第1章

【1.0.0】 人間の営みの、その不可解なること。

「へ~」とか「ふ~ん」とか言いながら、ギンが家の中を物色している。



 普段、階下にいることが少ない倫太郎は、そのまま自室に引きこもってしまいたかったのだが、知らない生き物を家の中に入れてしまった手前、それもできずにいた。母親は、まだ仕事から帰ってきていない。買って来たゲーム機は階段に置かれたまま、既にその存在を忘れられている。



「こいつ、お前の?」



 そう言ってギンが指差したのは、倫太郎の母親が大事にしているらしい不思議な観葉植物だった。日当たりの良い窓際に並べられたそれらに、水を遣っている姿を昨日も見た。葉のようなものの無いそれらは、妙にぷっくりとしていて、棘の無いサボテンのようなものなのだろうか。



「いや、母さんの。」



 倫太郎がそう答えると、ギンはそれほど興味も無さそうに「ふーん。」と言った。そのぞんざいな返事に、気持ちが少しざらついた。



(なんなんだ。なんでこんな子供に振り回されてんだ。)



 倫太郎が睨んだところで全く気に介していないギンが、次は台所とでも言わんばかりに足を向ける。そして彼は、おもむろに冷蔵庫をガバっと開けた。


 人の家の冷蔵庫を開けてはいけないと、教わっていないのか。いや、そもそも人の子なのか。――――混乱する倫太郎をよそに、ギンは冷蔵庫の中を背伸びをしてしばらく覗いた後、牛乳パックを持ち上げてみたり、マヨネーズのチューブを押してみたり、好き放題触るだけ触ってからそのドアを閉めた。


 今度はシンクに近づいて行く。水切り籠に並べられた食器は、母親が仕事に行く前に洗っていったものだろう。そういえば、まだ朝食を食べていなかったな。―――なんてことに気が付いて、倫太郎は先ほどギンが物色していた冷蔵庫を開けた。普通であれば、間もなく夕飯という時間だが、起きてすぐにショッピングモールに行った倫太郎にとっては、まだ昼みたいなものだ。


 これといって、簡単に食べられそうなものは無い。牛乳を取り出し、食器棚からコップを引っ張り出す。

 ギンは、水道の蛇口に手が届かないようで、背伸びをしていた。銀色の髪が、跳ねる度に揺れる。その姿は、いかにも子供らしくて愛らしかった。



(目の前にいるのは、子供じゃないか。もしかしたら、自分は何か思い違いをしているのかもしれない。)



 背伸びしている後ろ姿を見ていたら、倫太郎はやや落ち着きを取り戻してきた。彼が空から降りて来たのは、何かの見間違いだったのかもしれない。きっと、何らかの原因でそう見えただけだ。―――そんな風に納得しかけた時、倫太郎が牛乳をコップに注ごうとしたところで、ギンがゆっくりとジャンプした。


 そう、ゆっくりと。


 それはスローモーションというには具体的で、頭の中で処理しきれない違和感だらけの瞬間だった。倫太郎は瞠目どうもくし、そのまま停止する。ボタボタボタと牛乳がこぼれ、テーブルの上に飛び散った。



「ああーあ。何やってんだよ。」



 ギンが倫太郎の方を振り返り、呆れたように笑う。そこでやっと牛乳が、全くコップに注がれていなかったことを知り、倫太郎は慌てて飛び退いた。どうやら足元までは零さずに済んだらしい。よりによって牛乳だ。これはさすがに拭かねばならない。

 テーブルの濡れていない場所に牛乳パックを置いて、布巾を取ろうとシンクの方を見た倫太郎は、再び固まった。先ほどジャンプしたはずのギンの顔が、思っていたよりも高い位置に見えた。


 浮いていたのだ。


 目が合ったギンが、不思議そうに倫太郎を見て「ああ、拭くのか。」と言って布巾を手に取り、それをホイと放り投げた。銀色の瞳から、目が離せなかった。



「あ、ああ、ありがとう。」



 なんとかそれを受け取って、もう一度ギンを見る。彼は再びその蛇口に手をかけて、水を出したり止めたりし始めた。



「へえ、うまいこと考えるな。」



 玩具を見つけた子供のような顔。いや、見た目も子供なのだが。


 布巾を持ったまましばらくそれを見ていた倫太郎だったが、テーブルの上の惨状がふと目に入り、慌ててそこに布巾を置いた。牛乳が染み込んでいく。拭くというよりは、それを無くすという作業だ。


 一度、ぐっしょりと濡れてしまったそれをすすぐため、ギンのいるシンクにおそるおそる近づく。するとギンは浮いたまま、今度はガスコンロの方に移動した。倫太郎が水を出し布巾を濯ぎ始めると、ギンは不思議そうな顔でグリルの引き出しを引っ張り出したり、五徳を持ち上げたりしている。

 絞った布巾をもう一度テーブルに置く。いくつかの白い水たまりが薄くなり、そして広がっていく。まだあと2回ぐらいかかるだろうか。倫太郎が溜息をついた時、ギンはいよいよ点火つまみを押した。


 カカカッと音がして、火が着く。ギンは嬉しそうに「へぇ。」と口角を上げた。そして倫太郎の方を見ると、「人間って、面白いな。」と言った。



 って面白いな。



 やはり、ギンは人間では無いということだ。倫太郎はその言葉に妙に納得しながら、再び牛乳をしたたらせている布巾を濯ごうとシンクに近づいた。すると、それに気が付いたギンが「まだやっているのか。」と呆れたように言った。



「その牛乳は、捨てても良いのか?」



 一瞬言われた意味がわからなかったが、ギンが指差していたのはテーブルだった。



「ああ、零したやつはもう飲まないだろ、普通。」



 倫太郎はそう答えながら、ギンにはもしかしたら「普通」なんてないのかも?なんて考えていたら、ギンが指で何かを摘まむような仕草をした。


 それは、一瞬だった。


 テーブルの上に零れていた牛乳が粒々となって浮き上がり、そのまま霧散した。

 一体、何が起きたのか。手元に残ったのは、今まさに濯ごうとしていた布巾。そこからは牛乳が滴っている。



「…魔法?」

「人間は、これを魔法と言うのか。ははっ!本当に何も知らないんだな。」



 ギンは馬鹿にしたように笑いながら、ガスコンロの火を消した。そして、「お前の部屋に行くぞ。早く飲め。」と言って、台所から出て行った。気が付けば、ギンの足は地面についていた。






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