8
幽霊の体は本当に不思議だ。
ウィリアムの膝は、私が病院から帰ってきた頃には、すっかり治っていた。
羨ましい限りだ。
医者に怪我の言い訳をするのに、私がどんなに労力を要した事か。
挙げ句に、午後から出勤するしかなくなってしまった私は、事情を察した藤野さんから説教をくらい、踏んだり蹴ったりの一日を過ごした。
陽平は、朝帰りどころか、丸二日帰ってこなかった。
様子がおかしかったような気もしないではないが、別の住処を探していたのだと言う。
「……陽平さえ嫌でなければ、ここへ住んだら?」
『でも、ウィルと青山の旦那が上手くいかねえんなら、俺とどこか別のヤサに』
「それは解決した」
『解決?』
「何でそうなったのかは知らないけどさ」
冬悟は未だによそよそしい態度ではあるが、一昨日から和解ムードが漂いはじめているのである。
『信じらんねえな……』
「まあな」
公園での一件が、一役買っているのだろう。
確か、冬悟が『心意気だけは買ってやる』とかなんとか言っていた。
『それは、ウィルの奴が、秋ちゃんを庇ってたんじゃないか?』
話を聞いて陽平が言った。
『だって死にかけたんだろ?』
そうだ。危うく死ぬところだった。
しかし、こうして命を取り留めている。
「そうなんだろうな」
それならば冬悟の態度にも説明が付く。
『何にせよ、無事で良かったよ』
「で、陽平はどうするんだ?」
『そうだな……』
陽平の言葉は、台所の方から聞こえた騒音によって中断された。
「なんかやらかしたな……」
様子を窺っていると、半べそをかいたウィリアムがふらふらとやって来た。
『すげえ音がしたけど、どうしたんだ?』
『棚に頭をぶつけてしまいました……』
「幽霊だろ!?通り抜けろよ!」
『ああ、そうだ…。鍋がへこんで』
「……なんだって?あんたの頭、どうなってるんだ……」
『いえ、その、鍋は私ではなく、棚から吹き飛んで青山殿に……』
「お前の頭か、冬悟っ!」
『ウィル……。後は俺がやっとくから、秋ちゃんと新しい鍋でも買いに出てろ』
陽平は深い溜息を吐いた。
「悪いな、あと任せる」
『構わねえよ。これから世話になるんだからな』
「じゃあ、よろしく」
陽平とそう言い交わして、私はウィリアムを外へ連れ出した。
単車でホームセンターまで向かう。
ウィリアムを後ろに乗せるのは二度目だ。彼はこういうのは嫌いではないらしい。
「今度は頭ぶつけるなよ」
『気を付けます』
幽霊の声は、風圧で聞こえないということはないらしい。
ヘルメット越しでも、その声ははっきり届いた。
ホームセンターで鍋を選ぶ段になって、はたと気付いた。
鍋といっても、どの鍋を壊したのだろう。
夜七時前とはいえ、奥様方も買い物の最中である。
下手にウィリアムに声を掛ける事は出来ない。
どうしたものかと悩んでいると、ウィリアムが、恐らく冬悟の頭がへこませた物と同型の鍋を持ってやってきた。
両手鍋だ……。両手鍋が宙に浮いている……。
間の悪い事に、誰かが売り場の角を曲がってきた。
「……高村さん?」
現れたのは、彫刻家ジャン・サイードだった。
「こ、こんばんは」
一体この鍋をどうしたものか……。
私は目を泳がせていたが、ジャン氏は少しも動じなかった。
「受け取ってやったらどうだろう」
「へ……?」
「鍋の事だが……」
言われるままに、ウィリアムから鍋を受け取った。
「妙な事をお伺いしますが……」
「みえているよ。小向公園でよく見掛けた魂だ。前も連れていたな」
『あの、私を御存知なのですか?』
「気になってはいたのだが、夏貴が一緒では声が掛けられなかった。彼女は、超常現象が嫌いらしくて」
「日浦さん、体調如何ですか?」
「一時治まっていたんだが、午後から熱がぶり返した。仕事に熱中しすぎたんだ」
ジャンは苦笑を浮かべた。
「熱冷ましが何処にあるか知らないか?」
「それなら向こうにありますよ」
ウィリアムは、現代日本において買い物をするのは初めてらしく、色々な物に目移りするのだが、それでも大人しくジャンの買い物を手伝っていた。
会計を済ませた後、私達は自販機の側で暫し雑談を交わした。
一通り話した後で、ジャンはこう言った。
「夏貴の言う通りだ。高村さんは変わっているな」
「……よく言われます」
「君と居ると、彼はまるで生きている人間のように見える。最初に見つけた時とも、先日、家に来た時とも違う表情をしている」
ウィリアムは、目を逸らさずにジャンを見ていた。
一言も聞き漏らすまいとしているかのように。
「この間、私たちの家で、君は何か言いたそうな顔をしていた。君は何を言おうとしていたんだ?」
ジャンは穏やかに、ウィリアムに尋ねた。
『貴方がどうして、今のような在り方で生きることにしたのか、どうやって信仰と折り合いをつけたのか、それが知りたかったのです』
「それは今も?」
『いいえ、今は違う事をお伺いしたい。……けれど、外つ国の言葉で語るには難しい話です。私の国の言葉で話してもよろしいしょうか?』
「もちろんだ」
そこから先、二人は英語で話し始めた。
私はあまり英語が得意ではないし、ウィリアムの話す英語が古い時代の物である事も手伝って、その会話の内容は、断片的にしか理解出来なかった。
しかし、いくつかは聞き取る事が出来た。
まず、ウィリアムは父を病で亡くし、幼い頃の父との日々を求めて再び日本へやってきたこと。
捕らえられた切支丹屋敷で、何故神は哀れな信徒を助けてはくださらないのかと絶望を感じ、拷問の最中に死を迎えたこと。
ジャンはその話を聞いて、こう口にした。
「おそらく君は、信じるものを失ったが故の心細さを抱えている。信じる気持ちが戻ってくるまでは、信仰の代わりに、何か、自分の支えに出来るものを見つけた方が良いだろう」
ジャンは最後に言った。
「後は、君が自分で決めるんだ」と。
ジャンが去った後、ウィリアムは、私にそっと話しかけた。
その表情が心なしか明るくなったように思った。
「どうした?いい助言でも貰えたか?」
『はい。それで、私なりの答えを見つけました。ですから聞いて戴きたくて』
ウィリアムは、はにかみながら言った。
『私は、人の心を信じようと思います、神の代わりに。いつか、もう一度、神を心から信じようと思える時まで』
「……人の心は、信じるに足りるか?」
空気を読まない発言だとは思ったが、どうしても黙っていられなかった。
人の心ほど安定しないものは他にないと、私は思っている。
そんな不安定なものに信頼を置くことなどできるだろうか。
ウィリアムは、信じます、と言った。
『今の私にさえ、唯一存在するものですから。』
私は、まだ納得出来なかった。
けれど、
『私は、誰よりも秋殿の心を信じております。貴方の心ならば信じられると思うのです。たとえ、それが常に変わりゆくものだとしても』
そう言われて、黙るしかなかった。
衝撃的すぎて、頭の中を串刺しにされたような気分だった。
「……さっさと帰るぞ」
サイドミラーに映った私の顔は、苦虫を噛み潰したようだった。
帰りは何時もより、単車を飛ばして帰った。
でなければ、照れくさくて死んでしまいそうだった。
そんなにも、全幅の信頼といってもいいほどのものを、私なんかが受け取ってしまって良いものだろうか。
家に着いた頃には、ウィリアムがふらふらになっていたが、警官に見とがめられる事はなかったので、道路交通法上の問題はなかったのだと、固く信じたい。
それから暫く経った、ある休日の昼下がり。
「……なんか作るか」
誰に言うわけでもなく呟いたはずが、耳聡く聞きつけた霊・計三体。
陽平は特に興味がないらしい。
『何か、お手伝いすることは?』
台所の好きなウィリアムが喜々として声を掛けてきた以外は、二人とも素知らぬふりをしているが、こちらの様子をちゃっかり探っているようだった。
「取りあえず、オーブン温めといて」
『承知致しました。で、何を作るんです?』
「そうだな…」
台所を見回すと、季節はずれなカボチャの存在が目にとまった。
この間、実家から送りつけられてきたやつだ。
そろそろ食べてしまわないと、生ゴミとして捨てるしか、活用の方法が無くなる。
「パンプキンタルトでも作ろうかな」
『『………?………』』
何も言わないが、教方と冬悟の背中が、彼らの疑問をこれでもかと語っている。
これで作業を邪魔されるのは、決定したようなものだ。
『秋殿、バターは何グラムくらい入り用ですか?』
ウィリアムは、ポンドからグラムへあっさり鞍替え出来たようだ。
冬悟などは、未だに「貫」とか「匁」とか言わないとわからない。
「バターは70グラム。薄力粉は、カップ一杯と半分」
『では、用意して置きますね』
生地を作っている時はまだ、連中は無関心を装っていた。
そして、食卓の上でカボチャを切り始めた頃になって、いつの間にか、私の両脇を教方と冬悟が、しっかり固めていた。
『……俺は、これを初めて見たのだが…』
カボチャを前にして、戸惑い気味の教方に対し、江戸生まれの冬悟は余裕の表情である。
『南瓜だな。煮付けるのか?』
教方は、『煮付ける』という部分に反応した。
『食えるのか…』
随分とカボチャに失礼な話だ。
「食えるに決まってるだろ」
『秋、手元が危ない』
「硬いんだよっ」
薪でも割るように、包丁が刺さったままのカボチャをまな板に叩きつけると、ざっくり二つになった。
『そのやり方は…、どうかと思うぞ』
「文句があるなら、家賃ぐらい払ってからにしろ」
『高村っ、余所見をするな。指を切るぞ!』
「五月蠅いな」
『刃物漫才はやめた方がいいぜ、秋ちゃん…』
「突き立てたって死なない癖に何を言うか!」
気が付けば、台所と食卓の周囲に全員が集合していた。
姦しい事この上ない。
こうして加速していく日々の喧噪の中で、私の考えは変容せざるをえない時がある。
人の心は光よりも速く移り変わる。
しかし、現世を彷徨う彼らの思いは変わらない。そう易々と変えることが出来ない。
変わることのないその心を前に、私は揺らぐ。
その揺らぎの向こうには、自分では直視したくない様々な感情が、絶えず顔を覗かせていた。
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