【3.1.0】 社会科準備室にいたもの。
その日の四時間目に行われた社会科の授業は、地理だった。黒縁の眼鏡をかけて、伸びた前髪もそのままの教師によって進められた「世界の食糧問題」についての授業は、一度も脱線すること無く終わった。
「菅原先生。」
そう声を掛ければ、黒縁の眼鏡の向こうに映る瞳は、少しばかり疲れているように見えた。珍しいものでも見つけたかのように、その瞳が倫太郎を捉える。授業が脱線ばかりだからあまり人気が無いのか、明らかに「自分に声をかけるなんて、奇特な生徒だ。」と言わんばかりの表情をしている、気がする。
思い込まないと決めたつもりでも、思わずそう勝手に判断してしまう自分に、倫太郎はガッカリした。
「木嶋君、だっけ?」
いつも空いているはずの席に座っていたからだろうか、どうやら名前を憶えられたらしい。倫太郎は少し驚いたが、決して嫌な気持ちでは無かった。
「はい。あの、先生に用事があるのですが。放課後、時間ありませんか?」
倫太郎がそう言うと、先生は一瞬驚いた様子を見せたが、うんうんと頷いて「じゃあ、放課後に職員室か、いなかったら社会科準備室に来てくれる?」と言った。そして、菅原は軽く手を振ると、しんと冷える廊下を頭の後ろに隠していた寝癖を揺らしながら、職員室へと足早に去って行った。
約束を取った後で、ギンたちに何の確認も取らないでしてしまったことに、これで良かったのかという疑問が湧いた。でも、あの後またどこかへ行ってしまったギンとクロが、彼に用事があることは間違いなかったし、どうにかなるだろうと開き直る。
そして、ここ数日でずいぶん図太くなったものだと、倫太郎はそんな自分に呆れた。
お昼の時間は、どこか適当な場所で食べれば良いと思っていたのだが、神田が気を利かしてくれたのか、なんとなく一緒に食べた。
彼は、コンビニで買って来たパンだけだったので、窓に寄りかかるようにして座り、それを齧りながらゲームについて話しかけてくる。彼なりに、何か思うところでもあるのだろうか。気を遣わせてしまっているようで、なんとなく申し訳無い気持ちもあったが、その状況に倫太郎は素直に甘えることにした。
久しぶりの弁当は、白ご飯にただ焼いた肉が載っているだけというものだったが、それでも久々の早起きと登校に、ずいぶんと腹が減っていたらしい倫太郎には、非常にありがたい献立だった。冷たいご飯も久しぶりで、妙にしんみりとした気持ちになるが、
「社会科のノート、提出してくださーい!」
帰りのホームルームがそろそろ始まるかという頃、神田が社会科のノートを集め始めた。教卓の所で上げた神田の一声に、クラスメイトがそれぞれノートを持ってどやどやと集まっている。積まれていくノートを見ながら、倫太郎は自分の社会科のノートはどこにやったっけ?なんて悠長に考えていたのだが。開いて見れば、数ページだけしか書かれていないノートを見て途方に暮れた。
「授業の終わりに言っていただろ?ノート提出って。ああ、でも木嶋はきっと大丈夫だよ。俺が菅原に言っておくし。」
どうやら社会科の係である神田が、クラス全員分のノートを集めて菅原の所に持って行くらしい。帰りの用意も済ませた上に大量のノートを抱えた神田に、「自分も菅原の所に用がある。」と倫太郎が言えば、「じゃあ、一緒に行こうぜ。」と、彼は当たり前のように、集めたノートの半分をどさりと倫太郎に渡した。
コンコンコン。
「失礼しまぁす。」
社会科準備室のドアは、ガラガラガラと古そうな音と共にひどく雑な感じで開けられた。
カーテンが閉め切られていて薄暗いその部屋には、全て資料だろうか。ずらりと並んだ棚に所狭しと本やファイルが並んでいる。部屋の端の方、段ボール箱に刺さって立てかけられている巨大な巻物のようなものは、地図か、もしくは年表だろうか。電子黒板にそのまま映せるようになった今では、そういった巻物のようなものを見ることは無くなった。それが広げられたのを倫太郎が見たのは、小学校の時に一度きりだ。
「ああ、神田君か。ありがとう。そこに置いておいて。」
入って左側の空いたスペースで、立ったまま資料を見ていたらしい菅原が顔を上げて言った。ずいぶんと慣れたその言い方に、係にはこうした仕事がよくあるということを知る。
菅原の肩に当てた手が、その肩をぐいぐいと揉んでいる。首を回せばごりごりとでも音がしそうだ。
そんな菅原のまわりを、小さな、本当に小さな何かがフワフワと漂っている。
埃と言われてしまえば、そうとも見えてしまうそれは、必死に菅原のまわりを泳いでいるかのように見えた。
「先生、木嶋も用があるって。」
神田が気を利かしてそう言ってくれた時、倫太郎は思わず手を伸ばしていた。今にも、消えてしまいそうな小さなそれが、異世界に一人ぼっちで寂し気に微笑んだシロと被った。
「おいで。」
そっと、差し出した倫太郎の手に、視線が集まる。
意味がわからないというように呆然とする菅原と、またホラーかと言わんばかりに腰が引けている神田の姿が見えたが、気にせず手を伸ばし続ければ、それはふわふわとそれこそ漂う綿埃のように、ゆっくりと倫太郎のところにやって来た。
手元を見て思わず微笑めば、「な、な、何?」と神田が焦ったように倫太郎の袖を引っ張った。
「何に見える?」とギンの真似をして聞いてはみたが、これだけ小さければもう何にも見えないかもしれないと倫太郎は寂しく思う。
生まれて、食って、消滅するだけの存在。消えていった同胞は意思無きものだったと言っていた。きっと、これは、それだ。
「何か、いるの?」
恐る恐るといった様子で、神田が倫太郎の手元を遠目に覗く。小さなそれは、倫太郎の手の上を泳ぐかのように、ふわふわと舞う。
「信じる?」
「怖いもの?」
「怖くは、無い。」
———と思う。たぶん。———と、倫太郎は心の中で言葉を足した。
「先生、前に言ってましたよね。」
そう言って菅原を見れば、彼はまだ固まったまま呆然と倫太郎を見ている。ひどく疲れているようだった瞳が、黒縁眼鏡の向こうで大きく見開いている。
今、先生には自分が恐ろしいものに見えているのかもしれない。———倫太郎が、初めてギンに出会った時の様に、得体の知れない何かを、目の前にした恐怖と違和感。
「まだ説明しきれていなものが山ほどあるが、それらは全て見えない生物がいると仮定すれば解決する。」
菅原が前に授業中に言った言葉を、そのままだったかどうかまでは記憶に無いが、倫太郎が口にすれば、彼はその瞬きを忘れたかのように見開かれた目のまま、倫太郎の手元に視線を落とした。
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