幽霊の体は本当に不思議だ。

 ウィリアムの膝は、私が病院から帰ってきた頃には、すっかり治っていた。

 羨ましい限りだ。

 医者に怪我の言い訳をするのに、私がどんなに労力を要した事か。

 挙げ句に、午後から出勤するしかなくなってしまった私は、事情を察した藤野さんから説教をくらい、踏んだり蹴ったりの一日を過ごした。

 陽平は、朝帰りどころか、丸二日帰ってこなかった。

 様子がおかしかったような気もしないではないが、別の住処を探していたのだと言う。

「……陽平さえ嫌でなければ、ここへ住んだら?」

『でも、ウィルと青山の旦那が上手くいかねえんなら、俺とどこか別のヤサに』

「それは解決した」

『解決?』

「何でそうなったのかは知らないけどさ」

 冬悟は未だによそよそしい態度ではあるが、一昨日から和解ムードが漂いはじめているのである。

『信じらんねえな……』

「まあな」

 公園での一件が、一役買っているのだろう。

 確か、冬悟が『心意気だけは買ってやる』とかなんとか言っていた。

『それは、ウィルの奴が、秋ちゃんを庇ってたんじゃないか?』

 話を聞いて陽平が言った。

『だって死にかけたんだろ?』

 そうだ。危うく死ぬところだった。

 しかし、こうして命を取り留めている。

「そうなんだろうな」

 それならば冬悟の態度にも説明が付く。

『何にせよ、無事で良かったよ』

「で、陽平はどうするんだ?」

『そうだな……』

 陽平の言葉は、台所の方から聞こえた騒音によって中断された。

「なんかやらかしたな……」

 様子を窺っていると、半べそをかいたウィリアムがふらふらとやって来た。

『すげえ音がしたけど、どうしたんだ?』

『棚に頭をぶつけてしまいました……』

「幽霊だろ!?通り抜けろよ!」

『ああ、そうだ…。鍋がへこんで』

「……なんだって?あんたの頭、どうなってるんだ……」

『いえ、その、鍋は私ではなく、棚から吹き飛んで青山殿に……』

「お前の頭か、冬悟っ!」

『ウィル……。後は俺がやっとくから、秋ちゃんと新しい鍋でも買いに出てろ』

 陽平は深い溜息を吐いた。

「悪いな、あと任せる」

『構わねえよ。これから世話になるんだからな』

「じゃあ、よろしく」

 陽平とそう言い交わして、私はウィリアムを外へ連れ出した。


 単車でホームセンターまで向かう。

 ウィリアムを後ろに乗せるのは二度目だ。彼はこういうのは嫌いではないらしい。

「今度は頭ぶつけるなよ」

『気を付けます』

 幽霊の声は、風圧で聞こえないということはないらしい。

 ヘルメット越しでも、その声ははっきり届いた。


 ホームセンターで鍋を選ぶ段になって、はたと気付いた。

 鍋といっても、どの鍋を壊したのだろう。

 夜七時前とはいえ、奥様方も買い物の最中である。

 下手にウィリアムに声を掛ける事は出来ない。

 どうしたものかと悩んでいると、ウィリアムが、恐らく冬悟の頭がへこませた物と同型の鍋を持ってやってきた。

 両手鍋だ……。両手鍋が宙に浮いている……。

 間の悪い事に、誰かが売り場の角を曲がってきた。

「……高村さん?」

 現れたのは、彫刻家ジャン・サイードだった。

「こ、こんばんは」

 一体この鍋をどうしたものか……。

 私は目を泳がせていたが、ジャン氏は少しも動じなかった。

「受け取ってやったらどうだろう」

「へ……?」

「鍋の事だが……」

 言われるままに、ウィリアムから鍋を受け取った。

「妙な事をお伺いしますが……」

「みえているよ。小向公園でよく見掛けた魂だ。前も連れていたな」

『あの、私を御存知なのですか?』

「気になってはいたのだが、夏貴が一緒では声が掛けられなかった。彼女は、超常現象が嫌いらしくて」

「日浦さん、体調如何ですか?」

「一時治まっていたんだが、午後から熱がぶり返した。仕事に熱中しすぎたんだ」

 ジャンは苦笑を浮かべた。

「熱冷ましが何処にあるか知らないか?」

「それなら向こうにありますよ」

 ウィリアムは、現代日本において買い物をするのは初めてらしく、色々な物に目移りするのだが、それでも大人しくジャンの買い物を手伝っていた。

 会計を済ませた後、私達は自販機の側で暫し雑談を交わした。


 一通り話した後で、ジャンはこう言った。

「夏貴の言う通りだ。高村さんは変わっているな」

「……よく言われます」

「君と居ると、彼はまるで生きている人間のように見える。最初に見つけた時とも、先日、家に来た時とも違う表情をしている」

 ウィリアムは、目を逸らさずにジャンを見ていた。

 一言も聞き漏らすまいとしているかのように。

「この間、私たちの家で、君は何か言いたそうな顔をしていた。君は何を言おうとしていたんだ?」

 ジャンは穏やかに、ウィリアムに尋ねた。

『貴方がどうして、今のような在り方で生きることにしたのか、どうやって信仰と折り合いをつけたのか、それが知りたかったのです』

「それは今も?」

『いいえ、今は違う事をお伺いしたい。……けれど、外つ国の言葉で語るには難しい話です。私の国の言葉で話してもよろしいしょうか?』

「もちろんだ」

 そこから先、二人は英語で話し始めた。

 私はあまり英語が得意ではないし、ウィリアムの話す英語が古い時代の物である事も手伝って、その会話の内容は、断片的にしか理解出来なかった。

 しかし、いくつかは聞き取る事が出来た。

 まず、ウィリアムは父を病で亡くし、幼い頃の父との日々を求めて再び日本へやってきたこと。

 捕らえられた切支丹屋敷で、何故神は哀れな信徒を助けてはくださらないのかと絶望を感じ、拷問の最中に死を迎えたこと。

 ジャンはその話を聞いて、こう口にした。

「おそらく君は、信じるものを失ったが故の心細さを抱えている。信じる気持ちが戻ってくるまでは、信仰の代わりに、何か、自分の支えに出来るものを見つけた方が良いだろう」

 ジャンは最後に言った。

「後は、君が自分で決めるんだ」と。


 ジャンが去った後、ウィリアムは、私にそっと話しかけた。

 その表情が心なしか明るくなったように思った。

「どうした?いい助言でも貰えたか?」

『はい。それで、私なりの答えを見つけました。ですから聞いて戴きたくて』

 ウィリアムは、はにかみながら言った。

『私は、人の心を信じようと思います、神の代わりに。いつか、もう一度、神を心から信じようと思える時まで』

「……人の心は、信じるに足りるか?」

 空気を読まない発言だとは思ったが、どうしても黙っていられなかった。

 人の心ほど安定しないものは他にないと、私は思っている。

 そんな不安定なものに信頼を置くことなどできるだろうか。

 ウィリアムは、信じます、と言った。

『今の私にさえ、唯一存在するものですから。』

 私は、まだ納得出来なかった。

 けれど、

『私は、誰よりも秋殿の心を信じております。貴方の心ならば信じられると思うのです。たとえ、それが常に変わりゆくものだとしても』

 そう言われて、黙るしかなかった。

 衝撃的すぎて、頭の中を串刺しにされたような気分だった。

「……さっさと帰るぞ」

 サイドミラーに映った私の顔は、苦虫を噛み潰したようだった。

 帰りは何時もより、単車を飛ばして帰った。

 でなければ、照れくさくて死んでしまいそうだった。

 そんなにも、全幅の信頼といってもいいほどのものを、私なんかが受け取ってしまって良いものだろうか。

 家に着いた頃には、ウィリアムがふらふらになっていたが、警官に見とがめられる事はなかったので、道路交通法上の問題はなかったのだと、固く信じたい。


 それから暫く経った、ある休日の昼下がり。

「……なんか作るか」

 誰に言うわけでもなく呟いたはずが、耳聡く聞きつけた霊・計三体。

 陽平は特に興味がないらしい。

『何か、お手伝いすることは?』

 台所の好きなウィリアムが喜々として声を掛けてきた以外は、二人とも素知らぬふりをしているが、こちらの様子をちゃっかり探っているようだった。

「取りあえず、オーブン温めといて」

『承知致しました。で、何を作るんです?』

「そうだな…」

 台所を見回すと、季節はずれなカボチャの存在が目にとまった。

 この間、実家から送りつけられてきたやつだ。

 そろそろ食べてしまわないと、生ゴミとして捨てるしか、活用の方法が無くなる。

「パンプキンタルトでも作ろうかな」

『『………?………』』

 何も言わないが、教方と冬悟の背中が、彼らの疑問をこれでもかと語っている。

 これで作業を邪魔されるのは、決定したようなものだ。

『秋殿、バターは何グラムくらい入り用ですか?』

 ウィリアムは、ポンドからグラムへあっさり鞍替え出来たようだ。

 冬悟などは、未だに「貫」とか「匁」とか言わないとわからない。

「バターは70グラム。薄力粉は、カップ一杯と半分」

『では、用意して置きますね』

 生地を作っている時はまだ、連中は無関心を装っていた。

 そして、食卓の上でカボチャを切り始めた頃になって、いつの間にか、私の両脇を教方と冬悟が、しっかり固めていた。

『……俺は、これを初めて見たのだが…』

 カボチャを前にして、戸惑い気味の教方に対し、江戸生まれの冬悟は余裕の表情である。

『南瓜だな。煮付けるのか?』

 教方は、『煮付ける』という部分に反応した。

『食えるのか…』

 随分とカボチャに失礼な話だ。

「食えるに決まってるだろ」

『秋、手元が危ない』

「硬いんだよっ」

 薪でも割るように、包丁が刺さったままのカボチャをまな板に叩きつけると、ざっくり二つになった。

『そのやり方は…、どうかと思うぞ』

「文句があるなら、家賃ぐらい払ってからにしろ」

『高村っ、余所見をするな。指を切るぞ!』

「五月蠅いな」

『刃物漫才はやめた方がいいぜ、秋ちゃん…』

「突き立てたって死なない癖に何を言うか!」

 気が付けば、台所と食卓の周囲に全員が集合していた。

 姦しい事この上ない。

 こうして加速していく日々の喧噪の中で、私の考えは変容せざるをえない時がある。

 人の心は光よりも速く移り変わる。

 しかし、現世を彷徨う彼らの思いは変わらない。そう易々と変えることが出来ない。

 変わることのないその心を前に、私は揺らぐ。

 その揺らぎの向こうには、自分では直視したくない様々な感情が、絶えず顔を覗かせていた。


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