忘れないで欲しい事

「さて」と僕ら新入部員の前で、真理子さんは改めて説明を始めた。

「ストリートダンスでもっともポピュラーな音取りといえば、二種類あります。

 一つはダウン、もう一つはアップになります。

 まずダウンから……」


 そこまで言うと、腰を落としてデッキのスイッチを押した。


 女性ボーカルの悲しげな声が辺りに響く。

 スローテンポのバラードのようだ。


 立ち上がった真理子さんは楽しそうに微笑みながら軽く音に合わせて体を動かした。

 そして、ファーイブ、シックス、と手拍子を入れる。

「ファイブ、シックス、セーブン、エイト!」

 すると、軽くスクワットをするように、音に合わせて体をアップダウンし始めた。

「分かるかしら?」

と体を動かしながら真理子さんは訊ねる。

「わたしが体を落とすのと、ビート――つまり、音が強調された部分とが一緒なのが。

 これが、ダウンです」


 ビートと言われてもいまいちピンとこなかった。


 ただ、音に乗っていることは分かった。

 ドラムの音とかに意識を集中すると、さらによく分かった。


 ダウンで音を取る。


 なるほどね。


「それじゃあ」

と楽しそうに微笑みながら真理子さんが指示を出した。

「みなさん、やってみましょう!

 とりあえずは、難しく考える必要なんてないの。

 音楽に合わせて、膝を曲げて、体を動かすことを楽しんじゃってね」


 ファーイブ、シックス、とまたカウントする。

「ファイブ、シックス、セーブン、エイト!」


 みんなが一斉にダウンを取り始めた。


 新入部員の中にもそれなりの動きをする面々はいるにはいたが、やっぱり、ぎこちない動きをしている人の方が多かった。

 もちろん、僕もその分類に属している。


 うん、酷すぎる。


 鏡で真理子さんと比べると一目瞭然だ。

 僕のはただの膝の曲げ伸ばしでしかない。

 でも、真理子さんは違った。

 どのパーツを取っても洗練されているというか、極まっていた。

 全体的な姿勢もそうだが、ひざを曲げた時の腕の位置や、肘の曲げ具合、さらに言うなら、表情やダウンするたびに揺れるクリーム色の長髪すらも計算されている様に見えた。


 すごい。


 でも、何かコツがあるはずだ。


 僕は亜矢が先ほど話してくれたことを実践することにした。

 確か、『肩の位置から、手の高さ、足幅など細かいところまで完全にコピーする』と、上達が早い――だったはずだ。

 よし、真理子さんをじっくり見て……。


 ……こ、これは!


 自分の顔が見る見る赤くなるのを感じた。

 これは、何と言いますか。

 じっくり見るには真理子さんは美しすぎた。

 いや、奇麗な表現をしすぎだな。


 じっくり見るには真理子さんの体はエロすぎた。


 例えば、小さく丸みのある肩を見る。

 すると、Tシャツがぴっちりとフィットした細い背中が現れ、緩いカーブを描きながら広がって行き、行き着く先はダボついたズボンに包まれたお尻だった。

 もう、この時点で煩悩退散と叫びながら頭を叩きたくなる。

 だが、さらに悪いことにだ。

 鏡越しに見ると、大きすぎない程度に存在感がある胸に視線誘導されてしまう。

 駄目だ、ただでさえ初心者なのにレッスンに集中できない。


 というか、他の男子は平気なのか? と確認してみる。


 ……やはり駄目だった。


 ある者は顔を真っ赤にしながらチラチラと真理子さんを見ている。

 ある者は、悟ったように目をつぶり、自分の世界に入ろうとしている。

 ある者などは、頭から振り払おうとしているのか、定期的に自分の頭を掌で叩いている。


 おしゃれでモテそうな男子ばかりだというのに……。


 真理子さん、まさに、美しすぎるインストラクターになってますよ。


 こんなんでは、みんな練習に集中できませんって。


 そんな、男心など全く分かっていないのだろう。

 集中力を切らしている男子に、肩の力を抜いてとか、音をよく聞いてとか指示を出していく。


 このままでは駄目だ。


 真理子さんの魅力に取り込まれ、自我を失ってしまう。

 僕は、別の上級者を参考にしようと不自然にならない程度に辺りを見渡した。


 よく考えたらすぐ近くに亜矢がいたんだ。


 うん、さすがは元ジュニアチャンピオンだけのことはあって、上手かった。

 真理子さんとだって遜色などない。

 ダウンこの程度は亜矢にとって、なんてこともない基礎のはずだ。

 だが、鏡を見ながら音取りをする彼女は真剣で、時々、姿勢を変えながら別の雰囲気を出そうとしているのが分かった。


 よし、真似しよう。

 僕は亜矢の動きを注視した。


 何となくだが、ダウンするときの腕の位置が重要だと考えた。

 亜矢と全く同じ場所に持って行くと、少し、格好が付いてきた気がした。

 そうすると、がぜん面白くなってきた。

 うん、自分が格好いい動きをするのって、不思議な感じがして楽しい。

 と、鏡越しに亜矢が、チラチラとこちらを伺い始めた。

 どうやら、僕に見られていることに気づいたようだ。


「ちょっとぉ」と声を潜めつつ睨んできた。

「なに、見てるのよぉ。

 うざいんだけどぉ」


 顔をこちらに向けて話しかけてきても、リズムも形も乱れない。

 すごいな、と感心した。

「いや、亜矢は上手いから手本にさせてもらおうかと」

「はぁ」と何故か怒ったような、それでいて照れたような顔で返事をした。

 そして、「そりゃあ、素人より上手いけどさ」と前置きをする。

「でも、教えてくれる真理子さんに失礼っていうかさぁ、あの人だって、全然上手いんだしぃ」


 ふむふむ、ダウンするとき軽く頷くと格好いいのか。


と亜矢の動きを見ながら、「いや、あのね」と僕は正直に答えた。

「真理子さんだと、美人すぎるっていうか、スタイルが良すぎて集中できないんだよね。

 その点、亜矢は――げほぉ!」

 亜矢の蹴りが僕の横っ腹に炸裂した。


 どうやら、ぶっちゃけすぎたようだ。



 蹴った方も蹴られた方も一緒くたにお説教されたりもした。


 ただまあ、順調にアップの音取りまで進み、真理子さんレッスンは終了した。


 まだ、正確な音取りなど出来ないし、格好もぎこちなかった。

 ただ、どういうものかは、何となく分かったので、後は練習あるのみだった。


「お疲れさま」と真理子さんはみんなに向かって微笑んだ。


「今回のレッスンは本当に初歩中の初歩だったけど、踊ることに慣れていない人は大変だったかもしれません。

 うん、でもね。

 音取りはすごく重要だから、しっかり練習しておいてね。

 たとえ、出来るようになっても、定期的に復習するように。

 これは、ダンスのベース部分だと思い、馬鹿にせずに励みましょう!」


「は~い」と男臭い声が返事をした。


 前の方にいる女子らも、面白がってわざと低音の声を上げていた。

 当然、亜矢は、ばっかじゃないの、という顔をしている。

 真理子さんは、「まあ」と楽しそうに微笑んだ。

 そこで、僕の方を見て、「新太」と声をかけてきた。


「初めて受けたレッスンはどうだったかしら?」


 みんなの視線が僕に集まった。

 無論、どういう経緯でここにいるのか、分かっている人ばかりだ。

 例の利華さんファンなのにヘタレた女の子などは、気まずそうに目を泳がせている。


「そうですね」と僕は少し考えてから答えた。


「真理子さんを含む上級者の人らは、ダンスとか見慣れていない僕が見ても、格好いい動きをするなぁと思いました。

 どういう風にすれば、そうなれるのかについても興味がわきました。

 それに、音に合わせて体を動かすのって、心地良かったです。

 ハマるかはどうかはともかく、もう少し続けたいと感じるようになりました」


 僕の言ったことは本心から出たものだった。

 もともと、格好いいと思ったものを真似るのが好きだった。

 今はやらなくなったが、小学校高学年の頃まで、幼なじみの女の子と戦隊ヒーローの真似を真剣にやっていた。

 それに近い感覚で、真理子さんや亜矢の真似をしていると、昔を思い出してきた。

 もちろん、アトラクション研究部に入ったら、さらに楽しくなるはずだ。

 でも、まあ乗りかかった船というか、真理子さんが言うようにこんな機会は滅多にないので、諦めとともに楽しんでやろうという意欲が沸いて来た。


「そう」と真理子さんは優しく微笑む。


 そして、「みなさんに伝えたいことがあります」と僕ら全体に向けて話し始めた。


「これからダンスを続けていくと、辛いこともあるでしょう。

 振りをなかなか憶えることが出来ない。

 技がなかなか身に付かない。

 自分への評価がなかなか上がらない、などね。

 そうすると、ダンスが酷くつまらない苦行のように感じてしまうこともあるでしょう。

 下手をすると嫌いになってしまうかもしれない。

 でもね……」


 そこで、真理子さんは幸せそうな表情を浮かべた。


「そんな時は思い出してほしい。

 ダンスってとても楽しいんだってことを。

 音さえあれば、体は自然に揺れる。

 それだけで、十分ダンスなんだから。

 細かいことに捕らわれないで、楽しく踊ることを忘れないでね」


 真理子さんでも、ダンスがいやになってしまうことなどあるのだろうか?


 亜矢もそんな風に苦しむことがあるのだろうか?


 僕はそんなことを考えながら、亜矢を見た。

 彼女は真顔で真理子さんの話に耳を傾けていた。

 それは、感じいっているようにも見えたし、また、ただ先輩の話だから聞いているだけのようにも見えた。

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