化け物の姿は夜目にもはっきり見える。

 その言い伝えは、本当らしい。

 月もなく、外灯も消えた公園に、ウィリアムは立っていた。

 単車のエンジン音にも、気付いていないらしい。

 彼は、ただ中空を見上げていた。

 耳鳴りがする。

 こういう時は、何か質の悪いものがいると、藤野さんが言っていた。

 だからといって、この頼りない英国産の兄ちゃんを残して引き下がるわけにもいかない。

「因果な性格……」

 ヘルメットを脱いで、公園内に一歩踏み入れる。

 得体の知れない恐怖を感じた。

 目の前をひらひらと白い羽が舞い落ちていく。

 それこそ、雪でも降っているかのように。

 消えた外灯の上から光がそそいでいる。

 いかにも清らかそうな、神々しそうな、芝居がかった光だ。

 芳しいとでも形容するのが相応しそうな香りが辺りを包んでいる。

 ウィリアムは言葉もなく、その光を見上げている。

 無意識のうちに、雰囲気に飲み込まれそうになる。

「あんた、性格悪いな」

 私は、外灯の上の優美なシルエットに向かって呟いた。

 こういうのを「魔境」と言うのだ。

 もっともらしい物にこそ、嘘がある。

 典雅な声が頭上から降り注ぐ。

 全てを許すようでいて、全てを咎めているような、不思議な声だ。

 その声が悠然と「神の御言葉」を紡ぎ出す。

 そして、その神の御言葉こそが、彼の枷だ。

 つまりこれは、彼を責め立てるためだけに用意された茶番劇、ということになる。

 しかし、残念ながら茶番はこれで幕引きだ。


 公園に響き渡る、けたたましい音。

 私が蹴倒したゴミ箱が、場の雰囲気をなし崩しに奪い去った。

 この時の私は、少しばかり頭に血が上り過ぎていたかもしれない。

 ウィリアムが弾かれたようにこちらを振り返った。

 心の底から意外そうな、そんな表情だ。

「御機嫌よう、間抜け面」

『……ど、どうして』

「どうしてもこうしても、店子を心配するのが大家だろ。ほら、さっさと帰るぞ」

『帰る……?』

「こういう輩は相手するとつけあがるんだ。放っとけ」

 降り注いでいた羽が止んだ。

 指先が軽く痺れている。空気が帯電している。

 どうやら横槍を入れた私が気に入らないらしい。

 化け物は、本性でも現すつもりか。

 体にかかる重力が増す。きっとこれが殺気というものなのだろう。

 絹を引き裂くような叫びが、耳を突いた。

『……っ!?』

 ウィリアムの頭上に、突如、躍り上がった影。

 突然の事に、ウィリアムの反応が間に合わない。

 私は、棒立ちになったままのウィアムの足を払った。

『うぁっ……』

 転倒し膝を突いたウィリアムの頭を掠めるように飛んでいった女の生首を、私は確かに見た。

 見えるのなら、平気だ。私にも触れるはず。

『秋殿っ』

 今度は私目掛けて飛んできた生首を、噛み付かれる寸前で押し止めた。

 手の平がびりびりしている。

 指の間で波打つ黒髪が気持ち悪い。

「様ァみやがれ」

 生首は怒りに燃えた目で私を睨み付けた。

 怒り狂ってお前を切り刻んでやりたいのはこっちの方だ。

 それにしても問題は、この捕まえた生首をどうするか、だ。

 その後をすっかり失念していた。

「……物は試し、っていうよな」

 私は、その生首を使って、近くにあった防犯灯を殴りつけた。

 サスペンスドラマさながらの凄惨な光景である。

 しかし、こっちにも身の安全がかかっている。

 生首は二撃目で白目を剥いた。

 上手くいったと思ったのに、人生はなかなか手厳しい。

 ウィリアムに向かって手を伸ばす、別の影が目に入った。

 気付いた時には、考えるより先に体が動いていた。

「………っぐ!!」

 首の骨が、めきめきと嫌な音をたてた。

 息が詰まる。

 正直、庇わなければ良かったと思った。

 冬悟は死ぬ時に、そうは思わなかっただろうけれど。

 私は、志高き武士でも粋な江戸っ子でもない。

 骨と皮ばかりの薄気味悪い腕が、私の首を締め上げている。

 息が出来ない苦しさよりも、この薄気味悪い化け物の頬の一つも張っ倒してやれないことに苛立ちを感じていた。

 悔しくて堪らない。

 体が宙に浮いた。

 首だけで体重が支えられている。

 次の瞬間、私の体は何処かに叩き付けられていた。

 意識が遠くなる。

『秋殿……っ!!』

 今にも泣きそうな顔で涙を堪えているウィリアムの顔が、一瞬見えたような気がした。


 全身が痛い。

 鉛のように体が重い。

 私はどうなったのだろう。

 意識が曖昧なうちに、何か声を聞いたような気もするのだが、どうしても思い出せない。

『気が付いたか』

 瞼を開くと、見慣れた死霊が、私の顔を覗き込んでいた。

「教方……」

『余りに帰りが遅いのでな。探しに来た』

「あいつ、どうなった!?ウィリアムは!」

 激痛で声が詰まった。

『無事でおります。秋殿、無理はなさらないで下さい』

「……若いから大丈夫だよ」

 そう言って、無理矢理体を起こした。

 体中が悲鳴をあげているみたいだった。

「ここにいた化け物は?」

『仕留め損ねた。今は、あそこで様子を窺っている』

 教方の指した木立の辺りだけ、風もないのにざわざわと蠢いていた。

『こちらの隙を窺っている』

 徹頭徹尾、趣味の悪い。

『方法は二つだ。このまま、日の出を待つか』

『こちらから仕掛けるか、だ』

 厄介事ある所、この男あり、だな。

 やけに張り切った様子の冬悟が隣に立っていた。

『高村はなにかと傷が絶えないな』

 冬悟は好戦的な笑みを浮かべていた。これだから放蕩息子は始末に困る。

『それから、そこの』

『私、ですか』

『足引きずって突っ立ってるくらいなら、高村と一緒に下がっていろ。邪魔だ』

 冬悟に言われるまで気付きもしなかった。ウィリアムの左膝は、僅かではあったが有り得ない方向に折れ曲がっていた。

 冬悟は、それ以降一度もウィリアムの方を見なかった。

 その代わり、不本意そうに

『……心意気だけは買ってやる』

と呟いた。

『青山様……』 

 一体何の話をしているのか、その時の私にはわからなかった。

 そしてすぐに、そんなことも気にならなくなるほど事態は急転した。

 公園一面が火の海になったのだ。

 ウィリアムの動揺を誘うつもりなのだろう。

 辺りを紅く染めかえるその業火は、煉獄の情景を思い起こさせる。

『つまらぬ事を……』

 教方が舌打ちした。

 正直に言うと、眼前に広がる炎よりも、今の教方の方が恐ろしかった。さすが、元悪霊。

『狐狸が多く集まっているが、元締めは別だな』

 冬悟が言う。

『其奴を引きずり出せば、話は早い』

『それが、簡単には行かぬだろうな』

 火勢が強まる。

 炎の爆ぜる音に混じって、きいきいと甲高い笑い声が聞こえてくる。

 私はウィリアムの手を掴んだ。

 彼の手を押さえた指の間から、炎が立ち上る。

 渦を巻く炎に合わせて、誰の物ともしれない影が踊った。

 さっき叩き付けられた時のダメージの所為か、目眩がする。

 『私は何故、土に還らないのですか』と尋ねる声がする。

 人はただ朽ちていくものだと思っていたと泣く声が聞こえる。

 そんなものは…、決まっている。

「……自分が、朽ちたくないと思ってるからだろ」

 視点の定まらない目を凝らすと、炎の向こう、ウィリアムの青い瞳から、涙が零れ落ちているのが見えた。

(あれはアンタの声、か)

 ウィリアムが現世に執着する理由は知らない。

 けれど、これだけは確かだ。孤独と背信という罪の意識に苛まれている事だけは。

 かける言葉は見つからなかった。

 ただ涙を拭ってやる事しか、私にはできない。

 不意に、火が掻き消えた。

 急に訪れた暗闇に目が眩む。

 何者かが、物凄い速さでこちらへ向かってくる。

 それに気付いても、痛みを引きずったままの体は、思うように動いてはくれなかった。

『秋っ』

『高村!』

 空気が震えた。

 稲妻のような光が青白く瞬いては消えていく。

『秋殿……っ、ご無事ですか……!』

 私の首を絞めようと伸ばされたミイラのような腕を、ウィリアムが、すんでの所で引き止めていた。

 光は、二つの幽体の接触点から生じていた。

『この者が頭目です!』

 冬悟の愛刀が、闇に閃いた。

 瞬きをする間もなく、腕は煙のように消失し、後には古びた頭蓋骨が転がった。

『この程度の霊、話にならん』

 そう言いながら、冬悟は刀を収めた。

 この間、教方と遭遇した連中に比べれば他愛ないに違いない。あの時のように、再生したりはしなかったのだから。

 それにしても、疲れた。

 座り込んだまま動かずにいると、心外な事に冬悟から説教を喰らった。

『高村、お前は無理をしすぎる』

「……今回のことは、確かに無鉄砲過ぎたけど」

 自分でも恐ろしくなる程の短慮だった。

 冬悟は怒った顔をして、私の隣に膝を突いた。

『今回の事ばかりではない』

 そして、首を見せてみろ、と怒った調子のまま言った。

「平気だよ」

『平気なはずがなかろう』

 苦しい言い訳は教方にもはねつけられた。

『……意地ばかり張るな。教方殿も片倉も心配しているぞ』

 首に触れた冬悟の手は、氷のように冷たかった。

 死体の体温は外気温と同じくらいなのだから当然か。

 痛みが引いていくような気がする。

『仕事の内容はわからぬが、愚痴ぐらいなら付き合ってやる』

 だから無理はするな、と幼子に言い聞かせるように諭された。

 まさか、こんな状況で日常生活レベルの説教を喰らうとは思わなかったが、

『取りあえずは、これでいい。後は帰って医者に診せろ。無理が祟っての無鉄砲に巻き込まれるのは、金輪際御免だからな』

 錯覚なのかもしれないが、少し体が楽になった。

 のろのろと立ち上がる。

 帰ったら風呂に入ろうと思った。

『おい、お前』

 冬悟は、今度は話の矛先をウィリアムに向けた。

 急に話を振られたウィリアムは、ぽかんとしていた。

『俺を青山様と呼ぶのは止せ。尻こそばくてかなわん!』

『……わっ…わかりました。青山殿……』

『高村、俺は二度寝に戻るからな』

「はいはい」

 言うだけ言って冬悟は、あっという間に姿を消し、気付いた時には教方も居なくなっていた。最後に『冬悟、鞘を落としている』という教方の慌てた声が聞こえたような気もするが、聞かなかった事にしよう。

 ウィリアムの膝は、あらぬ方向へ曲がったままである。むしろ状態が、さっきよりもひどくなっている。

 これでは、私が手を貸してやるしか方法がない。

 あいつら、一緒に連れて行ってくれればよかったものを……。

 私が手を差し出すと、ウィリアムはおずおずと手を取った。

 引っ張り上げようとしたが、コンクリートで固められているかのように動かない。

「ウィリアム……、立ち上がる気があるか?」

『えっと、あの……その……』

 言葉を濁し、私の方を向こうとしない。

 それで、何となく勘が働いた。

 彼は私の家を出た時から、そう決めていたのだろう。

「……だから、一人で此処へ戻ってきたのか?」

『秋殿に、これ以上迷惑を掛けたくなくて……』

 ウィリアムは、ここに独り留まるつもりだ。

「気持ちだけは受け取っておく」

 独りは淋しかった癖に。淋しくて泣き続けていた癖に。

 幽霊の分際で、本音と建て前使い分けるとは上等だ。

「だから、お前の言い分は却下だ」

 単車の後ろに乗って行け、と言って、公園の外を指さすと、ウィリアムは、

『私は、そこまでしていただけるような人間ではございません……』

と、俯いた。

「……足痛めたんだろ?」

『いいえっ、そんなことは!』 

「しかも、それは私をかばったからだな?」

『そ、そんな事は御座いませんっ』

 ウィリアムは強く否定したが、そんなはずはない。

 私が意識を飛ばすまでは、怪我などしていなかった。

 つまりは、私がもっと上手く立ち回っていれば、ウィリアムが怪我をする事など無かったかもしれないのだ。

 ウィリアムは『一刻もすれば治りますし……』と、もごもご言っていたが、私はそんな口がきけないようにその頬をつまんで引き延ばしてやった。

「帰るぞ。返事はひとつしか受け付けない。口にするなら“はい”一択だ。わかったか?」

『ふぁい…』

「……迷惑ついでだ。私が死ぬまでは、面倒見てやるよ」

 二度目に手を差し出すと、ウィリアムは今度もおずおずと手を握った。

 木立に切り取られた空が、紫色に染まりはじめた。

 化け物だったはずの頭蓋骨も、今はただ暖かな光に照らされている。

 もうすぐ日が昇る。

 英国の泣き虫な青年は、本当に嬉しそうに微笑んだ。


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