午後十一時、帰宅。

 小学生の社会見学について、日浦さんとの反省会が長引いてしまったので、いつもより帰りが遅い。

 そして今日は、客人が一人。

「俺、ホンマに寄ってってええの?」

「藤野さんがあのあと最終的に「師匠て呼べ、任せとけ!」て言うたんでしょ!死人とはいえ、風呂も着替えも便所も見放題なんてことになったら、私の人権は一体どうなるって言うんですかっ!」

 藤野さんが、俺の言いたいのはそんなことちゃうねん……とかなんとか言ってたような気がするが、この際、聞かなかったことにしよう。

「ほら、頑張れ、師匠」

 鍵を開けるなり、藤野さんを玄関に押し込んだ。

「……結構、綺麗にしてるねんな」

「散らかすほど物がないだけです」

 玄関先では、何も起こらなかった。

 リビングに入る時、癖で「ただいま~」とか言ったのがいけなかったのか。

『今日は遅かったのだな』

 ばっちり奴がでてきた。

「本当にうちにいましたね……、師匠……。って、師匠……?」

 藤野さんは、すっかり固まっていた。

 役立たず……。

『……見た顔だ』

「見た顔って……、同僚の……むがっ!」

 後ろから口を塞がれた。

 日頃のコブラツイスト並みにしっかりきまっている。外れない。

 私は、ふがふが言いながら文句を言った。

「阿呆……!化けもんにみだりに名前なんか教えてどうする気や」

 藤野さんは、私に聞こえるか聞こえないかというくらいの小声で言った。

 もちろん幽霊には聞こえなかったらしい。

 私が「わかった」と合図を送ると、藤野さんはやっと手を離した。

『……そこの御仁の名を訊く前に、其方の名を訊ねるのを忘れていた。教えては貰えまいか?』

 思惑があるのかどうかわからないが、霊が淡々と訊ねる。

「私の名前……」

 確か、この霊の名は藤原教方とかいったよな……。

 私だけが一方的に名前を知っているのも、不公平か。

「私は高村。高村秋」

 世のひと曰く思い立ったが吉日。

「言うたそばから、何で名前……」

 何でって……。

「相手が名乗ったからには、こっちも名乗るのが常識でしょうが!」

 しかも、昨日名乗るの忘れてたし。

 わざわざ訊かれたのに答えないのは失礼すぎるだろう。

「普段賢いのにアホな子!」

と、藤野さんは悲鳴を上げた。

「で、この霊が今朝から話題の藤原教方さんです」

 私と霊は、二人してじっと藤野さんを見つめた。

「同僚の藤野です……」

と、藤野さんは渋々と言った様子で言った。

 そうとも。人間、あきらめが肝心だ。

「藤野さん。普通に考えてみれば、こんな所に鎧武者がいるって、かなり面白いですね」

「生きてはったらな……」

 死んでたら、面白くないのか……。

 でも、生きてたら面白い、と。いや、そっちの方が危ないだろ。

 我が家で立ち話をするのも妙なので、私はソファに腰を下ろした。

「藤野さんも、藤原さんも座らはったら?」

「どうしてまたそんな普通にできんの……、きみ……」

「意外と能天気だからですよ」

 幽霊は物がわかってないのか、ソファの横のローテーブルの上に腰掛けた。

 食卓でそんな所行に及べばすぐさま追い出してやるぞ、と思いながらも、この場は黙っておいてやる事にした。

「あの、藤野さんって幽霊触ったこと有ります?」

「触られたことは有っても、触ったことはないなあ」

「昨日、うっかり触ってしまったんですけど。この人、まだ生きてはったりしません?」

「ごめん、俺、幽霊触る人って、これまで見たことも聞いたこともないねんけど……」

 私は「失礼」と声をかけて、霊の腕をつかんだ。

「ほら」

「………嘘や……、ありえへん………」

 私と幽霊は、手をつないでカーテンコールにでも応えているような格好になった。

 どう考えても人体に触っている感覚がある。

「でも、死んではるねんやろ?」

『そうだ』

「ほんま、信じられへん……」

「体温ないんですよ。藤野さんも触ってみたら?」

「ええんかな……」

『試してみるか?』

 これで、藤野さんも触れるようで有れば、偽幽霊決定である。

 差し出された幽霊の手に、おっかなびっくり伸ばされた藤野さんの指先は、するすると奴の体を通り抜けた。

「あかんみたいや……」

 そういえば、よく目をこらすと、幽霊の向こう側に、部屋の景色が透けている。

「ホンモノなんや……」

 改めて感動が湧き上がってきた。

「その前に、自分、体どうなってるん?」

 私の手をそんなにしげしげ見つめても、何もわからないと思うのだが。

「幽体離脱しているような形跡はないよな」 

「してませんて!」

「不思議や……」

 師匠にさえ不思議がられる、弟子の私はどうすればいいんだ。

「高村くんとの遣り取りをみてると、悪ひョ……!?」

「禁句です、それ」

 奴が拗ねるので。

 口の端を左右から思いっきり引き延ばしたので、藤野さんは非常に間抜けな面を晒している。面白いからそのままにしておいた。

 すると藤野さんは、その顔のまま物を言った。

「はあったふぁらへぇはらひへ」

「腹減ったから何かくれ?」

『わかったから手を離せ、と申しているのではないか?』

「なるほど」

 わざと左右に引っ張りながら手を離した。

 頬を両手で押さえている藤野さんの顔に「藤原さん……、めっちゃええ人やなァ……」みたいな表情がありありと浮かんだ。

「けど、まあ俺が心配するまでも無かったみたいやな」

 ぽんと私の頭に手を置いて、

「ほな。俺、帰るわ」

 そう言って爽やかに帰っていこうとした藤野を、私はぐっと引き留めた。

「私の人権はどうなるんです……?」

 その時、私が放っていたオーラはそこいらの悪霊よりも怖かったと、藤野は後日になって白状した。

 その後、藤野さんは軽口を叩きつつも、風呂とトイレ、箪笥のおいてある寝室に、霊が入ってこないよう封印を施していってくれた。封印をする前に、上手く霊を言い含めておいてくれて、さすがはお寺の息子だと関心しながら、私はそれを眺めていた。

 藤野さんが魔除けを施している間、霊は大人しくリビングで待っていた。

 明日、藤野さんに何かお礼をしておこう。


 さて、私はこのやたら物わかりの良い霊に、確認しておかねばならないことがある。「あの、藤原さん…」

『教方でいい。そのうじは、自ら捨てたようなもの』

「では、教方さん」

『先程から気になっているのだが、さんとは、如何なる意味か?』

「敬称です」

『聞き慣れぬ故、気味が悪い。それならいっそ呼び捨てて構わぬぞ』

「身分とか気にしないんですか?」

『四民平等とやらになったのではなかったか』

 案外、考え方の柔軟な霊なんだな。

「それじゃ、遠慮無く」

 多少おかしいが、現代語も喋ってるし。

「私の事も呼び捨てでどうぞ」

 そうする、といって教方はふわふわと宙に浮いた。

 話が逸れたが、いよいよ本題に入らなければなるまい。

「それで、もしかして……、博物館に戻る気がなかったりとか……しません?」

『しばらく世話になるつもりだ』

 出来ることなら幻聴だと思いたい。

 第一、幽霊の言う「しばらく」って何時までだ!まさか、私が死ぬまでじゃあないだろうな……。

 この日以来、私と教方との微妙な、いや奇妙な同居が始まった。

 せめて家賃くらい入れてくれないものだろうか。切実にそう思う。

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