと私は思いますが」

 こんな話の仕方は、自分でもどうかと思う。笹部が吐露してくれた心情とは、あまりにも隔たりがある。この状況下で、抜本的に解決するにはどうしたらいいか等と、思案していること自体お笑い種だが。朴念仁どころか、不人情かもしれない。

 例え、冷たい人間だと思われたとしても、

「もしもそれで利彦さんの気が晴れるなら」

この人が苦しまなくて済むようになるのならそれでよかった。

「私が、探してきます」

 一体何時からこんなお人好しになったのだろうという自嘲を含めて、私は微笑ってみせた。





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