42,一発逆転の女
アッシュを完全に無視するアイリス伯、その視線の先にはマゼンタの掲げられた手が、そしてそこにはクリスタルがにぎられていた。
「こっちよ、こっちに来なさいバケモノ!」
「う、う、か、返せぇ! グレイスうぉお!」
マゼンタの方へ向かうアイリス伯、マゼンタは背を向けて全力で逃走する。
「や、やめぃ、あ……あぶないでっ」
「へへ~ん、
確かに、そこそこマゼンタの足は速かった。しかし──
「……こっちまで来てみなよっ。……え?」
はるか後方にいたと思っていたアイリス伯が、マゼンタの目の前にいた。
「……あれ?」
アイリス伯はマゼンタを捕まえようと両手を広げ、そして抱きしめるように閉じた。
マゼンタは横っ飛びで地面を転がりそれを避ける。
「ぎ、ぎざまっ」
「ちきしょうっ、デカブツのくせに何てスピードっ?」
マゼンタはアイリス伯の捕捉を逃れようと、ちょこまかと動き続ける。横っ飛びで避け、前転でアイリス伯をくぐり抜け、側転ですり抜けていた。
しかし、魔術師でもない人間の限界があった。マゼンタはアイリス伯の強烈なビンタを肩にくらい、ぐるぐると回転して飛んでいった。
「きゃあっ!」
瓦礫の上に倒れたマゼンタにアイリス伯が迫る。
「ぐ、ぎ、小娘……手間を……かけさせてくるぇたな」
マゼンタはよろよろと起き上がる。
「……あ、あんたさ、人間までやめて、何がしたいのさ? 今のあんた見て、奥さんがどう思うと思うの? あんたの中では、いったい誰が幸せになってんの?」
アイリス伯はマゼンタの髪をつかんで持ち上げた。
「す、すべてうぉ取るぃ戻すんだぁ! 妻を、グレイスを、かつて夢見た栄光うぉ! そうしなけるぇば、私の人生は……人生はぁっ!」
「へ、へへ……いつまで過去に
「ふん! 誰だそるぇはぁ!?」
マゼンタは人差し指をぴんと立てて笑った。
バーガンディ・ローゼス
「……。」
アイリス伯は異変に気づいた。マゼンタの手にも胸元にも、クリスタルはなかった。
マゼンタは決めポーズを取っているのではなかった。何かを指さしていた。
その方向をふり返って確認するアイリス伯。後方には、意識を取り戻しクリスタルを手にしたバーガンディ・ローゼスがいた。立ち回りの最中、マゼンタはクリスタルを仲間にパスをしていたのだった。
「貴様っ」
「終わりにしようや、セレスト・アイリス。お前さんとワシの
「や、やめるぉおおおお!」
バン爺はクリスタルを握りしめ、オドの力で握りつぶして破壊した。
「あ、あ、ああああああ!」
バン爺の手の中でクリスタルが砕け散ると、鮮やかな青の光の粒子が辺りを包んだ。光の粒子は意志を持っているかのように波打ち、そして渦巻いた。
「こ、こりゃあ……。」
そこにいるすべての人間がその
やがて光の粒子はゆっくりと1か所に集まり、それは人の形を成し始めた。おぼろげだったその人の形は、次第に表情も分かるほどにくっきりとしたものになる。
「……母さん」
意識を取り戻していたシアンが言った。
そして光の粒子は再び霧散すると、風に流されるようにすぅっと消えていった。
「う、うぐぅおおおおお!」
光が消えると、アイリス伯が胸を押さえて苦しみ始めた。妻のクリスタルで安定していたコアの出力が暴走し始めていた。
「父さん?」
「あ、ぎ、ぎぃああああああああ!」
アイリス伯の胸のコアが強烈な緑色の光をはなっていた。体はさらに奇妙にゆがみ、さらに膨らみ、このままでは体ごと砕け散ってしまいそうだった。
「あ、あかんで、コアが暴走しとる。
アッシュは後ずさりをするが、逃げるには間に合いそうになかった。何より、
「……もう一回か。老体がもつかどうか」
苦しむアイリス伯を見ながらバン爺は言った。
「どういう意味や、おじいちゃん?」
「お前さんじゃ、あれは無理じゃろ」
「……おじいちゃん、まさか」
「どういう意味?」
マゼンタはアッシュに訊ねる。
「……シアンや、お前さんヒーリングはまだ使えるかね?」
「……大丈夫だと思う」
「……うむ」
バン爺はなくなった左手首の傷口を地面に押し付けた。
「……バン爺さん?」
バン爺が手を引き上げると、そこには鉱物でできた義手が形成されていた。
「……マゼンタや」
「……なに?」
マゼンタの前を通り過ぎながらバン爺は言う。
「そういや、お前さんにサービスしてもらうん忘れとったな」
「バン爺、ちょっと、なに言ってんの……?」
バン爺はすたすたと歩き、苦しんでいるアイリス伯の前に立つ。
「……いま解放してやるぞ、セレスト」
そして義手となった左手の手刀でアイリス伯の胸を貫いた。
「ごぶっ」
アイリス伯の胸から手を引き抜くバン爺、その手にはコアが握られていた。コアは緑色に美しく、しかし危険な光を放っていた。
「ぐ、ぐぬぅっ」
光はバン爺の手の中でコアが暴走する。閃光はまっすぐではなく波のように渦巻き、強風がバン爺をとりかこんだ。
「シアン、アッシュ……マゼンタを頼んだぞ」
シアンとアッシュは顔を見合わせると、すぐにマゼンタに覆いかぶさった。
「ちょ、ちょっと、あんたたち……」
「おとなしゅうしてやマゼンタちゃん、今の俺らにはこれが精いっぱいや」
「バン爺は何を……」
「バン爺さんは父さんの力も流すつもりなんだよ、ぼくみたいに。だけど……」
シアンが沈痛な面持ちで言った。
「二度も連続は体がもたへんて……それにボロボロやし……」
「そんな……。バン爺ダメだよ!」
ふりきって前に飛び出ようとするマゼンタ、シアンとアッシュがそれをおさえる。
「あかんて、この状態からやったら、もう俺らもマゼンタちゃん守るので精いっぱいや」
「バン爺! あんたも逃げて!」
光の中に消えようとしているバン爺が言った。
「礼を言うぞ、マゼンタ」
「バ……」
バン爺はふり返って笑う。
「親父はようやく息子に追いついたんじゃ」
強い光を目にしてもマゼンタは目を閉じなかった。見開いた目で涙を流していた。
「泣いてくれるな嬢ちゃん。ワシはようやく今日にだどりついたんじゃ。ずっと終わらん昨日を
──ようやく、ここに来れたんじゃ
そうして、バン爺は光の中に消えていった。
エメラルドグリーンの光はバン爺を飲み込むと柱になり、空に登っていった。光は厚い雨雲に吸収されると、稲光のように雲の中で瞬いた。
やがて空からマナを含んだエメラルドグリーンの小雨が降り始めた。マナを浴びた大地は、急速に力を取り戻し、とうとうアイリス伯領はかつての状態にまで回復していた。緑豊かな大地へと。
「……俺はさっきから夢でも見とるんか」
周囲を見渡しながらアッシュは言った。
「……父さん」
倒れたアイリス伯は、しゅぅっという音を立てながら体が縮ませ、次第に元の体に戻っていっていた。そしてそのそばには、長年雨風にさらされた案山子のような
「……バン爺?」
マゼンタが声をかけるがバン爺は答えない。それどころか、消し炭のようにどさりとバン爺はその場に倒れた。
「バン爺!」
マゼンタは倒れたバン爺に駆け寄った。
「バン爺っ! 大丈夫!? 生きてる!?」
バン爺を抱き起し、気付けをするマゼンタ。死んでいるように見えたが、幸い脈も呼吸もあった。
「バン爺、バン爺っ」
マゼンタはバン爺の頬をひっぱたき始めた。
「バン爺、死なないで!」
必死でバン爺を叩き続けるマゼンタ。
「……い、痛い痛い、お前さんがとどめさしとるぞ」
バン爺が目を覚ました。
「またこのパターンかよ!」
マゼンタはバン爺を放り投げた。どさりとバン爺は倒れる。
「あだだ……。お前さん、もっと老体を労わらんか」
「あんな思わせぶりなこと言う方が悪いんでしょっ?」
「いや、本当に死ぬかもとは思うたよ? ただ二度目じゃったからな、ワシもコツをつかんだわい」
「つくづくバケモンなおじいちゃんやな……」
アッシュがつぶやいた。
変身の解けたアイリス伯を見ながらバン爺が言う。
「急所は外しとる。じゃがほっとけば失血で助からんじゃろう。……シアン、やれるかね?」
「うん」
「……もとい、やりたいかね?」
「……うん」
「ええじゃろ」
バン爺は「疲れたぁ」と言うと、瓦礫の上に座り込んだ。
「……大丈夫?」
マゼンタがそんなバン爺をねぎらう。
「まったく、また寿命が5年くらい縮まったわい……。」
「……明日死ぬじゃん」
「洒落にならんて」
シアンは無言で父親の傷を治しはじめた。胸元に当てた手が青白く光る。
息が絶え絶えのアイリス伯は、辛うじて開いた目で自分を癒す息子を見ていた。
「……シアン」
アイリス伯は言った。
「……良かったのう、お前さん、息子に命を救われたぞ」
「う……く……。」
アイリス伯は首を上げ何かを言おうとするが、言葉にならない。
「じゃがそんなもんじゃ。子供に生を与えるのは親じゃが、親に人生を与えるんが子供なんじゃよ」
「……シアンくん、もし余裕があったらバン爺の傷も治してあげて。こっちもけっこう深刻だから」
上腕部の太い動脈を縛って押さえているが、バン爺の左の手首の先からは血が流れ始めていた。
アッシュもマゼンタたちの側で腰を下ろした。
「シアンくん、もっと余裕があったらでええんやけど、俺も見てくれんやろか」
そう言って、アッシュは骨折しているかもしれない自分の頭を指さした。
「あんたのは唾つけときゃ治るでしょ」
アッシュは面を喰らった顔をするが、すぐにいつもの笑顔の戻った。
「へへ、そうやなぁ、マゼンタちゃんの唾やったら治るかもしれへんねぇ」
「ぺっ」
マゼンタはアッシュの顔に唾を吐きつけた。
「どう? 治った?」
唾をおでこから垂らしながらアッシュは言う。
「……俺、そんなに嫌われるようなことしましたっけ?」
「……傷は
シアンが言った。アイリス伯の出血は止まっていた。
「おお、そうか……。」
「バン爺さんも傷を見せて」
そうしてシアンはバン爺の左手首を取った。バン爺の手先は戻らなかったが、治療の
全員の傷の手当てが終わった後、シアンは父に旅立つことを告げた。
「……そうか」
瓦礫の上に座り込み、夕日を背にしてうなだれるアイリス伯の姿は、彼の人生の
「たまに……便りを送ります」
「……いらん」
アイリス伯は顔を上げる。
「それと、2度とここには帰ってくるな。……グレイスの墓参りも許さん」
「……そういうやり方はやめんか、セレスト」
アイリス伯は無言でバン爺をにらむ。
「父として、息子に旅立たれるのはしんどいとだけ言っとけ。別にシアンとてお前さんを捨てようというわけじゃあない。時がたって落ち着いた頃に、また関係を見直せばいいじゃろ。親子なんじゃ、どれだけ離れていようと、何らかの形でつながるもんじゃよ」
アイリス伯はうなだれた。
シアンはそんな父に何か別れの言葉を告げようとしたが、しばらく考えても適切な言葉が見つからず、何も言わずにシアンは父から、そして故郷から去って行った。
マゼンタとバン爺も今の状況のシアンにどういう言葉をかけて良いのか分からず、陽が落ちて、野宿する場所を見つけ寝る時になって、ようやくマゼンタが「おやすみ、シアンくん」と話しかけた。
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