蛟の子
「蛟さま! 蛟さま! お願いでございます。この子を助けて下さい!」
お鈴は沼に向かい、叫び祈った。水面が激しく泡立ち、沼底の奥深くから声が届く。
「ここは、人の来る所ではない。村の掟を知っておろう。すぐに立ち去れ!」
「嫌です! この沼の水を飲ませて下さい。そして、この沼の魚をこの子に食べさせてください」
「この沼の魚とな?」
「はい。この沼の水を飲むと元気になり、魚を食べると病が治ると聞いたことがあります」
「病を治す魚など、この沼にはいない。お主が言っているのは、我が子・
お鈴は愕然とした。病を治してくれるのは沼の魚だと思っていたのに、まさか蛟さまの御子だったとは……。 神の御子を食す。そんなことは許されることではない。
頭ではわかっている。わかっているが――
「蛟さま。あなたさまの子を、我が息子に食べさせてください」
お鈴はそう言って、深々と頭を下げた。
「愚か者め! 大切な我が子を、お主にやれるか!」
雷鳴とともに、蛟の声が響く。普通の人間ならば、雷鳴と神の声に恐れおののき、さっさと逃げ帰るに違いない。しかし、お鈴は違った。カッと目を見開き、沼の底にいる蛟に向かい落ち着いた声で話す。
「蛟さま。私の子は、今にも命が尽きようとしております。大切な子を守りたい親の気持ち、あなた様もおわかりでしょう」
「なっ!」
言葉に詰まる蛟。
一瞬の間を置いて、蛟が声高らかに笑う。
「なんという
「——いいえ、存じませぬ」
「
お鈴の瞳が左右に揺れた。しかし迷ったのは、ほんの一瞬だけだった。
「この子のためなら、私は鬼になりましょう」
「よかろう。指を一本沼の中に入れるが良い。餌と間違えて
「……はい。蛟さま、お力添えありがとうございます」
お鈴は、まず腰に下げていたヒョウタンに沼の水を汲んだ。それから沼の中に指を入れようとしたが、一瞬躊躇った。怖いからではない。胸の奥が、チクチクと痛んだような気がしたのだ。
本当に、これでいいのだろうか?
自分の心に問いかけた。その時、背中の子の苦しそうな息遣いを感じる。
そうだ、村医者はこの子を診ようともしなかった……
その怒りが、腹の底から沸き上がり胸を痛みを消し去った。お鈴は、ゆっくりと右手の人差し指を入れた。
「痛っ!」
直ぐに、鋭い痛みが走った。水面が赤く染まる。指を上げると、そこには親指ほどの小さな金色の蛇が食いついていた。お鈴は
沼の水のおかげだろうか? 人差し指の第二関節までを失っているというのに、もう痛みもなく、血も止まっている。
お鈴は持っていた手ぬぐいを裂き、人差し指に巻いた。その後の記憶ははっきりしない。いつの間にか雨は止み、お鈴は家へと戻っていたのだ。
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