5
日浦さんの言った通り、藤野さんは怖い顔をして、沈んだ様子で座っていた。
何をするわけでもなく、虚空を眺めていた。
「気味悪いですよ、藤野さん」
「そうか……?」
落ち込んでいる人間に対して放つには辛辣な私の言葉も、全然意に介さないようだった。
「相談に乗りましょうか?」
「ん……?ああ……、高村くんか……」
「今更ですね」
「悪い、ぼうっとしてた……」
「せやから、どうしたんですか、って」
返事がない。
これは、腐っている。押したら汁が出る勢いで腐っている。
「………きみにやったら話してもええか」
居心地の悪すぎる沈黙の後、藤野さんはやっと愁眉を開いた。
「高村くんの顔見てたら、何とか出来そうな気ぃするわ」
「私の顔で、ですか?」
それは貶されているのか、なんなのか。
学生時代は、ポーカーフェイスで通っていたのに、この頃表情が豊かになったらしい。
「怪訝な顔しいなや。褒めてんねやから」
どこか元気のない微笑を浮かべながら、藤野さんが私の腕を取った。
「主任、すんません。ちょっと三階の収蔵庫見てきますさかい、あと頼みますわ!」
藤野さんが資料室に呼びかけると、資料室からも返事が叫び返されてきた。
「おう。高村も一緒かぁっ?」
今日の被害をを算出するために、主任はずっと過去の資料とにらめっこしているらしい。
「借りていきます!」
「主任、ちょっと借りられてきます!」
「高村~っ!藤野のお守り、頼んだぞ!」
「承りました~っ!」
つまらんことを怒鳴り合っている大人というのも馬鹿馬鹿しいが、馬鹿な分だけ居心地の良い職場が形成されているとも言える。
うちの博物館は展示用の本棟と研究用と収蔵庫を兼ねた別棟に分かれている。
建物自体は明治の終わりに、初館長が私財を投じた和洋折衷建築となっており、その後、幾度もの
の修築を重ねて今に至っている。
そのため、最新の設備と昔からある蔵造りが同居してるなんともアンバランス建物となっている。
この別棟の3階に、主に日本画や墨書の掛け軸等を収蔵している藤野さんの庭の様な収蔵庫がある。収蔵庫は、土蔵をほぼそのまま建物内に移築していて、この建物でも建築当時の姿を留めている部屋の一つだ。窓もほとんどなく、書画の保管には適している。
手が入っているのは照明と空調と蔵を取り囲んでいる外壁だけで、外壁は特に湿度と室温管理のために補強されている。
不気味なくらい静かな藤野さんは、用心深く辺りをうかがいながら、収蔵庫の鍵を開けた。
開けた扉の裏側にも、収蔵品の棚の端にも、天井の隅にも、見慣れないお札や装飾品があるのに気付く。
「ここはな、俺専用の待避壕みたいなもん。幽霊なんかかなんから、絶対入ってこれへんようにしてあるんや」
装飾に見えるのも魔除けの一種だという。
今日は、教方が留守番しているからいいようなものの。一緒だったら、奴だけ廊下で立たされ坊主になるところだ。
「わざわざここまで連れて来たんは、今朝の事件の事で話したい事があるからやねん」
「そんなん、事務所でもええやないですか」
「しゃあないやろ。あいつらずっとうろうろと機会をうかがってるんや!」
藤野さんが重い収蔵庫の扉を力任せに閉めたその瞬間、扉が跳ねるほどの勢いで、誰かが扉を叩いた。
青い顔をして、藤野さんは内側から鍵をかけた。
「うっわ……、まじで間一髪……!」
どん、と外側から誰かが扉を叩く。
「このフロア、私たちしかいなかったですよね?」
「居ました!高村君には見えなかったかもしれないけど、お化けがいました!」
「やった!お化けや!」
「何が!?何が「やった!」なん!?ちがうの!ピンチ!ピンチやの!」
私たちのくだらない会話を遮るように、一際大きく扉が鳴った。
「ちょっと追い払うまで静かにしとって」
藤野さんは真剣な表情を作って、真言を唱え始めた。
活字では何度も呼んだことがあるが、実際声に出して詠むとこんな風になるのだなと、私は緊張感の欠片も保たずに、それを眺めていた。
そのうちに扉を叩く音が弱くなり、やがて止んだ。
「やっと帰った……」
藤野さんは、ずるずるとその場に座り込んだ。
「……幽霊やったんですか?」
「…そう……」
「展示室の硝子も……?」
「さっきの連中や……」
連中ということは一人ではないのだな。
「取りあえず、ちょっと休憩させて」
腰が抜けたのかもしれない藤野さんを放っておいて、収蔵庫の中を眺めた。
壁や天井、収納棚の棚板の裏、分厚い扉に致るまで様々な魔除けや破邪の札が配置されている。
めったやたらと置かれているわけではなく、ある程度の規則性を保っているようだった。
藤野さんはそうして張り巡らした結界のおそらく中央辺りに膝で這っていって、やっとわずかな落ち着きを取り戻した。
どうやらあそこが絶対安全な位置らしい。
「まあ、すでに言うたけど、今朝の事件の犯人と、さっき俺らに付いてきたお化けは同じです………」
「さっきみたいに、藤野さんが追い払えば万事解決でしょう」
「できるんやったらとっくにしてます!あいつら、俺がここの博物館就職する前からおるんや。でも、あんなに質悪いとは……」
「教方以外にも、うちの博物館に居たんですか?」
「幽霊自体は滅茶苦茶ようさんおる」
そう言われても、教方以外の霊が見えない私にとっては納得し難い話だ。
たくさんいる中で、悪霊は教方とさっきの数人だけらしい。
友人の言っていた「展示室の嫌な感じ」は、こいつらが醸し出していたのだろうか。
そうか……。
でも、映画みたいにポルターガイスト現象とか遭遇したこと、これまでになかったけどなあ。
「今までは教方が居って、あいつら押さえ込まれてたんや」
「教方が?」
「あいつらもどういったわけか『友成』に取り憑いてる、というか封印されてたからな」
「っぐ……、可哀相な『友成』……」
「いや、博物館の心配しよう。それと自分の身の心配もしよう」
自分の心配……?
「まだ推測の域を出えへんねんけど、さっきのは俺に付いてきたんやのうて、高村くんを狙ってきたんやろうな」
「……身に覚えがありませんね」
二日も休んでたし。
「たぶん……、君が教方と一緒におるからや」
「お前の所為か!教方!」
「急に休んだのも、風邪とかと違うな?熱出てるて言うてたのに、診断書も取ってないみたいやし」
こういう時だけ、鋭いんだな。この人。
私は、あの晩公園で起こったことを洗いざらい話す羽目になった。
「教方も、自分の所為だと言ってました」
「それで今日は一緒におらへんのか……」
恐らく教方は、傍にいない方が安全だと判断したのだろう。
………それだと、私の部屋はどうなる!?
あの夜、公園に轟々と吹き荒れていた風を私は思い出した。
携帯電話を取り出し、家の番号を押した。
「何処へかけんの?」
「家です」
「誰もおらへんやん」
「教方が居ますよ」
「平安の人やで!?」
「使い方は教えてあるんで問題ありません」
幽霊に電話番させる人間なんざ、世界中探しても私ぐらいなものだ。
八回ほどコールして、やっと受話器が上げられた。
電話口はしんと静まりかえっていたが。
「もしもし…?……教方、聞こえてる?」
『聞こえている……。秋か?』
「そう」
土蔵の中なので電波は弱いが辛うじて繋がっている。実家の祖母とFAXで遣り取りするために固定電話を契約していて本当によかった。
「今、研究棟3階の収蔵庫に居るんだけど、すぐにこっち来てもらえないかな?」
『しかし……』
「勝手に住み憑いた挙げ句家賃も払わない癖につべこべ言うな」
私の家財の安全が懸かっている。
『………承知した』
嫌々返事したのが、瞬時にわかるような声だった。
かといって、教方は家賃云々に引け目を感じているわけではない。
余りしつこく口にしていると、そのうち「家賃とは何のことだ?」と聞かれるのが目に見えている。
電話が切れてから藤野さんが言った。
「っていうか、ここの場所わかんの?」
「あ‥‥」
その前に、この収蔵庫は魔除けで封印されているから、教方入れないし。
「もう一回かけたら?」
「たぶんもういませんって」
ごちゃごちゃ言っている内に、また誰かが玄関の戸を叩いた。
力任せ叩くわけでもなく。
ただ時折、金属がぶつかるような音をたてた。
『秋、居ないのか?』
「来ましたね……」
「来たみたいやけど……。本当に教方かな」
さっきの悪霊が化けている、という可能性もあるか。
「じゃあ、確かめて見ればいいんですよ」
私は、おたおたしているだけの藤野さんを置いて、つかつかと収蔵庫の扉へ歩み寄った。
そして、扉越しに言い放つ。
「ごそごそするな。静かにしろ、悪霊」
『……悪霊ではない』
霊は明らかにむくれた様子で言い返した。
「間違いなく教方です」
「そ、そう……」
「教方、他に誰かいる?」
『おらぬ!』
藤野さんに目配せしてから、私は扉を開けた。
案の定、廊下には、不機嫌な顔の教方。
これで私の家が荒らされ放題という惨禍は免れた。
『俺は悪霊ではないからな』
「あたりまえだろ。悪霊となんか同居出来るわけがないだろうが」
そう言うと、教方の表情が少し緩んだように見えた。
私に続いて、入り口近くまでやってきた藤野さんが、
「話は早う済ましや。ここの戸が開いたンわかったら、戻ってくるで」
とせっつく。
「戻ってくる?それじゃあ、教方と鉢合わせするじゃあないですか!」
「そんなん言うても、教方はこの部屋に匿うこともできへんし……」
多少生気を取り戻したとはいえ、やはり今日の藤野さんは本調子ではない。どこか頭の回転が鈍い。
そんな私と藤野さんを尻目に、教方がぽつりと言った。
『来るぞ』
今度は私にもはっきりわかった。
ざくざくと、鎧を纏った人間が階段を上ってくる、異様な音がした。
ステンドグラスが照らす吹き抜けの明るい大階段に、得体の知れない暗く重苦しい空気立ち籠めている。
いくら霊感に乏しい私でも、こればっかりははっきりとわかった。
このまま此処にいれば命はない。
私と藤野さんは部屋の中へ逃げればいい。
だが、相手はすでに死んでいるとはいえ、教方一人を残して逃げるのは、どうしても納得がいかなかった。
『………秋?』
腕組みをして階段に向き直った私を、教方は怪訝そうな声で呼び止めた。
「敵前逃亡は士道不覚悟、っていうだろ」
『士道…?』
教方は「わからぬ」と言いたげに眉を顰めた。しまった、時代が違った。
「悪霊も質悪いけど、高村くんも質悪いわ……」
『逃げぬというのか?』
「当然」
「この無鉄砲……!」
この短い遣り取りの合間にも事態は悪化していた。
『秋、泣き言は聞かぬからな』
教方は、踊場から吹き抜けの階下を一瞥すると、私を抱きかかえ空中に身を躍らせた。
無論、空中へ出たからには重力にしたがって下へと落ちる。
3階から1階のロビーまで急降下だ。
内蔵が腹の中から消滅したかのような嫌な感覚と、恐ろしい速さで過ぎ去っていく景色に、私は身を硬くした。
し、死ぬ…。
そう思った刹那、教方の鎧が重い音をたて、彼は地に足をつけた。
が、私の身体は、教方に抱かえ上げられたままである。
教方は、そのまま着地の勢いを殺さずに、何処かへと走り出した。
これって、私、空中浮遊しているように見えるのではないか!?
真昼の博物館を疾走する、空中浮遊の女…。
「いや、これはまずい!やばい!降ろせ、教方っ!!」
『口を閉じろ、舌を噛むぞ』
「藤野さん置いてきてどうするんだよ!」
『案ずるな。無事でいる』
見上げると、教方が不敵に笑ったところだった。
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