あとさき

 インドアの詩織でさえ、窮屈に感じる昨今だ。どちらかと言えばアウトドアな彼女には、なおさら辛いだろうと思った。普段は趣味や性格の違いから、意気投合する事はそんなになかったが、今回は妹の気持ちがよくわかる気がした。

 看護師をしているらしい母の友人は、病院で感染症の治療に明け暮れていると、初夏に母からのメールで聞いた。本人までが体を壊してしまうのではないか、と不安がっていた。

 自分達だけではない。それぞれが、それぞれの苦しみ、悔しさの痛みを味わっている。ある日突然放り込まれた、真っ暗で先の見えない、明日どうなるかわからない世界と戦っている。恋人と会えない位で……と遠回しに言われる事もあった。けれど……


「お姉ちゃんだって、バイト先増えて、せっかく続いてる彼氏と会えなくて大変でしょ?」


 続けて耳に入り込んだ一言が、詩織の中で、何かを大きく波打たせた。


「……うん。つらいし、寂しい、よ……会いたい……」

「え、ちょっとお姉ちゃん? 大丈夫⁉」


 香織の動揺したような声がする。彼女の思いにつられるように弱った心が引き出され、詩織は呂律ろれつが回らず、涙声になっていた。

 普段は人前で、増して妹相手に泣く事なんてなかった。誰かに頼る事、頼り方すら忘れてしまっていたのに、龍彦と一緒にいるうちに涙腺がゆるんでしまったようだ。自分がこんなに泣き虫で弱かったなんて知らなかった。


「ご、め……」

「その人の事、そんなに好きなんだ……」


 茫然とした妹の声が、彼方かなた遠くに響く。同じ時代に、同じ災難に遭った事が、皮肉にも二人の壁を低くしていた。


 それまでの世界は、どんな事件や世相があっても、夢や希望を与えるコンテンツに溢れていた。音楽、映像も、スポーツ、舞台、外食、旅行……どれも、普段多大なストレスを抱えながら生きる自分達には必要で、非日常や夢を見られる娯楽を利用する事で頑張ってこれたのだろう。

 それまでのやり方や価値観、当たり前とされてきた生活様式が、たった一日で一変し、覆される。夢は呆気なく奪われ、壊される。肝心の命すら、必死で助けようとする人達がいる一方、守られているのかいないのかすらわからない、不透明な流れがある。混乱と絶望、何か大きなものに動かされ、振り回されているような不気味な従属感。

 今までの世界は、何故、あんなにキラキラした夢を見せたのだろうか? 何故、病みつきになる楽しみを与え、虜になる甘い味を教えたのだろうか?

 全てがまやかしで一時の幻想だとわかってはいても、それすら失った時、絶望するのは当たり前だろうに……

 大切なものを、ずっと守り続けていくには、私達の手は無力で、非力な赤子同然なのだと、痛感した。



 十月末。急に冷え込み出し、季節がすっかり移り変わった頃。詩織が使うレターセットは、星柄から紅葉柄に変わっていた。去年、二人で紅葉の絶景スポットを訪れた事を思い出す。淡い色調で描かれた便箋と向き合う度、今では貴重になった思い出を噛みしめるように、想いをつづっていた。

 少しずつ、少しずつ、今年の終わりを感じる中……十一月に入った。今月は詩織の誕生月でもある。去年は、いつもより少し背伸びしたレストランで、龍彦が祝ってくれた。二人の初めての夜でもある……


 ――せめて、今月は会いたかったな……


 最近になってようやく、外出や旅行が限定的に少し解禁されたが、多忙さと条件が揃わず、会えそうに無い……

 そんな今の状況を改めて嘆き、恨めしく思う。来年の今頃、自分達はどうなっているのだろう……

 日本も、世界も、様変わりしてしまった今、何を支えに生きていけば良いのか……



 モヤモヤした不安な思いを抱えながら迎えた、誕生日の前日。一つの小包が詩織のアパートの部屋に届いた。差出人は龍彦だった。明るく甘い予感と共に、高揚する心を抑え、手紙と同じく丁寧に封を開ける。中には緩衝材に包まれた、可愛らしい柄の小箱が入っていた。

 去年……まだこんな事態になっていなかった頃。デートでショッピングモールを訪れた時、化粧品や雑貨を売る店を覗いた。そこで何気なく試供品を嗅いで、『この香り好きかも』と詩織が話した、オーデコロンだった。普段、あまり香水をつけない詩織本人も忘れていた出来事――

 花束柄のグリーティングカードらしき物も同封されている。絞られるように痛んでいた心臓が、震えた。


 ――……覚えていて、くれた……


 ……龍彦はそういう人だ。そういう人だったのだと思いながら、真っ先にカードの方を開く。今では慣れ親しんだ彼の字が並んでいたが、いつもと少しおもむきが違っていた。もうすぐ面接の結果がわかるという簡潔な言葉。そして、その後に綴られた文面は、一層、だった。


『誕生日おめでとう。今年は、直接会って祝えなくてすみません。残念です。

 ……これからどうなっていくか分からない、相変わらずの毎日ですね。それでも、こんな俺と繋がっていたいと思ってくれてて、本当に嬉しいです。

 お陰でしんどい時も頑張れてます。ありがとう。詩織が、好きです』


 何度も書き直したような、下書きの跡だらけの便箋に綴られた、数行のメッセージ。

 彼の想い全てが、目から頭、そして心の奥まで一気に伝わる。身体が芯から震え、詩織はその場に座り込んだ。目頭が痛くなり、気がついた時には、一筋の滴が頬を伝っていた。

 次第に視界が霞み、書かれていた文字がぼやける。そんな自分に気づいた瞬間、幼い頃に戻った。久しぶりに我を忘れ、全身全霊で――泣いた。

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