午後十一時帰宅。

 玄関の鍵を開けようとしたら、中からこんな声が聞こえてきた。

『……このお玉は何だ?』

『昨日、秋がそれを振りかざして暴れていた』

 しばらくの沈黙に続いて、冬悟が呟いた。

『やはり、高村は近頃様子がおかしい』

 おかしくて悪かったな。

 思わず玄関を蹴破ろうとした私を、ウィリアムが必死で押し止めた。

 今度は陽平の声が聞こえた。

『この間は、近所のポリバケツに蹴り入れてたぜ。前にも増して短気になったな』

『このところの怒り様は尋常ではない』

『高村のような性格を、昨今では“瞬間湯沸かし器”というらしいぞ』

『……それは、秋ちゃんには絶対言うなよ』

『何があっても言うてはならぬぞ』

 陽平と教方はくどい程言い募った。

『……わかった、気を付ける』

 冬悟がたじろいでいるのが、声からでも察せられた。

『しかし、高村は怒っている時の方が生き生きしているな』

と、冬悟が言う。

『俺は、怒ってる時の秋ちゃんも好きだぜ。けどよ、最近は体を引き攣らせるようにして怒ってんだ。あれは、よくねえな』

 余程熱心に話し込んでいるらしく、教方でさえ私の帰宅に気付いていない。

 ……お前らは、私の親か。

『新しく任されたという仕事が苦になっているのではないか?荷が重いと嘆いていた』

 前言撤回。

 こいつら、親より鋭い……。

 しかし、他人が怒っている様子を褒めるという時点で、連中の感性は恐ろしく狂っている。

 この狂った感性は、死後この様に変容せざるをえないものなのか、それとも生前からこの様であるのか想像のしようもないが、兎に角、連中が私の心配をしてくれている事は確かである。

 考えた末、私は、何も聞かなかった振りを決め込むことにした。

 人付き合いが不得意な私には、それ以外の対処方法が思いつかない。

 今帰ってきた振りをしながら玄関を入る。

 連中も、それぞれまるで違う話をしていたかのように装っている。

「……何か、あったのか?」

 態と聞いてみた。

 聞かない方が不自然だと思ったからだ。

 三人三様に誤魔化していたが、やはり陽平の誤魔化し方が一番優れていた。

 冬悟など、マツケンサンバをハミングしながら、覚束ない足取りでステップを踏んでいた。

 怪しすぎる。

 テレビで見てあんなものは嫌いだと豪語していた癖に、どういうつもりだ。

 しかもその様では、ステップとは呼べない。世間一般では、それを「千鳥足」と言う。

 何気なく台所へ向かうと、食卓の上には、巨大な段ボールが鎮座していた。

 食卓に巨大な、段ボール……。

「何だ、これ……!?」

 朝、出掛けにこんな物はなかった。

『高村宛に届いた』

 当然だ。

 幽霊宛に荷物が届くはずがない。

 問題は、誰が受け取ったのか、ということだ。

 丁髷の侍、もしくは甲冑姿の男が郵便を受け取ったとなれば一大事である。

 御近所におかしな噂が流れること間違い無しだ。

『俺が受け取っておいたから、安心してくれ』

 陽平が印鑑片手に言った。

 ………陽平が、印鑑。

 つまりは、詐欺師に印鑑を握られている。


 すっげえ不安!


 偶然、陽平と目があった。

『あ……』

 奴も気が付いたらしい。

 慌てて弁解を始めた。

『すまねえっ!別に下心があってやったわけじゃぁ……』

 そりゃあ、幽霊のアンタに金も何も、今更関係ないだろう。

 勝手に口座作って、振り込め詐欺でも始めない限り咎めやしないが。

 そういう態度が、さらに言い訳がましさを募らせている事に気付いていないのだろうか。

 そもそも、幽霊達に印鑑の場所を教えた事すらない。

「ったく、手癖の悪い」

 そう言って印鑑を受け取ると、陽平は罰が悪そうに笑った。


 帰宅するまでの数時間、ウィリアムは何事もなかったように振る舞っていたが、本当はかなりのショックを受けていたようだった。

 私が就寝しようと部屋を片付けていると、ウィリアムが恐る恐る側へ寄ってきた。

『秋殿ぉ』

 ……情けない声だ。

 どうしたのか尋ねると、怖くて眠れないと言うのだ。

 幽霊に寝る必要があるのか、私は少しも納得出来ないのだけれど、うちの居候連中は全員、睡眠を取るのだ。

 藤野さんに相談したところ、そんな話聞いた事がないと言っていた。

『秋殿、どうか一人にしないで下さい……』

「一人って、陽平がいるだろ」

『陽平殿は遊びに行ってくると仰って、出掛けてしまわれました』

 恐らく、明日の朝まで帰ってこないだろう。

「教方は?」

『その、教方殿は……』

 ウィリアムは、とても言いづらそうに目を逸らした。

『……何と申し上げればいいのか』

 そりゃあ、甲冑着込んで座ったまま寝るような奴と一緒に居たくない、という気持ちは

よくわかる。

 あんな鎧兜の横で、喜々として寝付くのは、私くらいなものだ。

 特に、外国人のウィリアムにとっては、得体の知れないものに対しての抵抗もあるだろう。

「仕方ないな」

 そんなこんなで、本日はリビングで眠る羽目になった。

 寝床はソファーという始末だ。

 それから、私はいつの間にか眠り込んでいたが、妙な空気のざわつきを感じて目を覚ました。

 ざわつきの元は、リビングの硝子戸の向こうだ。

 カーテンで外は見えないが、誰かがこちらを窺っているような気配があった。

 陽平なら、硝子をくぐり抜けて中へ入る事も可能だ。

 それ以外の誰かが、外にいる。

 周りを見回すと、教方や冬悟も目を覚まして、窓の向こうを探るような視線を寄越していた。

 カーテンを開けたとしても、恐らく私にはまた、何も見えないのだろう。

 しかし、ウィリアムには、カーテンの向こうの何者かの姿が見えているようだった。

 そうして睨み合っている内に、窓の向こうで何かが光りはじめた。

 その時、ウィリアムの右腕が、突如として火を噴いた。

(怖がったら、負けだ)

 私は昼間の藤野さんの言葉を思い出していた。

「冬悟、曲者っ」

『わかっている!』

 冬悟が刀を手に飛び出していくのを横目に、私は火が上がったウィリアムの腕を掴んだ。

 背後で、教方が刀を抜いた鍔鳴りの音が聞こえた。

 相手は一人では無いのかもしれない。

 教方の姿が消える。残ったのは、私とウィリアムの二人だけだ。

 炎から立ち昇る気流が、私の皮膚を焦がす。

 けれど、これは幻覚だ。

 怯んだら、負ける。この炎も本物きっとになる。昼間のように。

 こんなことがあるはずがない。

「ウィリアム、こんなものは幻だ」

 火元もないのに物が燃えるはずがない。

 ウィリアムは、まだこちらを見ない。私に見えない何かに怯えている。

「惑わされるな。ここは煉獄じゃない」

 腕を握る指に力を込めた。

「ここは私の家だ」

 燃やされて、たまるか。

 青い目がゆっくりとこちらを向いた。

「ニーチェってドイツ人が言ったらしい。神は死んだ、って。神様なんてのは、百何十年も前に死んだんだ」

 ウィリアムの瞳に映った私は、不敵な笑みを浮かべていた。

 神も悪魔も糞食らえ。

──私の、勝ちだ。

 一度は燃え上がった炎は、次第に勢いを弱め、やがて消えた。


『くそっ、逃がした』

 悪態を吐きながら戻ってきたのは、冬悟。

 少し遅れて教方も帰ってきた。

『秋、後の様子はどうだ?』

「大丈夫。火は消えたし、ウィリアムも正気付いた」

 今度は実際の火災にまで発展しなかった。

『お前、さっきの者に心当たりがあるのか?』

 ウィリアムは、黙って首を横に振った。

 冬悟は、胡散臭そうにウィリアムの様子を窺っていたが、

『高村、奴ら切支丹屋敷の辺りで消えたぞ』

と、言い残して姿を消した。

 私は、さっきの興奮が抜けないせいか、一向に寝付けなかった。

 明け方、玄関の方から足音が聞こえた。

 足音の重さからいって、教方ではない事は確かだ。

 陽平が帰ってきたのだろうか。

 玄関の方を覗くと、玄関の戸をすり抜けていくウィリアムの後ろ姿が見えた。

「冬悟の奴、余計な事言いやがって……」

 慌てて服を着替えると、直ぐさま後を追い掛けた。

 二月の日の出は、まだ遠い。

 単車のヘッドライトが、真っ暗な路を照らしていた。

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