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翌日の昼休み、久々に手製弁当などを携えて、私は笹部の元を訪ねた。
弁当は、今朝ウィリアムが作ってくれたものだ。本当は寝過ごしてしまい食べ損ねた朝食の代わりに持たせてくれたのに、結局食べる暇が無く、昼食となってしまった。
別に笹部と食べようというのではなく、昨夜話していた西洋画の画集を持ってきたのだ。
私が高校時代に買った比較的薄い本だが、オールカラーで代表的な作品はすべて網羅されている。笹部は、白黒の写真か絵葉書でしか作品を見たことがないと言っていたから、きっと驚くに違いない。
私は、画集を渡したら、ウィリアム手製のサンドイッチを噛りながら帰る気でいた。そうすれば、時間短縮、昼休みの残りを丸ごと仕事に費せるというものだ。
笹部は、やはり例の咲かない桜の下に居た。ぼんやりと空を見上げている。
その態度は警官としてどうかと思うが……。
私は周囲に人がいないのを確認して、彼に声を掛けた。
「笹部さん」
『………っ』
すると笹部は、尋常でない速さでこちらを振り返った。
振り向いたその表情は真剣で、何処か悲痛ささえ漂っていた。
笹部は私の姿を見ると、急に面を醒まして言った。
『……高村さんか。すまない、驚かせてしまったな』
本当に恥じ入った様子でそう言うものだから、私にとって扱いづらいことこの上ない。
『ここで人を待っているものだから、つい間違えてしまった。実にすまなかった』
あんなちょっとしたことで、此処まで申し訳なく思われると、私の方が余計に気になるというものだ。
「あの……、私そんなに驚いてましたか?」
もしかして、物っ凄い顔していたんじゃないだろうか。
藤野さんに見つかったら散々馬鹿にされ続けそうなくらいに…。
『いや……そ、その……』
笹部はひどく動揺しながら、こう言った。
『……高村さんに嫌われたくないと思って』
「……!?……」
それは、誤魔化してるわけでもないようで。
困った。今の、完全に素だったぞ……、この人……。
どう考えても、今まで遭った霊の中で一番手強い……。
まったく完全に手詰まりだ……。
予想も付かない角度から、鉄砲で撃たれたような気分だ。
私が何のリアクションも起こさないでいると、笹部の方から問いかけがあった。
『高村さん、それは?』
「……昨日言ってた画集です。昼休みなんで持ってきました」
画集を笹部に手渡して、それじゃあ、と帰ろうとすると、呼び止められた。
きちんと呼び掛けてくれるのだから素晴らしい。
教方や冬悟は、実力行使で引き止めやがるので突然、金縛りの様に動けなくなったり(猛スピードの車に乗っていて、急ブレーキをかけられた時の感覚に似ている)、ひどい時は、軽く宙づりにされたりする。
いかにも困ったという風体でつっ立っている笹部は、警官の制服が霞んで見える程、情けなさが漂っていた。
『高村さん……、これだと、本が宙に浮いてしまう……』
そうだった……。コイツ、普通の人には姿が見えないんだった。
昨年末までは霊感のかけらも無かったものだから、今現在、自分が特殊な状況にあることなどすっかり失念していた。家に帰れば幽霊共が、さも生きているかの様に振る舞っているし……。慣れとは恐ろしいな……。
仕方なく、昼休みはここで潰すことになった。
し、仕事が……。
例のベンチに座って、サンドイッチをかじる。
ウィリアムはなかなか料理が上手い。男子厨房に入らずなどとほざいている駄目侍などとは大違いだ。本来なら料理人が調理をするので、主人であるウィリアムが料理をすることなどあってはならないはずなのだが、亡きお母様のパイを再現したくて厨房に通ううちに料理が趣味になったそうなのである。
その後幾星霜、私と居候どもがこうしてその恩恵を受けている。
さて、横目で笹部の様子を窺うと、なんだか楽しそうで、ちょっと嬉しくなった。
それにしても、此処で昼ご飯を食べることになるとは……。缶ジュースの一つも買って置くんだった。
急がば回れとは、よく言ったものだ。
歩きながら食べるなんてなまくら、考えなければよかったな…。
そんな事を思いながら、足元の石畳を眺めていると、隣からじっと見られている様な視線を感じて、私は顔を上げた。
何故か、笹部としっかり目が合った。
「何か…?」
思いがけず出た低い声に、またやってしまった……と思った。
これが、人付き合いが不得手な根本理由だ。
『その……、なんでもない……』
可哀相にちょっとへこんでいる。
並んで座った割には不自然なくらい、笹部との間を空けてしまったのも拙かったような気がする。私が冷たいと言われる時は大概これが原因だ。
「すみません、どうも私……、愛想が無いんで。不愉快な思いをさせてしまって……」
ああ……、フォローも上手く行かん……。こっちを向いてくれなくなってしまった……。
それにしても最近、幽霊の機嫌を取ってばかりだな……。
手持ち無沙汰に空を見上げると、淡青色の空には雲一つかかっていなかった。
『あの、高村さん』
視線を戻すと、笹部は遠慮がちに画集を指し示した。
それを覗き込むと、ほんの少しだけ彼との個体間距離が狭まった。
『実に聞きにくいことなんだが……、これは一体何の絵ですか?』
そこには、暗色の背景に赤い肌の巨人と、白く浮かび上がるような女性の裸体が描かれていた。
確実に戦前生まれの彼にとって、これは質問し難いかもしれない。さっき黙ってこっちを見ていたのは、きっと言い出し難かったからなのだろうと、私は勝手に納得した。
「ギュスターヴ・モローの「ガラテ」ですよ。ギリシアやローマ神話に出てくる海のニンフに題材を取ったものです」
さも意外そうに、笹部は『神話か……』と呟いた。
立ち直ってくれたようで、ほっとした。
その分、愛想の欠片もない自分が本当に申し訳なかった。
「他にオペラもあるみたいですが。この女性の名前が、ガラテです」
『では、この後ろのは?』
「キュクロプスという一つ目の巨人で名前が、ポリフェームだったかな」
『初めて聞きました。不勉強で申し訳ない』
「学者の端くれとしては、どんな些細なことでも質問して頂けると、それだけで嬉しいですよ」
今のは社交辞令でもなんでもなく、本心からそう思う。この心情は万国問わず研究者共通のものだろう。
『巨人は、この女性を見ているのか?』
「確か、ガラテに横恋慕しているという事だったと思います」
『……そうか』
何か思うところがあるらしい。
しばらく黙って考え込んでいたようだったが、笹部がもう一度口を開こうとした時、公園の大時計が遠くで、午後一時を告げた。
業務再開まで、あと10分しかない。
「そろそろ昼休みが終わるんで、これで失礼しますね」
立ち上がろうとした私の手首を、冷たい手が掴む。
腰を浮かせていた私は、バランスを崩してベンチにへたり込んだ。
耳のすぐ近くで、笹部の声が響く。
『これからも貴方に会えないだろうか、高村さんの都合の良い時で構わない』
最初は空き過ぎるほど距離があったのに、今は笹部と膝が接しているくらい近くにいる。
「……私は、構いませんが…」
そう返事を返しながらも、私は顔を上げられなかった。とんだ根性無しだと思う。
柄にもない緊張を感じていた。
『明日は……?』
と、問われてすぐには答えが出てこなかった。
しかも、返事をしない限り手は離して貰えそうにない。
「え……っと、」
外見にどう映るかはわからないが、正直錯乱寸前である。
「……昼休みに、また来ます」
意図せず、消え入りそうな声になった。
笹部は、『ありがとう』と嬉しそうに言って、手を離した。
一人になってもまだ、地に足がつかないような変な気分だった。
それにしても、あんなに強く引っ張らなくてもいいと思う。そもそも、慌てて引き留めるようなことでも無かったような気がするのだが……。
こういう所をみると、やはり彼も幽霊なのだなと実感させられる。行動が自分の感情に左右されて相手のことにまで気が回らないのだ。教方や冬悟がよくやる実力行使も又然り。
しかし、これくらいの事であれ程までに緊張するなど、自分がここまで人間関係に打たれ弱いとは思ってもみなかった。社会人として情けない。
重ねて情けないことに、私は部屋に戻ってからも延々それを引きずっていて、仕事がほとんど手に付かないという有様だった。
心此処に在らずというのか、自分でも何を考えていたのか、よく覚えていない。
ある時ふと気付いたら、自分の左手首を親の敵でも見るように、じっと眺めていた。
笹部に手を掴まれた時の、あの冷たい感触がまだ残っているような気がした。
その晩は、新人歓迎会があり調査研究部総出で飲みに連れて行かれた。
今年、調査研究部には一人が新採用として入った。古生物学課に配属されている。もう一人、保存修復課に採用になったと聞いているが、留学先からの帰国の関係で二週間程遅れるのだという。
こういうのは苦手なので座敷の隅で、息を潜めてじっとしていると、下戸で有名な主任の大沢英介が、酔郷を彷徨いながらやって来た。
「まるで借りて来た猫のようだね、高村くん」
「主任……、楽しそうですね」
「あはは、すっかり酔っ払わされてしまって。帰ったら
司さんというのは、主任の奥さんのことである。司さんは、主任より十八年下、御年三十の若奥様だ。しかも、日浦さんの遠縁にあたるのだから、その美しさは推して知るべし。
「そうそう、日浦君が呼んでるからいってあげてくれるかな」
見ると、私とは対角線上にある席で日浦さんが手招きをしている。
おじさん方……、いや先輩方の間を通り抜けてあそこまで行くのは結構厳しいが、日浦ねえさんの御命令とあらば仕方がない。
「それじゃ、ちょっと行ってきます」
いってらっしゃいと言う主任の、幸せ溢れてますと言わんばかりの笑顔に見送られて、私は日浦さんの隣に腰を降ろした。
っていうか、主任大丈夫なのか……? なんかもう、ヤバイぐらいに微笑んでいる……。
酔いという名の桃源郷に引きずり込まれてしまった主任とは対称的に、ねえさんは今日は一滴も口にしていなかった。古株連中の新人に対するアルハラ及びパワハラを防ぐためだという。ねえさんは、酒が入っているより素面の方が、理性が働いている分手厳しい。
そして日浦女史は、開口一番こう言った。
「高村くん、私に何か隠してるでしょ」
同僚はこんなにいるというのに、状況は孤立無援。
下手すればアルコール漬けにされて有ること無いこと吐かされる……。
傾国の美女を目の前に、私に残された途は全面降伏しか無さそうだった。
「こんな所で、仕事の話するのもなんですけど……」
鬱屈した気持ちを紛らわすかのように、私は烏龍茶のグラスを両手で握り込んだ。
酒気の籠もった室内で、その冷たさが手の平に心地良い。
「馬鹿ね、こんなの仕事の延長と変わらないわよ」
と、日浦さんが苦笑する。
「丸二年社会人やってるのに成長の欠片もないな、と思いまして……。最近特に、自分の限界が嫌になるくらいよくわかります」
手持ち無沙汰に揺らしていたグラスの中で、小さくなった氷が澄んだ音を立てた。
「……社会人としてはわからないけど、新米学芸員としてはよくやってると思うわ。秋期の企画のことなら大丈夫よ。箸にも棒にもかからないような奴に、主任が任せたりするわけがないでしょ」
「……期待に添えるように頑張ります」
日浦さんは、私の手からグラスを取り上げて、自分の方を向かせた。
「ちょっとでも迷ったら相談しなさい。気にしなくても、相談するまでもない事だったら、自分で考えなさいって一蹴してあげるから」
勝ち気そうに笑う日浦さんはとても綺麗だ。
「………よろしくお願いします」
じわりと心の芯が暖かくなる。日浦さんも藤野さんも、自分の先輩達は本当に優しい。
良い職場に恵まれたと思う、その他いろんな事を差し引いても……。
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