3
やがて、染井吉野が散り、今度は枝垂れ桜が艶を競い始める。
しかし、公園の中にただ一本、花を開かない木があった。
蕾は膨らみ今にも咲かんとしているというのに、何時までも花を開かないのだ。その木が水をうったかの様に静まり返っているなかで、他の桜は大輪の花を咲かせていた。
確かに、今年は全体的に桜の開花が早すぎるのだが、本来の開花時期を考えても、もう一、二輪咲いててもおかしくない。
それに、その桜には何となく思い入れがあった。
だから、私は仕事の帰りにその木の所へ立ち寄った。
この木だけ、時間が冬のままで止まってしまったかのようだった。
私は、道を挟んで向かい側にあるベンチに腰を下ろして、桜の木を見上げた。
この木の周辺には、特に外灯が立っているわけでもないのに、木が宵闇に浮かび上がって見える。
去年も、こうしてこの木を見上げていたな…。
その時は、乱れ咲く紅の花を纏っていた。
樹齢も古い立派な桜にも拘わらず、この木の周辺には何故か、人が集まらなかった。
だから私は、去年も一人でこのベンチに座っていた。
この木を見ていると、不思議と心が慰められるような気がした。
今は、花も咲いていないというのに。
「あれ?高村くんちゃうの?」
「藤野さん?残業、終わったんですか?」
「実は……、ちょっとさぼってん……」
藤野さんは、罰が悪そうに頬を掻いた。
「またですか?」
「ええやん、明日は早よ来て頑張るから。で、高村くんは何してんの?」
「見ての通りですよ」
藤野さんは、私につられるようにして、桜の木を見上げた。
「……去年も、ここで見てたやんな?」
「そうですけど」
「この桜だけは、やめといた方がええで」
急にぴしゃりとした口調になった藤野さんは、こっちを振り返った。
「いつも、ここの下に一人おるから」
「……誰がいるんですか?」
「首吊って死んだ……男の霊」
その時、遠くの外灯が僅かに瞬いて、消えた。
去年は見なかったから大丈夫だと言うと、藤野さんは大袈裟に溜息を吐いた。
「……今年は見えるかもしれへんで」
「鉢合わせた所で害があるとは思えませんが」
「せやな、高村くんやし……。大丈夫やな」
「へたれの藤野さんには無理でしょうけどね」
「あ~あ、酷い言われようやで。ほな、俺は帰るけど、気ぃつけや」
「お疲れ様です」
藤野さんが帰った後も、私は暫く其処に留まっていた。
正直、こんな枯れ木を眺めていても楽しいとは思わない。
ところが、我に返った時にはすでに二時間近くが経っていた。
しかも、心配した陽平が迎えに来なければ、日付が変わるまで其処に座り込んでいたかもしれなかった。
『遅いと思って来てみたら……。枯れ木を見上げて花見かい?何が面白いのかねえ……』
「……何も面白くない」
『ほら、何時までもこんな所でぼおっとしてっと風邪引くぜ』
陽平に急かされるようにして、私は腰を上げた。
その時に見たのだ。
枝だれ落ちる桜の枝に交じって、革靴を履いた男の脚が下がっているのを。
本来、枝の間から筒抜けに見えているはずの上半身は、闇に溶けてしまったかのように、消え失せている。これは、普通の死体ではない。
「……洒落にならん」
と、私は低い声で言い、陽平は無言で眉を顰めた。
その脚は、ゆらりと揺れたかと思うと、次の瞬間、思いっきり反動を付けて。
地面に降り立った……。
「なっ………!?」
そんな登場の仕方をする幽霊ってありか!?
霧が晴れていくかのように、男の上半身が現れる。
背を向けているので確かな事は言えないが、男は腰にサーベルを下げ、紺色の制服を着て、戦前の警官の様に思えた。
男は私達に背を向けたまま、手に持っている帽子の埃を払い、それをきちんと被りなおした。
それから、男は私達の存在に気付いたらしく、ゆっくりとこちらを向いた。
男の顔は制帽の影になってよく見えなかったが、それでも確かに私と目が合った。
目が合っていることはわかっていたのに、何故か視線を外すことができなかった。
怖いのではない。もっと不思議な感覚だ。
『……秋ちゃん?』
「………っ!?」
怪訝そうな陽平の声で、現実に引き戻された。
『大丈夫かい……?』
「一応な」
『あれは、自分で首吊ったくちだ。ああいうのは質が悪いから気を付けな』
どうやら藤野さんが言ってた霊らしい。
そして、霊はついに言葉を発した。
『確かに俺は首をくくったが、誰かに害を成した覚えはない』
適度に低く、落ち着いた声だった。意味もなく、懐かしさに似た感情を覚えた。
『そうかい。それじゃあ、ここの桜が咲かねえのは何処のどなた様の御陰だい?』
陽平が毒づくと、男は不機嫌そうに口を噤んだ。
『大体、巡的が何時までもこんな所でなにしてやがるんだ』
『君には関係無い話だ』
『はっ……、どうせそこの桜で首くくったはいいものの、成仏出来ずに今でもぶら下がってやがるんだろ!』
陽平が警官を嫌う気持ちはわからないでもないが…。言い過ぎの様な気もする。
『……ぶら下がっていたわけではない』
巡査は、憮然として言った。
『引っかかった帽子を取っていただけだ…』
そうか、それで急に上から……。
「……っく、あはははっ」
まずい。我慢ができずに笑ってしまった。
巡査は、恥ずかしそうにそっぽを向き、陽平は呆れた表情を作った。
『秋ちゃん……』
「だって……幽霊が……、幽霊が木に登って帽子取ってたって言うんだから仕方がないだろ」
決定的瞬間に違いない。どういう理屈で幽霊の帽子が飛ばされるのかはわからないが。
『女に振られて首くくった腑抜け巡査だ。帽子の一つや二つくらい飛ばすだろうぜ』
巡査は、陽平に苦々しい視線を寄越していたが、何も言わずに姿を消した。
消える直前の、どこか辛そうな表情が私の脳裏に焼き付いて離れなかった。
翌日も、私は枝垂れ桜を訪れた。
今日は元々残業で遅くなる予定だったから、居候達も迎えには来ないだろう。
時間帯は、昨日よりも遅い。時計の針は、午後十時を回ろうとしていた。
今日もまた桜の周囲に人影はなかった。
今度は、桜のすぐ近くに立って、樹上を見上げた。
枝の間を縫って、月の光が差し込んでくる。
私すぐ隣で、昨日の巡査の声がした。
『また来ていたのか』
昨日の事を謝りに来たと言うと、巡査は意外そうな顔をした。
『……特に、気にしては』
「私が気になりますから」
陽平の吐いた悪態をきっちり謝って顔を上げると、巡査は少し恐縮した様子だった。
しばらくの沈黙の後、巡査は意を決したように言った。
『貴方さえよければ、少し話さないか?』
私はそれを承諾した。
向かいのベンチに並んで腰を下ろす。
制帽の庇の下に隠されていた巡査の顔が、今度は、はっきりと見えた。
整ってはいるが、生真面目で気難しそうな顔立ちをしている。
『僕は、昔この付近で巡査をしていた、笹部利彦と言う者だ。貴方の名前を伺いたい』
「……私は、高村秋」
『では、高村さんと呼ばせていただこう』
巡査の口調は、先程までとは幾分か変わっていた。ずっと優しげに聞こえる。
『貴方は其処の博物館に御勤めか?』
「まだまだ新米ですが、学芸員の端くれです」
『そうか…、僕が生きていた頃はまだ建設途中だったのだが。死ぬ前に一度訪れてみたかった』
「よろしければ何時でもご案内しますよ」
『……機会があれば、是非に』
笹部は微笑んで見せたが、それは何処か淋しげだった。
『本当はすぐにでも頼みたいのだが、生憎と僕は此処を離れられない』
「美術はお好きですか?」
『何もわからないような朴念仁だけれども、ああいうのを見ていると時を忘れます。研究は何を?』
「実は、私の専門は刀剣なんです」
『刀……?』
笹部は不思議そうに繰り返した。
「美術工芸というやつです。うちの博物館の収蔵品に、備前刀の友成も含まれているんですが…」
『友成とは……、随分古い刀だ』
笹部は溜息を漏らした。
詳しいんですね、と言うと『元は士族の出であるから、多少は聞き囓っている』との返答があった。
「私はその友成に惚れ込んで、この職を選んだんです」
『できることなら、その刀を一目見てみたいな。貴方がそれ程までに言うのなら、良い刀なのだろう』
自分が褒められたかのようで、くすぐったい感じがした。
教方に聞かせてやったら、奴も喜ぶだろう。
『ところで、貴方はルノワールなんかもやりますか?』
「ルノワールですか?学生時代に西洋美術史は一通りやりましたけど……」
『それでは、先生に講義を御願いしても構わないだろうか?』
ぎょっとして彼の顔を覗き込むと、笹部は何処か緊張したような面持ちでいた。
「私ごときで良ければ」
その様子がおかしくて、私は思わず笑った。
それからはずっと美術の話をしていた。
話し込んでいて遅くなりすぎたらしく、ウィリアムが携帯に電話をかけてきた。
知らない間に日付が変わっていたようだ。
私には珍しく、名残惜しいと思いながら、笹部と別れた。
何となく、彼とは気が合うように思えてならなかった。
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