私が自宅に帰ると、教方に囲碁で惜敗したという冬悟が、悔しさから、玄関でふて腐れていた。

「お前、邪魔」

 普通の幽霊と普通の人間の関係なら、今、此奴を踏み付けて進んでも、身体を通り抜けてしまうので何ら問題はないのだが、生憎と私は、特定の幽霊に限っては例外なく触れてしまう。強行突破するには、鉛弾で穴開けられたという、冬悟の腹を思くそ踏み付けて行かなければならないのだ。

 さすがにそれは可哀相だったので、私は仕方なく、冬悟の身体を丸太でも転がすみたいに転がして進んだ。短い廊下でなかったら、大変な重労働だ。

『大人しく待っていたのに扱いが不当だと思わぬか?教方殿』

 これ以上、転がされないように身を起こし、私の脚にしがみつきながら、冬悟が言った。

「なるほどな……。大の男が玄関先でふて腐れているのを指して、大人しくしていたと言うのか、お前は!」

 腕組みをしたまま、足下の冬悟を振り払った。もちろん、足で。

 図らずも、「貫一・お宮」の出来上がりである。

 この場合、私が「貫一」なのであるが……。

『金色夜叉のようだな…』

 教方がしみじみと言った。

「『何で、アンタが知ってんだ!?』」

 何処かの誰ぞと声が被ったが、教方の発言が余りに意外だったので、そんなことは気にもとまらなかった。

『しばらく前に読んだ。だが、あまり好きな話ではない』

 甲冑姿で、家にある「金色夜叉」の文庫本を真剣に読んでいる教方を想像して、私はあまりの可笑しさに笑い出しそうになった。

『まあ、あれは、教方さんの趣味じゃねえだろうな』

 ここに居るのがさも当然であるかのように、いつの間にか居座っていた陽平が言った。

『悪ぃな、勝手に邪魔してるぜ』

「いや、昼間はありがとう。ウィリアムさんはどうなった?」

『ウィルのやつなら、一緒に来てるよ。おい、そんな所隠れてねえで、こっちへ来いって』

 愛称で呼んでいるとはずいぶん打ち解けたものだ。さすが人たらし。

 陽平が声を掛けると、玄関のドアが少しだけ開いて、その隙間から、恐る恐るといった様子で、ウィリアムの顔がのぞいた。

 青い目に極端な怯えの色を見せて、私たちの方を窺っていた。

 すると、さっきまで私の足下で、誰も聞いていない愚痴を散々垂れ流していた冬悟が、急に不機嫌な表情を浮かべて立ち上がった。

『しばらく出掛ける』

 そう吐き捨てるように言ったかと思うと、冬悟の姿が掻き消えた。

『なんでぇ、あいつ。俺が何か気に障るような事でもしたってのか?』

 陽平が渋い面を作った。

 一体、どういうつもりだろう。

 話を無視されたのが気に入らなかったのか。

 それとも。

「……そうか!ウィリアムだ」

 大方、元々攘夷派か何かだったのだろう。

 外国人が来たのが、気に入らなかったに違いない。

『ああ、そうか。外国人コンプレックスってやつだな』

 陽平と私で勝手に納得しておいて、何気なく玄関の方へ目をやると、ウィリアムは、まだドアの陰に隠れていた。

 それこそ、皮を剥がれる前のウサギのような怯えようである。

 私は、息を吐きつつ声を掛けた。

「私の家だから、遠慮無く入ってきていいよ」

『はい…。でも、さっきのお侍の方は……?』

「出掛けた」

『然様でございまするか……』

 ウィリアムは、おずおずと一歩、部屋に踏み入った。

『ウィルはお侍は苦手かい?』

『……に、苦手です。昔、暗い部屋でお侍に取り囲まれて……、たくさん殴られました……』

 陽平の眼光は自然と険しくなり、教方は黙ってウィリアムを注視している。

 公園で見たあの『切支丹屋敷跡』の文字が、私の頭の中で点滅していた。

 ウィリアムは、また目に涙をにじませていた。

「わかった、泣くな。心配しなくとも、冬悟は宗教観の違いから人を殴りつけたりするようなことは無い」

『……申し訳ございませぬ』

 ウィリアムは、声を詰まらせながら、頭を下げた。

 確かに、冬悟が外国人が嫌いだとして、宗教観の違いがその大きな原因であるとは考えにくい。

 ただ、黒船来航や不平等条約の恨みから、斬って捨てられる可能性があるかもしれないなどとは口が裂けても言えなかった。

 取りあえず、我々の今のところの仮説では、冬悟は外国人が嫌いらしい。

 では、同じく武士である教方はどうなのだろうか?

 教方はさっきから一言も発していない。

 じっと様子を見ているだけだ。

 ウィリアムは、教方に恐怖は感じていないらしい。

 前髪を剃り落とした丁髷姿では無い事から、侍としては認識していないのかもしれない。

 教方は大人しくしているが、奴が何か妙なリアクションを起こす前に、牽制しておかなければならない。

 平安生まれの教方の事だ。下手をすれば、物の怪だとか言い出して、問答無用でウィリアムを一刀両断にするという可能性も捨てきれない。

「教方……?」

 小声で呼びかけたが、事がない。

 第一、教方の表情は常々変化に乏しい。今も目立った変化があるわけではない。

 しかし、その顔を覗き込んでみて、私にはわかった…。

 勿論、つい最近、奴の表情の些細な変化がわかるようになったのだが。

 教方は、現在、とにかく不思議で誰かに質問したくて仕方がない状態にあるらしい。

 初めて、食器洗い機を見た時も、同じような顔をしていた。

 私が、奴を見ている事に気が付くと、教方は小声で訊いた。

『あれは人か?』

「人だ」

 それから、暫しの沈黙。

 陽平は、先程の簡潔すぎる遣り取りに、一抹の不安を感じたらしい。硬まってしまった。

 ウィリアムは、沈黙の重さにおろおろし始めた。

 それを冷静に眺めながら、教方が呟いた。

『唐には、様々な色の髪や肌を持つ者がいると、話には聞いていたが。実際にあのような者がいるのだな』

 教方の教養は意外に広いらしい。

 そして、さらに余裕を披露した。

『俺はこれまで何人か、硝子けえす越しにならば、変わった髪や目の色の人間を見てきたが、こうして面と向かって会うことがあるとは思わなかった。それに、あれ程までに青い目はこれまで一度たりとも見た事がない』

 そうだ……。

 こいつ、取り憑いていた刀の「友成」と一緒に、暫くは博物館の展示室に居たんだった。

 博物館の来館者にも国際化が進んでいる昨今、外国人を見た事がないはずがない。

『露草の様な色をしているな』

「そうだな……」

 何だか全てどうでもよくなって、私は、教方とウィリアムに適当に自己紹介をさせた。

(気をまわして損した……。)

 ところが、この後の方が大変だったのだ。

 なんと教方は、ウィリアムという、これまで聞いた事もない音の配列を上手く口にする事ができない事が判明した。

 幽霊なので外見だけは若いが、横文字の駄目なおじいちゃんのようだ。

 おじいちゃんだとしても有り得ないくらいのお年だが。

 これは個人的な問題なのか、生まれた時代に起因するものなのか、さっぱり見当が付かない。

『ウィルだっだらどうだ?』

『………口に馴染まぬ…』

 ウィルでも駄目らしい。

 しかし、呼び名がないままというのも不便である。

「じゃあ、名字は?」

『名字…』

『ハーディー、と申します』

『………それならば、なんとかなりそうだ』

 「ウィリアム」と「ハーディー」の何処にその差がある!?

 そう叫びかけたが、気配で察した陽平に止められてしまった。

 余り大声を出すとウィリアムが泣いてしまうらしい。

 幼児か、お前は……。

 呆れ果てたせいだろうか、一日の疲れが急に襲ってきた。

『それで、秋ちゃん。ひとつ頼みなんだが』

「あいよ」

 ぐったりと壁に寄り掛かりながら話を聞いた。言い方も態度も、やる気がない事この上ない。

『ウィルのことは始めからそのつもりだっただろうが、俺も一緒に、しばらくここに置いて貰えねえだろうか?』

 頑張れ、私。もう少し頭を働かせて話を聞け。

 心の中で自分を励ましながら、私は陽平に話を促した。

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