7
その後、通り魔が自首したことに付随する報道は二週間ほどで
もうそろそろ警戒する必要もないだろうと、私は「助けてやったのだから俺の頼みも聞け」という冬悟の望みを叶えるために、上野へ出掛けることにした。
上野へ連れて行ってやると告げた時の冬悟の喜び様は尋常ではなかった。
どうしてそこまで、自分の死んだ土地に行きたがるのか、私にはさっぱりわからなかったが、冬悟は『確かめたいことがある』と言うだけだった。
朝早く、花束を携えて、上野公園の彰義隊の墓を訪れた。
駅を降りてからは、始終難しい顔をしていた冬悟だったが、墓を前にして、一層緊張した面持ちになった。
花を手向けてそっと手を合わせる。
『そうか、お前……』
冬悟が、私の頭の上で声を詰まらせた。
『ここでは、死ななかったんだな……』
「冬悟?」
気が抜けたのだろうか。
冬悟は、その場にへたへたと座り込んだ。
『よかった……。それだけで、俺の死は無駄ではない……』
冬悟は片手で目を覆い隠して、泣いているようにも見えた。
しばらくの間、私たちは其処に留まっていた。
不意に冬悟が立ち上がって言った。
『すまん、高村。手間を掛けた。そろそろ行くか』
「もういいのか?」
「世話を掛けたな」と言って冬悟は頷いた。
「それじゃ、帰るか」
そう言ってその場を離れた。
冬悟は、帰る途中、何もなさそうな道端で足を止めた。
私が訝しんで振り返ると、冬悟は、こっちへ来いと手招きをした。
『ここが、俺の死んだ所だ』
冬悟は鞘の先で地面をついた。
『上手くやれば、生き残れたとは思うが、従妹との約束がどうしても破れなくてな』
女に頭が上がらないのは俺のところの家系だ、と戯けて言った。
『八嶋新之丞は、俺の幼なじみで、従妹と祝言を上げたばかりだった。だから、従妹に、お前の婿殿を必ず連れて帰ってやると、そう約束した』
家族の事を思い出したのか、冬悟は死んでいる癖にひどく生き生きとした表情になった。
『新之丞とは餓鬼の頃から一緒にいて、悪さもしたし、一緒になって叱られもした。あの戦の時……、銃撃が激しくなった時も、俺はアイツの隣にいた。それで俺は、とっさにあいつを背に庇った』
その辺りを撃たれたのだろうか。
羽織の間から除く鎧の上から、腹部を押さえた。
『それでも心残りだったんだ。生まれ育ったこの江戸がどうなっていくのか。俺は、本当に約束を守ってやれたのか』
何と声を掛けてやればいいのか迷っていた。
『高村の御陰だ。再び、ここへ戻ってこられた』
「……そうか?」
『実を言うと、一人ではこの場所へ来る決心が付かなかったんだ。己が死んだ場所から離れられなくなりそうで』
「そんな淋しそうな笑い方するなよ。似合わねえよ」
『そうだな。それから、俺は見た目よりずっと肝が小さい。真実を目の当たりにするのも、恐ろしかった』
「よかったな。ここでは、死んでなかったんだろ?幼馴染み」
『ああ、なんとか生き延びたようだ』
「まあ、安心しとけよ。仮にアンタがここで地縛霊になっても、私が引っ剥がしていってやるって」
『その時は、よろしく頼む』
「任せとけ」
冬悟は泣き笑いに笑っていた。
これで、やっと一区切り付くと思ったのに、人生はそんなに甘くないようだった。
昨年末の悪霊退治に、先日の通り魔。
そして今度はこれだ。
上野からの帰り道、とある墓地の横を通った時だった。
聞いたことのない獣じみた叫び声が墓地の方から聞こえてきた。
『高村っ!行くぞ』
持ち前の愛郷心からか、冬悟は墓地の塀をすっと通り抜けて行ってしまった。
「おいっ、こら!待てや」
私は通り抜けられないんだぞ…。
仕方なく、私は壁のへこみに手足をかけ、なんとか塀を乗り越えて、墓地の敷地内に入った。
壁は1m80cmくらいあっただろうか。
その上から思い切って飛び降りた私の度胸はなかなかのものだと思うが。
こういう時だけ、衝撃が少ない分、小柄でよかったとしみじみ思う。
軽く着地して、埃を払っていると、冬悟が感心したような声を上げた。
『まるで次郎吉のようだな……』
「お前の所為でこうなったんだろうが!」
そんな遣り取りをしている間にも、獣の声は近づいてきているようだった。
そのうちに、逃げるような人影がひとつあることに気がついた。
『高村……!』
「誰か追われてる」
武器を探したが使えそうな物はほとんどない。
さすがに卒塔婆は振り回せない。
「すみません、お借りします!」
正月にお供えしたのだろう大きくて青々とした立派な
『高村、こっちだ!』
冬悟に促されて、地蔵堂の影に身を潜める。
一分も経たないうちに、それは姿を現した。
先行しているのは、転びそうになりながら逃げている青年。その後ろを、いくつものどす黒い手足を生やした犬に似たシルエットの何かが追いかけている。大きさが尋常ではない。人よりも大きい。化け物としか言い表しようのない姿だった。
そしてそれを視認した途端、食べ物が腐ったような、なんとも表現できない嫌な臭いが漂ってきた。
『死臭だ』
冬悟が嫌そうに口を歪めた。
『このまま身を潜めて後ろを取るぞ』
「わかった」
そうだ。
最初は冬悟の言うとおり、私も機を待つつもりだったのだ。
けれど、化け物の詰めが逃げていた青年の背中を引き裂いた。
青年が転倒し、化け物は、大きな黄ばんだ歯を剥き出しにして、喜びの雄叫びを上げる。
(喰う気だ……!)
そう思った瞬間、私は、墓参り用に積んであったバケツの山を蹴り倒した。
アルミ製のバケツの群れが宙を舞って。
派手な音が石畳に響く。
「この、惚け茄子っ」
足元に残ったひとつを引っ掴み、渾身の力で投げ飛ばす。
横っ面にバケツをくらい、化け物の関心が完全に私に移る。
ビリビリするような憎悪と殺意が真正面から私に叩きつけられる。
私は、無意識に樒を前に構えた。
(狙うなら目……。目を潰すしかない)
化け物が大きく口を開けた。足の裏が痺れるほどの叫び声が当たりに響く。
(来るか!)
身構えた次の瞬間、それは私の鼻先にいた。
「くっそ……!」
咄嗟に、化け物の口内に樒ごと腕を突っ込んだ。
樒の茎がつっかえになったのか、それとも「邪気を払う」力があるのか、化け物は威嚇するような呻きを発するだけで、ぴたりと動きを止めた。
鼻が曲がりそうな臭気の中で、樒の葉の清涼な香りが一筋強く流れた。
『屈めっ、高村っ!』
冬悟の声に、樒から手を離し身を屈める。
その刹那、鋭く空気を斬る音がして、冬悟の剣先が私の頭の上を掠めるように過ぎていった。
慌てて屈んだ勢いで受け身を取り損ね、私は石畳の上に突っ伏した。
せめてもと顔を上げた時、私は決着が付く瞬間を目にした。
化け物のすっぱりと打ち落とされた首が、私の眼前に落ちてくる。
『高村、俺は後ろを取るぞとは言ったが、機を作れとは言わなかったぞ』
私の上に覆い被さるように、残心のまま刀を構えた冬悟がいる。
(勝った)
冬悟が化け物の首を斬り落としたのだ。
「関西人は待たれへんのや!」
と、地に着く前にぼろぼろと崩れ落ちて消えていく生首を睨みながら、私は叫び返した。
それに、誰かが喰われている背後を取って、これが好機だなどと言えるはずがない。
『まあ、よくやった。俺はお前のそういう所が気に入っている』
冬悟の冷たい手が私の手を取って、無造作に引き起こす。
『怪我は?』
「ない!」
あるにはあるが、擦り傷や内出血程度、怪我に数えていられない。
それよりも、被害甚大なのは向こうの方だ。
「大丈夫ですか」
化け物に襲われ、今は墓石に寄りかかってぐったりとしている青年に、私は声をかけた。
『すまねえ、助かったぜ』
思ったよりもはっきりした声で、青年は答えた。
これはあれだ。生きた人間ではなく、この前のテレビ番組「年の瀬大掃除!怪奇!大除霊スペシャル」でやっていた霊を喰う悪霊のケースだ。
『アンタ、俺が見えるんだな』
「そうみたいだ」
これで青年が生者ではないことが確定した。
『御陰で助かったよ。それにしても面白えひとだな、アンタ』
青年は、上品な身成の優男で大昔の映画俳優かと見紛うばかりの美貌だったが、どこか渡世人のような独特な言葉の響きがあった。
『俺は片倉陽平。アンタ達は?』
「高村秋」
『青山冬悟だ』
片倉は、浮遊霊として通りがかった所をあの化け物に遭遇したのだという。
「ご愁傷サマ……」
『あはは……、高村さんも大変だったな』
「最近はこんなんばっかりで」
『それにしても、高村さんは俺らが怖くないのかい?』
「実家の母さんの方がよっぽど怖い」
片倉はきょとんとしていたが、冬悟は何を考えたのか、何処か遠くを見つめていた。
「会ったこと無いだろ、お前……」
『お前を見れば察しが付く』
「あぁ?」
足元落ちていた樒を拾い上げて握りしめると、片倉がそっと私のその拳を抑えて言った。
『まあまあ、そんな喧嘩腰はやめて。そうそう、助けて貰っておいてこんな言い方もなんだが、アンタ、どうして助けてくれたんだい?』
アンタの方がくわれるか取り憑かれるかするかもしれなかったじゃァないか、と片倉が言う。
「そうだな……」
なんとなく勢いで、と言えない事もない。
しかし。
「長くなると思うけど」
『時間は腐るほどあるんだ、構わねエよ』
「去年の末から急に幽霊が見えるようになって、其処に居る冬悟とか、家にいるもう一人の霊とかを居候させる事になったんだ」
教方たちと話をするようになって、生きてる人間と同じように幽霊もいろいろな幽霊が居いて、それぞれ違った考えを持っているという事に気が付いた。
妄念に駆られている奴もいれば、自我を失った奴も、冬悟のように生前の志のような物の為に留まっている奴もいる。
その一方で、生きている連中にだって、気味が悪いくらい道理のわからない奴や、周囲に敵意を振りまく悪霊のような奴はいる。
そんなことを片倉に話した。
彼は深く頷きながら聞いていたし、冬悟も、混ぜっ返さずに話を聞いていた。
「人間は考える葦である、っていうだろ?それなら、こうして考えたり笑ったり、悩んだりしているのに、死んでいるからすでに人間ではないと言えるのかな、って」
私には、この幽霊達が生きている人間となんら変わらないような気がするのだ。
「生きてる人間と変わらないなら、幽霊を助けたっていいと思わないか?」
『なるほど。幽霊としては大賛成だ』
片倉は
「でも、一番の理由は、あれだ……!こないだテレビで見た時にああいう手合いは絶対許さんって決めたんだ!」
『俺も見たぜ。年の瀬大掃除!怪奇!大除霊スペシャル!』
片倉は声をたてて笑い始めた。
『なんだと!?まさかあれがあの時の?そうか、そうだったか!』
冬悟も満足げだ。
片倉が体を宙に浮かせる。
『俺ァ、そろそろ、お暇させてもらうぜ。誰かに気づいてもらったのも、助けられたのも、久しぶりで懐かしかったよ』
言い残して片倉は消えた。
姿が消えた後、「また何処かでな」という声が聞こえたような気がしたが、空耳だったのだろうか。
「あれって、成仏したのか?」
『いや、姿を消して余所へ移っただけだ』
「浮遊霊ってやつか。さてと、そろそろ飯にしよう」
何時までもこんな所に留まっていると、寒さで凍ってしまいそうだ。
歩き出した私の隣を、横まで確認すると、冬悟がまるで生きているみたいに地に足をつけて歩いていた。
『高村、俺は洋食が食べてみたい』
「贅沢言うなら、飯代くらい入れやがれ」
『俺の食うのは微々たる量ではないか!』
「静かにしろ、このまま通りに出たら私が変人扱いされるだろうが!」
死ねば、身体は土に還る。
社会的な地位も、肉親も友人も、この世に繋ぎ止めてはくれない。
けれど、思考し続ける彼らの自我が、死してなお、彼らをこの世に繋ぎ止めている。
我思う故に我あり。
考え続ける「私」という意識だけは、今も間違いなく、この世界に存在している。
この「自我」の無い状態など、どうしても私には想像出来なかった。
自分も、いずれ彼らのように死ぬ。けれど、死後もこの「私」という意識は存在し続けるのではないかと、そんな考えが頭を過ぎる。
『なあ、あれを買うて帰らんか?』
──駅前の総菜屋の店先。
御菓子の家でも見つけた子供のようにはしゃぐ冬悟の姿を見て、ふとおかしさが込みあげた。
『あれを昼飯にしよう』
と、肉じゃがを指さしている。
「教方も腹へってるだろうしな。あれで手を打つか」
幽霊というのも、悪くないかもしれないな──。
彼らと暮らしていると、そんな気分に陥ることがある。
片手に肉じゃがとコロッケの匂いがする袋をぶら下げて、家路を辿る。
玄関をくぐれば、きっと恐ろしく険しい目つきのもう一人の幽霊が私たちを出迎えてくれるだろう。
「ただいま」と言う準備をして、私は玄関の鍵を開けた。
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