頭が追いつかない展開、そして……。

「ねえ」と真理子さんが僕に向かって微笑む。

 それだけで、僕はビクついてしまった。

「ふふふ、緊張しなくていいのよ。

 お名前はなんて言うのかしら?」

「え、あ」

と僕は一瞬本名を名乗るべきか躊躇した。

 でも、深く関わりたくないと思っても、嘘をつくのは得策ではない。

 同じ学校なのですぐにばれてしまうからだ。

「一年五組、柳沢 新太やなぎさわ しんたといいます」

「そう」と真理子さんは頷く。

「念のため断っておくけれど、うちの部は先輩に対して名前に『さん』をつけて呼び、後輩に対しては名前を呼び捨てにするというのが伝統なの。

 だから、あなたのことも、新太って呼ばせて貰うわね」

「は、はい」

と顔がカッーっと熱くなるのを感じながら答えた。

 なるほど、だから浩一君は自己紹介の時も、先輩達について説明する時も、名字無しの名前で呼んでいたのか。

 密かに不思議に思っていた。

 とはいえ、女の人で僕の名前を呼び捨てするなんて、母さんと幼なじみの女の子が一人いるくらいだ。


 まして、真理子さんみたいな美人に呼ばれると無性に恥ずかしい、こそばゆい、そして、ちょっと気持ち良かった。


「おい!」

と僕が浸っていると利華さんが割り込んでくる。

れきはどれくらいある?」

 何を言っているのか理解出来なかったので、「はあ?」と、間の抜けた声を上げてしまった。

 利華さんが激しい剣幕で怒鳴る。


「ダンス暦はどれくらいかと聞いてるんだ!」


 僕はあまりの怒声に仰け反ってしまった。

「ちょっと、怒鳴ること無いでしょう」と、実沙さんがなだめた。

 利華さんは歯ぎしりが聞こえそうなぐらい歯を食いしばり、僕を睨んでる。

 どうやら、僕がもたもたしているのでイライラしているようだ。

 とにかく、怒りっぽい人のようだ。


 ダンス暦……。

 ダンス暦……。


と頭の中で数回繰り返し、ようやく、パニックになっていた頭が収まってきた。

 ダンス暦……。そうか! 肝心なことを思い出した。

 そう、僕はダンス暦など当然無いわけで、よって、ジュニア日本一である亜矢さんの対抗になるわけが無く、以上の理由で、この場はご遠慮させていただきます、という思い付いたら酷く簡単な図式があったのだ。


 よし、これで行こう。


 覚悟を決めて利華さんを、キリっとした顔で見つめつつ答えた。

 こう見えても、中学の時は学級委員を勤めた男なのだ。

 言うべき事は言う鍛練は積んできた。

「すいません、ダンス暦は全くありません」

 利華さんが落胆するようにため息をついた。


 よし、いける!


と更に、なので他の人を選んでください――と続けようとするが、真理子さんに遮られた。

「暦が無くても構わないから、安心して」

「え?」と僕は、思わず間の抜けた声を上げた。

 真理子さんは人差し指を指揮棒のように振る。

「構わないっていったら、構わないの。

 さてはて、本当は二、三人欲しかったけれど……。

 利華は予想以上に人気がないようなので……」


 不服そうだが返す言葉も無い利華さんに、笑顔を向けながら宣言する。


「ツーオンツーでの対決にしましょう」


 や、やばい。


 僕は焦った。

 このままでは、本当に抜けられなくなる。

「あ、あのう」と真理子さんに声をかけようとした。

 だが、いきなり首根っこを捕まれ、まるでたたき売りされる市場の鶏のように、武雄さんの前に突き出された。

「ジュニアチャンピオンだか何だか知らないけど、あたしはねえ、日本チャンピオンだ!」

と、利華さんは僕を自分の方に引き寄せた。

 そして、僕を指さす。

「こいつは、ハンデだ!」


 武雄さんは肩をすくめた。


 すると、亜矢さんがくすくす笑い始める。

「何がおかしい?」

と利華さんは凄みを利かした声を上げた。

 が、亜矢さんは腕組みをしながら余裕の笑みを浮かべる。

 そして、「わたしって」と話し始めた。

「H.S.Sのネット動画とかDVDを、好んで見てたんですよ。

 かなり初期からラストまで。

 で、前から思っていたんですが、あなたって、あのメンバーに必要なかったんじゃないですか?」

「おいおい」と僕は焦り、利華さんを見た。


 だが、利華さんは何も答えない。


 すぐにでも殴りかかると思っていたが、体を震わせているだけだった。

 怒りを我慢しているのかと思ったが、どちらかというと、青ざめているように見えた。

 亜矢さんは揚々と続ける。

「確かに、わたしらはたかだかジュニアチャンピオンかもしれません。

 でも、振りも、構成も、練習スケジュールもすべてメンバーで決めてきました。

 会場までの移動も、受付も、全部わたしらが行ないました。

 だから、その結果である優勝にプライドを持ってます。

 で、あなたはどうなんですか?

 他のメンバー、特にリーダーの正輝まさきさんに任せっきりだったんじゃないんですか?」


 利華さんは何も言わない。


 実沙さんが止めようか躊躇しているのが目に入った。

 亜矢さんは意地悪そうに微笑む。

「はっきり言って、変わりにわたしが入ってもH.S.Sとしては全然成り立ってたと思いますよ。

 だから、捨てられたんじゃ――」


「黙りなさい」


 ぞっとした。

 ただの一言だった。

 だが、そこには重い怒気が含まれていた。

 亜矢さんは顔を引きつらせる。

 最初、誰が言ったのか分からなかった。

 でも、すぐに気付いた。


 真理子さんだった。


 美しい先輩は、怒火でパチパチ鳴り響きそうな勢いで、亜矢さんを睨んでいた。

 そして、声を荒げているわけでもなく、むしろ静かに言う。

「関係者じゃない人間が、知った口を利かないで」

 それは、利華さんが先ほどから何度も上げた怒号など、問題にならないほどの迫力があった。


 鳥肌が立つのを感じた。


 人ごとのはずなのに、周りにいる新入生らの顔が恐怖で引きつる。

 亜矢さんもすっかり怯え、「ご、ごめんなさい」と頭を下げた。

 武雄さんは困った奴だと言うように、亜矢さんの頭を撫でた。

 隣をのぞくと、利華さんも怖々と真理子さんの様子を伺っていた。

 いや、あなたが怯えるのは、少しおかしいでしょう。


 学内の人気者、真理子さん。


 その実、かなり恐ろしい人なのかもしれない。


 このメンツを一言二言で黙らせるのは、なかなかできるものではない。

「あぁ」と気まずい沈黙を打ち消すように武雄さんが声を上げた。

「そうそう、真理子さん。

 どういう基準で勝敗を争うわけですか?」

 真理子さんは一度目を閉じた。

 そして、目を開けると先ほどのことが嘘のように、軟らかい表情になっていた。

「うん、この勝負は技術力と成長度で優劣を決めようと思うの」

「技術力と成長度――ですか」と武雄さんが合いの手を入れた。

「そう」と真理子さんは話を続ける。

「技術力は、ダンスの構成などの完成度ね。

 ショーをする上で基本的なこと――新太以外には言うまでもないことだけれど、音を外さない、振りを間違えない、曲のノリにきちんと合わせるなどなど。

 それらに加えて、全体のバランスや構成などの巧妙さもチェックします。

 チームのメンバ――まあ、今回は二人だけれども――お互いの魅力をしっかり引き出しているか?

 あとは、どちらか一方だけのワンマンチームになっていないか?

 どれだけ観客を魅了できたか?

 そんな所ね」


「そして、成長度」と真理子さんは自分の顔の近くで指を二本、立てた。


「一年生がどれだけ成長したか。

 今回はこの成長度をもっとも重要視します。

 一年生であるあなたたち――」と、僕と亜矢さん、順々に視線を送る。


「――二人の現時点でのレベルからどれだけ進歩したか、チェックします。

 新太は初心者ってことで、現在値は全くのゼロね。

 亜矢」


「はい!」

と亜矢さんは返事をした。

 まださっきのを引きずっているのか、少し顔を引きつらせている。

 そんな彼女に真理子さんは優しく微笑みながら訊ねた。

「今年の三月――栄のオアシスで踊ってたでしょう?」

「ええ」と亜矢さんは答えた。


 栄にあるオアシスと言ったら、オアシス21の事だろう。


 楕円でガラス張りの、大屋根が特徴的な複合施設である。

 あそこには舞台があり、様々な催しが行なわれている。

「その時が、チーキーガールズで踊る最後のショーでした」

 真理子さんはうんうんと頷く。

「だったら、その時の印象を中心に、数回見たショーを基準とします」


 そして、僕ら四人を見渡して断言した。


「以上の二点を、わたしの主観で判断し、勝利チームを決めます」

 主観なんかでいいのかなあと、他の三人の顔を眺めた。

 だが、別段不満そうにはしていない。

 それだけ、真理子さんを信頼しているってことか。


「あれ?」僕は小首を傾げた。


 誰も何も言わないが、これってバランスは取れていない気がするのだが……。


「まあ」と武雄さんが意味ありげに微笑む。


「優劣の判断は真理子さんに一任するってことで……。

 で、罰ゲームについてはどうする?」

「ふん」と利華さんは鼻で笑った。

「何も言わなかったら、罰を受けずに済んだのになぁ。

 ば~か、ば~~か!」

 どうでもいいけど、僕の中の利華さんが跡形もなく崩れ去りつつあるのだが。

 僕は思わず頭を抱えた。

 とその時、突然真っ赤なアロハシャツが先輩二人の真ん中に飛び出てきた。

「は~い、わたしが決めてやるぞっ!

 わたしがぁ、決めてやるぞっ!」

と美希音さんが元気いっぱい右手を上げて宣言した。

「はあ?」と利華さんが気の抜けた声を上げる。

 武雄さんも目をぱちくりさせた。

 真理子さんは面白そうに訊ねる。

「あら?

 どんな罰ゲームを思い付いたの?」

 美希音さんは腰に手を置き、余り凹凸のない胸を張って答えた。

「負けた方にはフラのライブをやってもらうぞっ!

 そして、ストリートダンス部にフラ有りと言う事を過激に宣伝してもらうぞっ。

 もう、これで決定だぁぞぉ」

「何いってんのよ!」と利華さんは美希音さんを睨んだ。

「フラダンスって、ただ単に、あんたの個人的野望のためだけじゃん!

 そんなの、いやよ!」


 美希音さんは地団駄を踏みながら「決定したことは覆らないぞぉ!」と言い返す。


「何が決定したことだ!

 アホ!」と利華さんは更に言い返した。

 まるっきり子供の喧嘩だ。

 全国ナンバーワンのダンスチーム、H.S.Sの元メンバーの二人……。

 この人らで本当に優勝できたのか凄く疑問だ。

 それに、そもそもフラダンスってストリートダンスなのかな?

 などと、考えていると、真理子さんは楽しそうに手を合わせる。

「いいんじゃないの?

 フラね。それで決定!

 ふふふ」

 そして、「衣装も準備しなくっちゃ!」ともうノリノリである。

「ちょっちょっと!」と利華さんが慌てた感じで叫ぶ。

「それでOKしちゃうわけ!?」

「あら?」と真理子さんは利華さんに柔らかく微笑む。

「あなた、勝つつもりなんでしょう?

 だったら、なんだっていいじゃない?」

「まあ、それはそうなんですが……」と言いつつも利華さんは不満そうな顔をする。


 またも、真理子さんに丸め込まれたようだ。


 しかし、フラダンスってどんな格好でどんな動きをするんだっけ? 僕は一生懸命思い出そうとして――我に返った。


 違う! 違う! 違う!


 余計な思考を払うため、思いっきり首を振る。

 このままでは、まずい。

 このままでは、完全に流されてしまう!

 僕は焦りながら先輩方を見渡した。

 利華さんは真理子さんに何か質問している。

 武雄さんと亜矢さんに、美希音さんは強引にフラダンスの指導をしている。

 実沙さんなどは自分の仕事は終わったとばかりに、新入生の女子らと話し込んでいる。

 まずい、このままでは本気でまずい。

 このまま流されたら、ダンスを舞台でやらなくてはならない。

 それは、無理だ。

 僕はもう、舞台に上がることは絶対に出来ない。

 想像するだけで、胸の鼓動が激しく打つのを感じた。

 それだけは、やりたくない。


「すいません!」と僕は叫んでいた。


 目の前に板張りの床が見える。体を九十度以上曲げて頭を下げていた。

「僕、本当はアトラクション研究部に入りたいんです!

 だけど、場所間違えちゃって、でも、言い出せなくって……。

 本当にごめんなさい!」


 しばし、一同は沈黙した。


 そして、「はあ?」と利華さんのどちらかというと、気の抜けた声が聞こえる。

 僕はもう一度叫んだ。

「すいませんでした!

 失礼します!」

 僕は視線を下げたまま振り向くと、荷物を掴んだ。

 そして、出口に向かって走った。

 誰かが引き留める声が聞こえた。

 開けっ放しにされていたドアを抜ける。

 そして、階段を一目散に駆け下りた。

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