第29話 見えざる猟犬

 探偵リチャード・プリチャードは、大聖堂から命からがら逃げおおせた。

 現在、魔法の総本山たるあそこは、魔物の襲撃を受けている最中であった。

 そのまま居続けたなら、命が1000個あっても足りない。

 そして、こう言う時にこそ動くと思われていたフライ准将は静観の構えを見せている。

「繋がりそうだな」

 リチャードは、その理由をほぼ掴んでいた。

 准将の不参加は、メルクリウスから依頼されていた事とも関係がある。

 “メルの坊っちゃん”からは、もう少しふんだくれそうだと思った。

 それだけではなく、別の意味でも金脈を堀当てた手応えがある。

 しかし、メルの坊っちゃんには、かなり容赦なく吹っ掛けているつもりなのだが、何処からあれだけの金が出てくるのやら。

 まあ、大方“人望”があるのだろう、と結論付けた。




 十重二十重とえはたえの防衛ラインも虚しく、大聖堂はAランク魔物“見えざる猟犬”の侵入を許してしまった。

 この豪奢な建物には、人類のブレーンだとかボスが集まっているのだと本能で察したのだろうか。

 “姿の見えない” “獣”。

 シンプルな話だが、この二つが組合わされば、どれ程恐ろしい事か。魔物駆除の仕事をしていれば嫌でも思い知らされる。

 獣は決して、下等生物などでは無い。

 極限まで鍛えられた前衛であっても、その反射神経のには雲泥の差がある。

 人間が奴らの姿を目視した瞬間、そいつは既にまるで違う位置に移動している。獣とは、そう言うものだ。

 それが、あまつさえ不可視と来た。

 下手な戦略級魔法を備えた奴よりも、シンプルにタチが悪かった。

「アルシさん、どこへ!?」

 ミシェールの泣きが入った絶叫を背中に、俺は駆け出した。

 この状況、食堂で俺が出来る事はもう何もない。

 無駄だとは思うが、一応、魔法不能症の頃に買った仕掛け斧を持って目的のフロアへ駆ける。

 果たして、テオドールと遭遇。彼は通信用の“ストーン”を俺に投げ渡すと、そのまま並走する。

 テオドール隊、今日限りの限定復活だ。

《目標、第二庭園に出現予定! この隊が最初に接触します!》

 エリシャが、手慣れた様子で俺達に予言した。


 第二庭園に躍り出ると、早速そいつが虚空から現れた。

 確か、ワイラマナーと言う犬種がベースだと聞いた。

 毛並みは暗いグレー。がっしりとした筋肉質の長躯だった。垂れた大きな耳、長くしなやかな四肢。

 見上げる体高だった。

 

 エリシャが送って来る未来像で、何百の俺達が死んだだろう。

 また、酷な事をさせている。つい、そう思うが。

 魔法映像の中の彼女は、凛とした面差しで未来を見通している。

 俺達が毎秒を生き延びる未来を、雑念無く模索している。

 前言撤回。

 もう、俺が心配する事では無かった。

 

 猟犬が陰を残した消えた。透明化ではない。

 俺の眼前がダークグレーの脚に遮られる。

 テオドールが俺を抱えて跳んだ。次瞬、前肢が庭園の花を散らして地面を抉り取った。

 前肢を振り抜き、筋肉の伸び切った所へテオドールが踏み込み、袈裟斬り。猟犬は突然二本脚になったように直立すると、無理矢理跳躍。

 俺が“雷杭らいこう”を撃とうと構える直前、今度は本当に姿を消した。

 完全に透明になった訳では無く、水中に油を流し込んだように歪みが見えるのだが、それでもやはり視認性が悪すぎた。獣の瞬発力と相まって、俺の視力では捉えきれない。

 テオドールですら、辛うじて何となく追えてるくらいだ。

 水神さまよりマシ……と唱えても、今度ばかりは気休めにもならない。

 とうとう、テオドールが奴の口に咥えられ、高らかに持ち上げられた。

 テオドールには悪いが、この隙を狙う。

焔槍えんそう

 テオドールを叩き付けるべく屹立していた猟犬に着弾。

 しかし、炎はやや燻った程度ですぐに鎮火した。

 畜生、やはりか。

 獣は炎を恐れる。

 それ故に炎に弱いと誤解されがちだが、真に危険な獣とは、その恐怖心をもって炎を克服したーー炎のレジストを無意識レベルで行える個体であった。

 すぐに消されるのでは、燃焼時間も不十分だ。損害は与えられない。

 だが、怖いは怖いのか、幾らか怯んだようだ。テオドールを口から離すと、中二階と言うかテラスになっている所まで跳躍。再び透明になった。

 地面に落とされたテオドールは、無事に受け身を取った……が、その一瞬の隙すらも致命的だった。グレーの陰が背後に現れ、彼の背中を深々と抉り抜いた。体の芯までグズグズだろう。

 俺は直ちにテオドールを回復。それで気が逸れた俺が、奴の頬に轢かれて冗談のように吹き飛んだ。全身の骨が砕け、内臓が破裂する。

 今度はテオドールが回復魔法を寄越して来ると、全てが完治した。

 手が足りなさすぎる。

 報告によると、二隊編成の12人パーティですら壊滅したと言う。

 他の隊はまだか!?

 

 テオドールの回復魔法は最初の一発で尽きた。

 俺の手持ちもあと1つ。

 致命的な事態がついに訪れた。

 猟犬は、俺の胴体を半ば横一文字に抉り抜いたその前肢で、テオドールの首をはねた。

 このままでは、俺は死ぬ。テオドールはもっとヤバい。回復魔法は、あと1つ。

 俺は、即時判断した。

 頼むテオドール、もう少しだけ持ちこたえて、聖堂に奴を入れないでくれ。

 やはり、勝算が高いのはテオドールの方だ。

 仮に俺の方がテオドールより打つ手が多ければ、あいつを見殺しにしていたし、逆の立場でもそうして欲しかった。

 最後の回復魔法、そして、俺の人生最後になるであろう“想い”を、テオドールに送、

 ろうとして、

 慣れ親しんだ……しかし、他の回復魔法とは何か感じの違う……懐かしい光が俺の身体を包み込んだ。

 いや、違う。

 その光は、この庭園を埋め尽くさんばかりの光量で広がっていた。

 致命的に抉れた俺の胴体の、断面が蠢いて互いに癒着。物質復元の治癒エネルギーが、破れた服さえも元通りにした。

 しまった、今の出来事に驚くあまり、テオドールへの魔法が一瞬遅れた!

 まだ間に合うか!? と、あいつを見ると、ちゃんと頭部が元通りにくっついていた。

 一度噴き出した、夥しい血の跡だけが、彼にあった筈の出来事を物語っている。

 これ程までに広範囲の回復魔法を、俺は初めて見た。

 勿論、こんな事をするのは俺やテオドールではあり得ない。

 誰か、来たのか?

 そうして、庭園から聖堂に通じる通路の一つを見ると。

 昼下がりの陽光を吸ったような、色素の薄い、長い髪がまず目に入った。

 それは、白を基調とした騎士の法衣とよく似合っていた。すらりとした肢体を守るそれが、滑らかに揺らめいている。

 少女の時分の丸みを幾らか残した、形のよい輪郭。

 穏和さと知性を感じさせる眼鏡と、その奥の瞳。

 陽射しを浴びた事の無いような白磁の肌に、薄ら桜色をした口唇こうしん

 その女騎士は、この場にそぐわぬ、ゆったりとした足取りで庭園に入ってきた。

 “沈黙の賢者”。

 騎士団の連中からそんな風に呼ばれていた。

 テオドールでさえ5年かかった騎士への昇進に、1年足らずで到達した超人。

 先の出鱈目な回復魔法は、この人がやったのか。

 しかし、詠唱はしたか? 俺が聞き逃しただけか。

 そうこうしている間にも、テラスの方で透明な陰が縦横無尽に跳ね回っている。

 いつ、また、俺達や彼女の喉笛を引き裂いてもおかしくないが。

 沈黙の賢者がそちらを一瞥しただけで。

 世界が、蒼白くだったり金色だったり、激しく明滅した。

 その光源は、彼女の後光のように煌めく……無数の高圧電流だった。

 馬鹿な。この規模は戦略級の、

「言ったでしょう? 忘れないって」

 女が初めて口を開いた。

 初めて? いや、

「この声……アンタはーー」

 

 通称・沈黙の賢者ハイジ。

 今更、食堂で誰かが口にしていた、短縮形の名前を思い出した。

 

 ハイデマリー・クレメント。

 俺と共に教国への路銀を稼ぎ、そして、回復魔法をくれた“彼女”だった。

「あなたと一緒に戦った数日間。わたしの人生で唯一心から笑えた時間。

 それが、今のわたしの魔法です」

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