観天望気

 正平はじっとりと染み出した汗をズボンの裾で拭ってから、手を差し出した。その先には小柄で円縁のメガネをかけた老学者が立っている。正平の記憶では78才だったはずだが、その目にはこれから社会へ漕ぎ出そうとする若人のような純真さと熱意が込められている。彼こそは、地球温暖化による局所気象への影響研究で勇名を馳せている藤田咲蔵氏だ。彼は乾いた掌で正平の手を包み込み、若年の才気を鼓舞した。

「お会いできて光栄です。斎藤正平と申します」

緊張でこわばった喉を震わせて正平は言葉をひねり出した。

「どうも、はじめまして、藤田と申します。君の研究は、立派だ。しっかりやりなさい」

老学者はゆったりと言葉を区切りながら応えた。その言葉に一挙に勇気づけられた正平は早口に自分の研究内容について語りだした。

「都市の異常気象、ゲリラ豪雨などですが、の予測には大規模なコンピュータシミュレーションが必須だと思います。しかしながら、現在の予測プログラムには一つ決定的にかけている要素があります。それは、気象観測地点です。シミュレーションの精度をmメッシュレベルにまで詳細にするためには、それこそ数mおきに観測装置が必要となります。しかしながら、そのレベルで観測機器を設置することは、行政はおろか民間でも困難でしょう。そこで、自分としてはSNSの力を活用したいのです」

「SNS?最近の若い人は、日常的に使ってますね?」

「はい。SNSには多くの人が今の気象状況を投稿しています。例えば、いきなりの雨に降られたとか、虹が見えたとかです。また、写真を投稿する人も多い。それらの言語データ、画像データをAIの解析にかけ、気象情報のセンシングに用いようということです」

「それについては、先程の発表でもお話していたね。しかし今ひとつわからないんだが、その情報の正確性については問題ないのだろうか?」

「そこは数の力が物を言うはずです。現在、日本では5000万人が毎日何かしらを投稿しています。そのうち5%ほどが天気に関するものだとされています。つまり、一日250万件のデータソースになるのです。また、ネット上ではフェイクニュースが日常的に飛び交っていますが、天気について嘘を広める人はほぼいないでしょう。それにAIの言語処理能力の正確性には本当に驚かされますよ」

それを聞いた老学者は神妙そうな雰囲気で唐突な問いを投げた。

「斉藤君はカンテンボウキという言葉を聞いたことはあるかな?」

「カンテンボウキ?ですか」

「そう。観天望気だ。すなわち天を観て気を望むということでね、天気という言葉はこれを略したものなんだよ」

「へえ、そうだったんですか」

「うん。つまりね、天気というのは望むものだった訳で、天に住む神様、まあ日本人には自然といったほうがいいかな、にお伺いを立てるものなんだなぁ」

藤田氏はひとりごちるように正平へ語った。

「先生は天候の完全な予測は神頼みだと仰っしゃりたいんですか?」

「うん、まあ、最近の技術発展は著しいし、学者の端くれとしては絶対に不可能だとは言わないけれどね」

それを聞いた正平は老学者の深淵めいた哲学を感じ、それは尊重しながらも、少しの不満を禁じ得なかった。正平にはこの世の全てを詳らかに予測しうる未来、「計算可能な未来」という理想を信じたいような稚気があった。

「神様に少しでも近づけるよう努力を惜しまないことにします」

「うん、まあ、しっかりおやりなさい」

こうして正平と藤田氏の短い会話は終わった。


研究室に戻ったとき、やっと正平は学会発表の緊張感から開放された気がした。そして例の都市シミュレーションの画面を呼び出した。しばらく、いつものようにAIの会話を眺めていたとき、藤田氏の「観天望気」を思い出した。そしてとある実験をしてみることにした。

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