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寒さは依然厳しいが、節分を過ぎれば、春が待ち遠しいような気分になる。
そんな春を目前にして、職場の主任学芸員・大沢英介氏の文京区の実家の建て替えが完了した。ご両親からの生前贈与とご夫婦二馬力での血と汗の結晶である二世帯住宅だ。
「なんでそんな思いきった事を?」と訊いた日浦夏貴こと、日浦ねえさんに、猫好きの主任は「猫が飼いたくてな」と、冗談めかして言った。
前々から主任は大物だと思っていたが、これ程だとは正直思っていなかった。
そこで藤野さん含めた私たち部下三人衆は、主任の新築祝いをするために、めずらしく休日に顔を合わせることとなった。
一旦、集合してから主任宅に寄せてもらおうと、主任の家の近くにある区立小日向公園で待ち合わせをしている。
五分前集合を心がけたつもりが、私ひとり、たまたま早く付きすぎてしまった。
高台にある小日向公園は、園内にも高低差があるせいか、目立った遊具はなく、砂場があるくらいで、子どもたちが駆け回ったり遊び回るには少し物足りないかもしれないが、よく手入れされた花壇や低木が穏やかな景観を作り出していた。
小さい子どもやお年よりにはうってつけの静かな公園だ。
私は手持ち無沙汰なまま、園内を散策する。
教方と冬悟は、囲碁で対戦している内に熱中してしまったらしく、今日は家に留まっている。だから、余計にすることがなかった。
梅の花が咲いていた。
暖かな日差しに照らされてほのかな花の香りが漂っている。
時間まで座って待とうかと、私はベンチに近づいた。
するとその影に、人の姿があった。蹲った背中が苦しそうに上下している。
気分でも悪いのだろうか。
「あの、大丈夫ですか」
恐る恐る振り向いたその人は、コーカソイド系の外国人の様だった。
私を見て、青年はその大きな紺碧の瞳から涙を零した。
「め、May I help you!?」
片言の英語で話しかけると、青年は哀しげに眉をよせた。
迷子になったか、犯罪にでもまきこまれたか。
さて何と言葉を続けようかと惑う一方で、(この人、美人だなぁ)などと現実逃避しかけている自分が居た。
それを引き戻すかのように、私の背後から声がかかった。
「高村くん、何やってんの?」
これぞ天の助け、御仏の慈悲。
「藤野さん!丁度いいところに!この人困っておられるみたいで」
「この人?」
藤野さんはベンチの影を覗き込むなり身を堅くした。
「高村くん……、ちょっとおいで」
彼の表情から察するに青年はこの世の者ではないのだろう。
藤野さんは、私が霊に対して無防備すぎると云って何かと心配してくれる。
「でも……」
と、私は口籠もった。
たとえ霊だとしても、この青年は何かしらに困っていて、こうして一人で泣いているのだ。
「ええからこれ見てみ」
強い口調で言われ、私は藤野さんが差し出したスマートホンを受け取った。
藤野さんのスマホの画面には、この公園からそう遠くないところにある都の史跡について説明が映し出されていた。
そこにはこう記されていた。『切支丹屋敷跡』と。
藤野さんの方を振り返ると、その後ろから、青年が青い目で私をじっと見つめていた。
よく見れば、彼の衣服は私たちと違っていた。今、この時代に生きている者の服装ではない。
切支丹屋敷は、1646年、宗門改役であった井上政重の下屋敷内に設けられたキリスト教徒を収容するための施設である。島原の乱が1637年であるから、それから十年以上経っているとはいえ、当時のキリスト教徒への弾圧が以下に凄まじいかがわかるだろう。この切支丹屋敷に収監された中でも有名なのは、1643年のイタリア人宣教師ジュゼッペ・キアラとペトロ・マルクエズ、そして1708年のジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティであろう。2014年の発掘調査ではシドッティと思われる男性を始め、三人の遺骨がその敷地跡から発掘されている。
青年はおそらく切支丹として捉えられ、獄死もしくは刑死したのだろうと思われた。
こんなにも遠い、異国の地で。
私は知らずに拳を握っていた。
青年は、次から次に水晶みたいな涙を目から溢れさせて、声もなく泣いていた。
私はポケットを探ると、おろしたての真新しいハンカチがそこにあることを確認した。
地面に膝をついて、蹲った青年と目線の高さを合わせると、ハンカチを差し出す。
藤野さんが溜息を吐いたのが聞こえた。
青白い指が、おずおずと伸ばされて、ハンカチの端をつかんだ。
ハンカチから離そうとした手を掴まれた時は、心底びびったが。
霊は、私の手の甲に額をつけて、私に縋るかのようにして、悲しみと寂しさを訴えていた。
「わかったって…。もう、泣くなよ…… 」
子供もあやしたことのない私だが、泣きやまない霊の背中をさすってやった。
感極まったのか、霊は一層すすり泣いた。
それから、五分。青年はまだ泣き止まない。
また十分。そろそろ日浦さんもやって来る。
そして、私は元々気が短い。いい加減しびれが切れた。
一向に泣きやまない青年に、私の堪忍袋は、音もなくぶった切れた。
「おい、お前っ。男だったらしゃんとしろ!」
あまりに理不尽な行いだったことは認めよう。
だが私が胸倉をつかみあげると、霊の涙は面白いくらいぴたりと止まった。
豆鉄砲でも喰らったような顔のまま青年は呟いた。
『……も、申し訳御座いませぬ…』
(日本語喋れるんかい……。)
脱力して手を離すと、青年はどさりと膝を突いた。
そして、申し訳なさそうな、子犬のような濡れた瞳で、犬嫌いの私を見上げてくる。
軽く殺意がちらついた。
『よぉ、秋ちゃんじゃねえか。どうした?こんなところで』
陽平だ。これを天佑というのだ。
通りかかった浮遊霊・片倉陽平を思わず拝みそうになった。
「陽平、外国語喋れたよな?」
『どうしたんだ?』
「悪いけど、この人頼んでもいいか?陽平、面倒見良さそうだし」
『教方さんは?』
「教方は西洋人とか見た事無いし」
『青山の旦那は……。無理だな……』
「見た目よりも肝が小さいからな」
二人で溜息を吐いた。
「これから、藤野さんたちと主任の新築祝いに行かないとならないんだ」
青年は心細そうに私と陽平を見上げた。
『わかったよ、確かに俺が適任だな』
昔気質の義侠心に火が点いたらしい。
『で、この人は日本語はからっきしか?』
「一応は喋れるみたいだよ」
『兄さん、名前は?』
『ハーディ……。William Hardy』
「ウィリアム?」
イギリス人か、と私は首を傾げた。
イギリスの商館撤退は何年だっただろうか。
『俺は片倉陽平』
『片倉……殿』
『陽平で構わねえよ。で、こっちが高村秋だ。秋ちゃんに頼まれて、しばらく俺が、ハーディーさんの面倒を見る事になった。何でも頼ってくれ』
『かたじけのうございます、陽平殿……。高村殿もご親切有り難く存じます』
ハーディーの表情がぱっと明るくなった。
それにしても古風な日本語だ…。
「私も、秋でいいよ……」
『はい。わかりました、秋殿。では、私の事もWilliam とお呼び下さい』
「そんなに発音良く呼ぶのは無理です。それから、あれが私の職場の先輩で、藤野太一」
『よろしくお願いします、藤野殿』
「あ、ああ、よろしゅう……」
相変わらず藤野さんは、幽霊の事になると視線が泳いでいる。
『こんな何にもねえ所で腐ってたって仕方があるめぇ。東京見物と洒落込もうぜ』
そう言って、陽平はウィリアムを立ち上がらせた。
「「わあ、大きい……」」
私と藤野さんの声がユニゾンした。
ウィリアムは、座っていた姿からは想像もできなかったほど、背が高い。藤野さんより少し小さいくらいだ。
「悪い、陽平。あとで私の家に一緒に来てくれると助かる」
『おう、任しときな。それじゃあ、行くか?』
『はい!』
二人の姿が見えなくなった直後だった。日浦さんが到着したのは。
「危なかったな……」
「……ほんとですね」
下手すれば、誰もいない方向に向かってぶつぶつ言ってる姿を見られるところだった。
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