夜は燃え、昼は消えつつ。
きょうじゅ
御垣守衛士の焚く火の夜は燃え
あのお姉さんは不思議な人だった。いつもだらしのない、だぶだぶにたるんだ黒いTシャツにデニム地のホットパンツ一枚の姿で、黒縁の眼鏡をかけ、天然のパーマがかかったろくに櫛も通さないぼさぼさの黒髪のまま、もちろん化粧などまったくしていないそばかすの浮いたすっぴんの顔で、住んでいるボロアパートの二階のベランダから毎朝、学校に向かう僕に声をかけてきた。
「おはよう、少年。今日もこれから学校かい」
「そうですよ。おはようございます。だから制服です」
「そろそろ梅雨どきになるけれど。ガールフレンドはできたかい」
「できる気配もないですよ。……好きな人なら、いるんですけどね」
「ほうほう。クラスメイトかね」
「違います」
「じゃあ隣のクラスとか」
「それも違います。年上です」
「じゃあ上級生か。少年、美術部だったよな。そこの先輩とか、そんな感じかね」
僕の好きな人、すなわち、そのお姉さんは、そんなことを言ってきた。これ以上小刻みに情報を詰められると、真実に辿り着かれてしまいそうだから、僕は話を誤魔化す。
「部活の先輩じゃあないですけど。まあ、先輩ではありますね」
人生の。
「そうか。じゃ、ま、頑張ってこいよ。そして青春してこい。青春は一度きりだからな。そして人生もな」
そう言って、お姉さんは咥えた煙草を片手で口から離し、ずっと手に持っていたストロングゼロとかいう酒、500ミリリットルの缶のやつ、それをくいと煽った。このお姉さんは毎朝だいたいベランダにいるし、毎朝朝から酒を飲んでいるのである。
何をしている人なのかは、知らない。聞いても教えてくれない。年齢は、失礼になるのが分かっているから直接は聞いたことがないが、たまに『自分が数年前に修士号を取った大学院』の話をすることがあるから、どう控えめに見積もっても二十代後半には達している計算になる。名前も知らない。これも聞いても教えてくれない。名乗ったことはあるから、向こうは僕の名を知っているが。
さて、授業の話などしても仕方がないが、美術部で、僕は毎日絵を描いている。水彩で、女性の絵である。ホットパンツにだぶだぶのTシャツを着た、少女というような年ではない女の絵。部の仲間や顧問の先生には、ライトノベルに出てくるキャラクターをイメージして書いている、というホラ話をしている。別に疑う人間はいない。
お姉さんが毎朝僕に声をかけるのが、何らかの好意的感情の表れであってくれないものか、と願わなかった日はない。だが正直なところ望みは薄かった。だって、ただ犬の散歩をしているだけのおじさんとかにも普通に、僕にするのと同じように会話を持ちかけているのを見かけるし。
「お姉さん、お姉さん……」
これは本人に話しかけているわけではない。何をしているかというと、人には言えない恥ずかしいことを自分の部屋でしているところである。
「うっ……!」
ねばついた手を流しで洗い、僕はため息をつく。僕は毎夜、こんな風にして抑えることのできない自分の恋心を焼却している。
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