夢の葉

もざどみれーる

 激しく行き交う自動車の群れを見ていると、ああ、あの中に飛び込んでしまえばいいのだ、そうすればきっと全てが終わるのだ、等と考えもする。そうかと思えば、痛いのは御免だ、せめて苦しまずに終わりたい、しかしそれは恐らく無理だからちと・・困る、等と、すぐに八分はちぶの弱気と二分にぶの諦めとがやって来る。後者の二分は不思議なもので、二分のくせに八分の弱気を強くする。ならば実は諦めの方が八分なのではないかという読者もあろうが、それは違うやも知れぬとは申し上げる。突き詰めていくと、諦めは心の奥底おうていにて感情を制御するものであって、決して表層的な感情そのものではないという気がするのである。


 余が歩いてK駅に着いてみると、何やら入り口の辺りが騒がしい。人垣とは言わぬまでも、それなりの野次馬とおぼしき人たちの姿も見える。加えて、白黒の警察車両が二台、駅のロータリーの一隅に並んで停まっている。

 何か事件でもあったのだろうか。余は半ば反射的にその場を後にして、一つ先のS駅まで歩いていく事に決めた。多少の時間の損失はあるにせよ、野次馬の一味になって下世話な傍観者となる方が遥かに好かぬ。足元の小石を排水口目掛けてコツンと蹴ると、すぐにカランカランと音を出しながら、穴の中にポツンと消えていった。

 ところで、歩くという事は、なるほど身体的健康には良いのかも知れぬが、だからと言って直ちに精神的健康にも有効だとは言えぬ。目的地を目指してひたすら一直線に歩いていく事が出来る人を、余は寡聞にして知らぬ。結局、人はほとんど常に何かしら考え事をする星のもとに生をけた生き物であって、その運命は歩くという行為で容易く覆せるものではないからである。つまり、人が歩く時、その人は歩く事と考える事をわば同時並行的に行なっているわけで、だからこそひたすら一直線に・・・・・・・・歩く人なんて、そもそもいないと言って差し支えないのである。

 例えば、歩いている最中に厭な奴の顔が唐突に頭にポッカリ浮かんできたとする。余は人が出来ておらぬから、かような事が起きてみればたちまち心が桜吹雪の如く散り散りに乱される。歩きながら何か自分を喜ばせるような事を考えている時でさえ、なまじっか時間に余裕のあるために、いつの間にか不機嫌を催すものに変質してしまわぬとも限らぬ。───かような事を考えるにつけ、少なくとも余の知る限り、歩く事は必ずしも精神的健康の概念とは相容れないと言わねばならぬ。

 ……等と考えているうちに、いつの間にやらS駅の前に着いたらしい。───人生とは、命の重さとは裏腹に、こんな風に軽く運ばれるものやも知れぬ。

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