S駅から三時間ほども電車に揺られて、ようやく目的のT駅に到着した。T市は風光明媚な観光地としてその名を知られている。が自分のうちを出た時には灰色の雲が綿菓子のように分厚く張っていたものだが、どうやらこの地は、今日はすこぶる快晴らしい。こちらの駅前もまたロータリー式であるが、先のK駅のような騒ぎとは無縁である。電車が吐き出した乗客は無論余だけではないが、しからば多いかと言われればそんな事もない。車両ごとに見れば、せいぜい数人ずつ程度であったろう。四両編成だから、降りた客を全て合わせても、恐らく二十人にも満たなかったはずである。にもかかわらず、その僅か二十人足らずの人々の一人一人において全く別様の人生があろう事は、豪も疑いない。

 余はここで、その全ての人々の人生をここに写し取るような無粋な真似は敢えてせぬ。その代わり、人生は別様ではあるけれどもその究極においては多様ではない、と申し上げる。全ての人間がお互いを理解し合えるとはつゆほども思わぬ。根っからの善人もいれば札付きの悪人もいよう。だが、お互いの心に宿る何物かを想像する事は、自力で成されるにせよ縁に触れて他力で成されるにせよ、大抵の場合は出来るものである。そして、想像力によってあたかも新芽のように確保されたそれを肯定するか否定するかという選択の段において、初めて人間同士の理解や無理解というものがムクムクと頭をもたげてくる。もしもかような余の思考が正しければ、やはり人の心の繋がり方は決して多様とは言えまい。しかし、正にそれが多様でないからこそ、我々は様々な人々と繋がる事が出来るのである。

 

 宿に着くと、早速女将が出迎えてくれた。女将とは言っても、歳は大変に若く見える。恐らく、まだ三十にも満たぬであろう。和式に髪を結っており、当然の如く和服にてそのなりしとやかに統一している。化粧によって頬の紅はやや濃いように思えるが、耳からあごの線はシュッとして、それが顔の全体を引き締めている。眉は綺麗に揃えられており、大きな黒い瞳と合わさって、一種の力強さめいたものが静かに感じられる。

 余の手には大して荷物もなかったが、一応形式的にバッグを預けて部屋へと案内してもらう。部屋に辿り着く間、

「さぞかしお疲れでしたろう」

 等と女将が言うので、いや、動くのは電車であって余ではないから何の事はないという主旨の返事をしておいた。女将はオホホと笑い、

「おやまあ、ご冗談の上手い方ですこと」

 と言った。

 部屋に着いてまず目に飛び込んできたのは、壁に沿ってピタリと設置されたアップライトピアノである。宿には和室のみと聞いていたので、このような西洋の楽器がこの場にあるのを知って余は大変に驚いた。しかも、ボディーはよくある黒や茶系の色ではなくて濃い青であったから、ますます意外の念に打たれたのである。

「ほう、ピアノですか」

「ええ、二年前に亡くなった主人が買ったものですわ。無理を言ってイタリアから取り寄せたものらしいのですけど、詳しい事は存じ上げませんの。でも、こんな和室にピアノなんて少々意外でしたろう」

「そうですねえ。僕はピアノは弾けないが、女将さんは弾けますか」

「いえ、ただの飾りですわ」

 と言って、再びオホホと笑った。亡き主人の所有であった物であるとすれば、思いのよすがの一つや二つもありそうなものだが、果たしてこの笑いを無邪気と捉えてよいものかどうか、あいにく男女の情に無精の余には分からぬ。分からぬけれども、女将の笑いに血が通っている事は確かであろうと思う。現代の客商売にありがちな氷のような響きは、そこにはいささかも感じられぬ。───余は、この宿が大変気に入った。

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