明けてあくる日。

 朝は、何事もなく、職場へ向かった。……ウィリアムが憑いてきたこと以外は……。

 業務が始まってしばらくして、日浦ねえさんから電話がかかってきた。

“ゴメン、風邪だと思ってたら、インフルエンザらしいわ。当分は自宅待機”

「わりました。伝えておきます」

“もう一手間患わせて悪いけど、今日の帰りで構わないから、机の端に積んである資料持って来てくれないかしら。熱があるからって何もしないわけにはいかないし”

 そう言えばこの間、来週までの急ぎの仕事があると、日浦さんが愚痴を零していた。

「了解しました。でも無理はしないで下さいね」

“ありがとう、気をつけるわね”

 声だけで判断するに、日浦さんの具合は相当悪いはずだ。声に覇気がなかった。

 しかし、ここで止めようものなら、さらにその不調を押して、私の説得に乗り出すだろう。

 日浦さんは、それほどに頑固だ。言い出したら、決して引き下がらない。

「まったく、仕事人間なんですから……」

 そうボヤくと、受話器の向こうから掠れ気味の苦笑が聞こえた。

“私から仕事を取ったら、何が残るって言うの?”

「そりゃあ、勿論、美貌と優しさが残りますよ」

 日浦さんは、私の物言いが可笑しかったらしく、くすくす笑いながら電話を切った。

「なんや楽しそうやけど、彼氏か?」

「いいえ、職場の女王陛下からのお電話です」

「淋しい身の上」

「一昨日、振られたばかりの藤野さんに言われたくはありませんね」

「あー、やかまし、やかまし。何も聞こえへんっ」

 そうやって藤野さんと軽口を叩いているところに、再び電話が鳴った。

「はい、美術工芸二課……」

 受話器を取った藤野さんが、受話器を耳に当てたまま凍りついた。

「……君に電話」

 それは私が貸し出し交渉を任されている、中国のとある美術館からの電話だった。

 他に学術用語を含む中国語を話せる人間がいないという事で、私が異例とも思える抜擢を受けたのだ。光栄な事だが、私にとっては荷が重すぎると思う時もある。

 受話器を置いた頃には、緊張でへとへとになっていた。


 昼休み。

 昼食をだらだらと口に運んでいると、ウィリアムか嬉しそうにやってきた。

『秋殿、懐かしいものを見つけました』

「懐かしいもの?」

『私が日本へ持って参りました商品です』

「商品……?」

 そう言えば、最初は商人として日本へやって来たのだと、冬悟との話し合いの中で陽平が口にしていたな。

『あれほど昔の品が失われずに在るとは、たいへん嬉しい事で御座います』

「ここの展示室に?」

『はい、あの隅の織物がそうです』

 その品は江戸時代に伝わった異国の物であるという事以外、詳しい事がわかっていなかった代物だ。

 思わず「これはテューダー朝のイギリスのものである」と発表してしまいたい衝動に駆られたが、明確な証拠もない以上、公言する事はできない。

 しかも専門外の分野なので、その答えに近づくための研究の糸口さえ思いつかない。

 確かな事がわかっているというのに歯痒くて堪らない。

 幽霊と付き合いを持つのは大変だと今更ながら実感した。

『秋殿。もう暫し館内を見て回っても構いませぬか?』

 どうせ夕方の業務終了時刻が来るまで仕事は終われない。

 私は一も二もなく了承した。

 そして、閉館直後。

 ウィリアムはまだ戻ってきていなかった。

 私は、閉館後の見回りとウィリアムの所在確認を兼ねて館内を回ることにした。

 そして、ある展示室を通り過ぎようとした時、焦げ臭い匂いが鼻をついた。

(火災か!?)

 ぞっとして隣室へ駆け込む。

 すると、部屋の隅のパイプ椅子が火を噴いていた。

『…………っ!!』

 声にならない悲鳴が聞こえる。

 炎の向こうにウィリアムの顔が見えた。

『っぐ…………』

 炎に巻かれて苦しんでいる。

 そう思った瞬間、私は火災報知器を鳴らす事も忘れて、ウィリアムに駆け寄っていた。

 もしかすると、現実に起こっている火災ではないのかもしれない。

 その証拠に、設置されているはずのスプリンクラーが作動していない。

 しかし、何もしないよりはと消火器をぶちまけた。

 あっという間に、火勢が引く。

 火が消えた後も、椅子からはブスブスと黒い煙が上がっていた。

「平気か!?ウィリアムっ」

『………秋、どの』

 ふと、すぐ横のガラスケースに入った展示品が目に留まった。

 西洋の古い版画。

 其処に描かれているのは、罪人が業火に焼かれる煉獄の光景。

 ウィリアムの青い瞳が、恐怖を込めてそれを見つめていた。


 程なくして、先程の火は実際の火災だったということが判明した。

 ただし、原因は今のところ不明。小火で済んだのは幸いである。

 第一発見者である私とその展示室の担当者は、後始末に追われた。

 消防にも頼んでおいたが、出火の原因が解明される可能性は低いだろう。

 藤野さんは、なにか言いたげな目線を寄越していたが、私は敢えて無視した。

 ウィリアムは少し落ち着いたようだが、心なしか普段よりも青冷めて映った。

「……地獄とか、煉獄とか、そういうのてあると思います?」

 私が尋ねると、藤野さんは珍しく小難しい顔をして答えた。

「天国はどうか知らんけど、地獄とか極楽は存在する……て、お寺の息子としては、そう言うべきなんやろうけどな。俺は、死んだらそれまでやと思う。っていうか、そう思いたい」

「藤野さん、ホンマに幽霊苦手なんですね……」

「当然や!幽霊のせいで彼女にまで逃げられてんで!」

 それは、拳を固めてまで力説する事か?

 アンタが不甲斐ないだけの事じゃないのか……。

「なんか、言いたそうやな」

「止めときます」

 失恋で傷心の先輩に止め刺すほど非情な人間には出来ていないつもりだ。

 別れ際に、藤野さんは言った。

「怖いと思たら、負けやで」

 その一言で、さっきの火災の原因が何となくわかったような気がした。


 帰りに日浦さんのマンションを訪ねた。

 予定より遅くなってしまったが仕方がない。

 電話を入れて部屋番号を聞く。

 実際にマンションの中まで踏み入れるのは初めてだ。

 インターホンを押すと、見知らぬ声が応対に出た。

 しかし、表札は間違いなく「日浦」となっている。

「あの…、夏貴さんの同僚の高村と申しますが…」

“話は聞いているよ。少し待ってくれ”

 そう言った声は、聞き間違えようもない、男の声だった。

 玄関の戸が開き、私はさらに驚かされる事になる。

 私を出迎えたその男は、左手にギブスをはめた中東系のアジア人だったのだ……。

「夏貴が迷惑を掛けてすまないね」

 男は、暢に日本語を話した。

「とんでもありません。私こそ、普段からお世話になりっぱなしで…」

 私よ、よくぞ普通に対応した!

 人見知りにしては上々の応対だ。

 背中を冷や汗が伝っていったのは、ウィリアムが私にしがみついたからだけではない。

 私がどう二の句を繋げようか考えあぐねていると、廊下の奥から、日浦さんの顔が覗いた。

「ちょっと、サイード。私が応対するって……」

「夏貴は大人しく寝ていなさい」

 サイードと呼ばれた男は、日浦さんの発言を途中で、ざっくりと止めてみせた。

 あの、美術工芸課の鉄人宰相と謳われた日浦さんの発言を。

「でも……」

「歩くのもやっとの体で、この山のような書類を受け取れると思うのか?第一、せっかく来てくれた後輩に、君の風邪が移ったらどうするんだ」

 手厳しい反面、男の物言いはひどく優しい。

「熱が38度を超えている。無理をしてはいけない」

 ここまでのやり取りだけでも、日浦さんとこの男が深い関係にあるという事が見て取れる。

 そして、男の怪我……。

 もしかして、事故で意識不明になっていたという友人とは、この人ではないだろうか。

「……だからって、それだけの書類、片手で運べるわけ無いでしょ!」

「君が運ぶよりはマシだ!」

 ほんの僅かな出来事ではあったが、場の空気が帯電し始めたように感じた。

 ……なんとかは、犬も食わない…と。

「あの、日浦さん達さえ良ければ、私が中まで運びますが」

 私の申し出に二人は相談するように顔を見合わせた。

 そこからの沈黙が嫌になるほど長かった。

 そして、長いアイコンタクトの結果、日浦さんの意見が通ったらしい。

「……お願いしても良いかしら?」

「勿論です」

 私は机の上に書類を置いたらすぐさま帰るつもりだったが、日浦さんに引き留められた。熱の所為か人恋しいらしい。

「お茶も出さずに帰らせるなんて出来ないわ。わざわざ来てくれたのに。私は、顔出せないけど……」

 日浦さんは、マスクで口元を覆って言った。

「大丈夫ですよ。そんなに気を遣わなくても」

 日浦さんは退屈しきっていたらしく、私を相手に暫く取り止めのない話をした。

 その中でわかったのだが、さっき私の応対をしたのは、ジャン・サイードといい、日本の大学の講師で、もう八年ほど付き合っている日浦さんの恋人なのだそうだ。

 同居を始めて六年になるという。

「……結婚はしてないの。色々と面倒な問題があってね。日本の結婚届にしても、心許ないし。私も、仕事を捨てられないから」

 先程は気が動転していて気が付かなかったが、こうして二人並べてみると、どちらも引けを取らない美男美女の組み合わせである。

「サイードは、大学で美術を教えているの」

 日浦さんもジャンも彫刻を専門としているので、留学中に同じ大学で知り合ったのだそうだ。

 ジャンは彫刻家ということだった。私見だが、イスラム圏で彫刻家というのはめずらしいような気がした。

「元は、フランスでペルシャの古いレリーフを研究していたんだ。けれど、自分で作る方が面白くなってしまってね。その頃、夏貴ともパリで出会ったんだ。家族はあまり彫刻をすることにいい顔はしなかったけれど、日本のような東の果てにある国でなら、神様もお目こぼししてくれるだろう」

 ウィリアムがジャンから詳しい話を聞きたそうな素振りを見せていた。

 しかし、あまり長居もできない。

 私は適当な理由を付けて、その場を辞す事にした。

 日浦さんは、最後に「みんなには、内緒にしてくれる?」と、小さな声で念を押した。

 ジャンのことを隠しておきたい理由はわからないが、私は日浦さんが望むようにしたいと思う。

 玄関まで見送りに来てくれた日浦さんの顔色が、訪ねた当初よりは良くなっていたので、少し安心した。


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