翌日。

 日浦さんは、混乱のあまり余計な一言を残して行ってくれたらしい。

 朝っぱらから、お寺の三男坊・藤野太一に、とっつかまった……。

「おはようさん。日浦さんから、高村くんに彼氏ができたて聞いたけど…」

 藤野さんは、明らかに確信した笑みを浮かべて、高らかにこう言った。

「まぁた、どこぞの幽霊につかまったんやろ?」

 折角、冬悟を家に残してきたというのに……。

「何でわかったんですか……」

「気配するもん」

 藤野さんは、私をしげしげと眺めた。

「何やまた、ごっつう怖いの連れてきたな…」

「ごっつうけったいな、の間違いやないですか?」

「今度は、どこの誰や?」

「彰義隊隊士」

「どうやったら、そんな壮絶なんばっかり集められるねん…」

「いやいや、ただの『えらそうな、ええとこ』の子ですよ」

「妙にとげとげしく聞こえるんは気のせいか?」

「気のせいのはずがありませんよ。わざと強調して言うたんですから」

 藤野さんは

「具合悪なったらいつでも言いや」

といって仕事に戻っていった。


 給料日前である。

 冬のボーナスは、単車の修理代に費やしてしまったので、持ち合わせは少ない。

 正月休み明けの仕事は、自分一人分ならそうでもなくても、日浦さんの分までカバーするとると、二年目の新米にとっては、結構な量になっていた。

 それらを皆、片付けて、私は終電に乗った。駅から自宅までは徒歩だ。

 最近は、教方が一緒にいることが多かったからだろう。

 一人で夜道を帰るのは、随分と久しぶりな気がした。

 しかし、妙な違和感がある。

 違和感の原因は、一人歩きだからというだけが理由ではなかった。

 なんとなく後ろが薄気味悪い。

 藤野さんに言わせるとよくない対応らしいが、こういう時は、振り返ってしまうに限る。

 振り返って何もないことを確かめれば、気分も落ち着くというものだ。

 勢い込んで振り返った私は、とんでもないものを見た。

 しかし、同時に、振り返ってよかったと思った。

 今まさに、刃渡り二十センチはあろうかという包丁を振りかざそうとしていた男と目が合ったのだ。

 男は一瞬驚いて退いたが、私が半歩身を引いて身構えたのがまずかったらしい。

 呂律の回らない口で、何やら喚き散らしながらつかみかかってきた。

 正直、幽霊なんかより、よっぽど恐ろしい。

 必死で振りほどいて、男を突き飛ばした。非常灯の明かりにちらりと照らされて、男が嫌な笑い方をしているのが目に入った。

 逃げるしかない。

 恐らく昨年末から凶行を重ねているという通り魔がコイツなのだろう。

 取り敢えず、派出所まで全力で走ろう。

 だが、そこまで逃げ切れるだろうかという不安が頭を過ぎる。

 そして、その不安は見事に的中した。


 走りはじめて五つ目の角だった。

 後ろから肩を捕まれてもう駄目だと思った。

 反射的に体を避けたが、肩口を包丁の切っ先が掠めていった。

 男と私の間の距離はすでに三十センチもない。

 酸欠で頭がくらくらする。次は避け切れないだろう。

 男の包丁を握った腕が持ち上がるのが見えて、私は死を覚悟した。

 しかし、振り下ろされるはずの鋭い衝撃は、やってこなかった。

『そこまでだ、外道!江戸を騒がすその所行、この青山冬悟が許さん。神妙に縄につけ』

 代わりに、怯えた表情の通り魔と、その喉元で日本刀がぎらりと光ったのが目に入った。

 通り魔は、狂気の残る表情のまま私を見ていた。

 人質にでもしようと思ったのか、通り魔の手が私に伸びようとした、その刹那。

 冬悟が刀を一閃させた。

 刃が、男の鼻先を掠め、電柱を擦って火花を散らした。

『これ以上、高村に危害を加えると言うのであれば、この場で切り捨てる』

 私の居る位置から冬悟の顔を見ることはできないが、彼が怒っていることは、声からだけでも、十分推察することができた。

 冬悟は刀を収めて、私に声を掛けた。

『高村、無事か?』

「……三途の川が見えるかと思ったよ」

『見えなくてよかったな。実は、俺もまだ見たことがないんだ』

「アンタでさえ見てない物が、私に見えて堪るか」

『ところで、この男はどこへ突き…、』

 「突き出せばよいのか?」という、その言葉の語尾は聞こえなかった。

 男が、再び包丁を振り上げたのだ。冬悟目掛けて。

 包丁は、冬悟の身体をただ通り抜けるだけだ。

「この、ばけものっ!!」

 男は恐怖から滅茶苦茶に包丁を振り回した。

『高村は下がっていろ』

 冬悟は再び刀を抜いた。

 ところがそこで、男の動きは、不自然なまでにぴたりと、止まってしまった。

『俺は、冬悟ほど寛容ではない』

 背後の闇に見慣れた姿が浮かび上がった。

 教方が通り魔の首に刀を突き付けていたのだ。その首にしっかりと狙いをつけて。

『その首、刎ね落としてやろう』

 静かにそう口にすると、ひっ、と男の喉が鳴った。

 少し間があって、男の膝が折れ、頭から道路へ倒れ込んだ。

『あれほど人を殺しておいて、根性のない奴だ』

 冬悟が拍子抜けしたように言った。

 男は気を失ってしまったらしい。

 恐る恐る、通り魔の脇腹を蹴っ転がしてみたが、うんともすんともいわない。

 このまま警察へ連れて行くか、それともこの場で警察に連絡するか、迷った。

 迷いつつ、頬を靴の爪先で突いてみたり、こめかみを軽く蹴ってみたりもしたのだが、何の反応もない。連行するのは無理そうだ。

『秋、今は止めておけ』

と教方が言い、

『ほら、早く帰るぞ』

 冬悟が私の手を引いた。

『アイツの目が覚めると困るからな』

「わかっ……ッ?!」

 吃驚するような激痛に、私はその場に蹲った。

 肩の、傷 だ。

『高村…?』

 そっと右の袖に触れてみた。

 今まで、緊張していて気が付かなかったが、血に濡れてシャツがぺったりと張り付いていた。避けたと思ったのに避けきれていなかったのだ。思ったより傷は深かった。

 緊張が解け、感覚が戻ってきたせいで、傷が痛み始めたようだった。

『大丈夫か?』

『刃こぼれした刀で無理矢理斬りつけられたのだ。深くはないが、普通の傷よりも痛むぞ』

「傷口がぐちゃぐちゃってこと?」

 傷口が無事塞がってくれるだろうか。

「仕事、続けていけるかな……」

 化膿したら、切断しなくてはいけないかもしれない。

『高村、そんな辛気くさい顔は似合わぬぞ。どんと構えていろ』

『冬悟。寧ろ秋は、こういう不機嫌な顔をしていることの方が多いぞ』

「五月蠅い」

 そう言って、俯いていた顔を上げ、二人を睨み付けると、奴らは冗談めかして喋るのを止めた。

「腕がもげそうなほど痛いんだよ!」

 精一杯の強がりでむくれてみせると、

 教方も冬悟も、真面目な、どちらかと言えばやさしい表情を浮かべた。

『秋がこのように泣きそうな顔をするのは珍しいな』

『心配するな。俺と教方殿でなんとかしてやる』

『大丈夫だ。秋が恐れているようなことにはならぬ』

 そこから先は覚えていない。

 気付いた時には、自宅のソファーでひっくり返っていた。


 右の袖がやたらばりばりする。

 見ると袖は血ですっかり固まっていた。

 これはもう捨てるしかない。

 靄のかかったような頭で、そんなことを考えていた。

 徐々に意識が覚醒する。

 そうか、昨日のアレは実際にあったことだ。

 体を起こして、恐る恐るシャツを捲ってみた。

 すっぱり裂けたシャツの向こうからは、案の定、昨日の傷口が、覗くはずだった。

「あ、れ…?」

 傷がない。

 現にシャツがこんなにも惨憺たる状況になっているというのに。

 肌にはうっすらと紅いみみず腫れが残っているだけだった。

「何で……」

『高村、起きたか?』

 冬悟の声がした。

「起きた!」

『それほどでかい声が出るなら大丈夫だな』

「いや、それより冬悟!この傷、どうなった!?」

『傷?ああ、それは昨日、教方殿が』

「教方が?」

『消した』

「はぁっ!?消したぁあっ?」

 軽く目眩がしたのは、きっと貧血の所為だけではない。

「恐るべし、教方……」

 伊達にやしろに祀られていたわけではなさそうだ。

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