昔日の夢

林海

昔日の夢


 窓から教室を覗き込む。

 僕には行くことができなかった、高等小学校、卒業間際の2年生の教室だ。

 僕は家が貧乏で、尋常小学校までしか通わせてもらえなかった。僕の学校生活は12歳で終わった。だから、高等小学校の敷地に入るのはとても気まずい。


 尋常小学校の級友たちのうち、男子の多くは受験して中学に進み、試験に落ちた連中もみんな高等小学校に進学している。だから、僕は教室にいる全員の顔を知っている。14歳になったみんなは、相応に意地悪になった。


 わかっている。

 そう思ってしまうのは僕の僻みだ。

 毎年、尋常小学校どまりなのは何人かいるけれど、僕の学年では、僕一人だったのだ。僻みも出るさ。


 中学なんて贅沢は言わない。せめて、高等小学校までは行きたかったと思う。

 でも、でも、そんなことを思っていても仕方がない。


 僕がここに来たのは、お嬢様を迎えに来たからだ。

 2年前までは級友だったけど、今は名前で呼ぶことなんかできない。

 お嬢様は尋常小学校の時は、僕と成績を競っていたというのに。

 長くつややかな髪、白い肌にくっきりした眉、大きな目、そして桜色の小さな唇。

 2年前に比べ、お嬢様ははるかに綺麗になって、手の届かぬほど遠くの人になった。


正人まさと、なにしに来た?」

 目ざとく僕を見つけた中村が、教室の中から僕に声を掛けてきた。

 その声にはあざけりの響きがあるのは、僕の気のせいだけじゃない。

雅子のりこの迎えか?

 残念だなぁ」

 佐島の声にも、笑いが含まれている。


 もう、みんな知っていることだ。

 家が貧乏でも僕は成績が良かったから、お嬢様の父上、この街の唯一の医師である東藤先生の家に書生として住み込むことを許された。僕の両親は、口減らしができるって大喜びだった。

 書生なんてもの、使用人よりは聞こえはいいけど、結局、今は雑用係に過ぎない。

 朝から晩までこき使われる中で、尋常小学校の時にはそれなりに仲の良かった雅子ちゃんは雅子お嬢様になってしまった。もう口を利くことなど、とてもじゃないけど畏れ多いことだ。

 それを佐島はわかっていて、僕をからかったのだ。


 それでも……。

 それでも、僕は書生で、書生は書生だった。

 使用人とは違って、先生の蔵書を読むことは許されているし、学費までは甘えられないのはわかりきっていることだけれど、官公立の医学校を卒業できなくても内務省の医術開業試験に合格すれば医師になれる。

 そう考えれば、日々の雑用だって意味があるし、いつかは報われる日が来るって思うこともできた。

 そう、つい一昨日までは。


 ここに来るまで医術に縁がなかった僕は全く知らなかったのだけれど、一昨日東藤先生から聞いたのは、内務省は医師になるための制度を改革すると発表していたということ。

 医術開業試験は、あと3年で廃止される、と。


 そのときに僕は16歳。

 そして、この医術開業試験は恐ろしいほどの難関だ。前期と後期共に合格しなければならないのに、合格率はどっちも1割程度しかいない。つまり、100人に1人しか合格しないということだ。もちろん、「前期3年、後期7年」と言われるほどの積み重ねが必要とされる。


 つまり……。

 実質、不可能と言っていい。僕にはあまりに時間が足らなかった。

 それを憐れと思った東藤先生は、今で僕に医術開業試験の話を一切しなかったんだ。

 きっと、僕の両親だって、書生から医者へという期待を一度は持ったに違いない。でも、あまりの実現性のなさに、僕にはなにも話さなかったんだ。


 でも、3人いる書生のうち、一番年上の山ノ内先輩は暇さえあれば勉強していた。その意味するところを、僕は東藤先生に聞いてしまった。

 そう、聞いてしまったんだ。

 先生は、大きく溜息をつくと、全てを僕に話してくれた。僕の未来には、なにもないことを……。



 それからの僕は、目の前が真っ暗になるような絶望の淵に叩き落されていた。

 その上での中村と佐島の言葉は、あまりに鋭く僕の胸をえぐった。僕はうつむき、歯を食いしばった。

 せめて、せめてこいつらの前では涙を見せたくなかった。

 守っても仕方ないちっぽけな矜持だったけど、それでもそれを捨てたら僕はもうおしまいだという気がしていた。

 ……近いうちに、すべてを奪われることがわかっている矜持だとしても、だ。


 僕は、自分の声が涙や激情で濁ってしまわないよう、下を向いたまま呼びかけた。

「お嬢様、先生の指示で、お迎えに上がりました」

「わかりました。

 すぐに行きます」

 雅子お嬢様は、女子としては低い声の持ち主だ。こういう声は、アルトというらしい。

 僕は、その低い声の落ち着きが大好きだったけれど、今はそんな感情を持つことすら許されないことは自覚している。

 医術開業試験の制度が終わると同時に、僕は東藤医院の書生から下男に落ちる。もう、わかりきっていることだ。


「中村くん、佐島くん。

 将来自分の身体を診ることになるかもしれない相手から恨みを買うのは、勇気があるにもほどがある思う」

 お嬢様の声は、さらにそう続いた。

 中村と佐島の、息を呑む気配。


 僕は、あまりのことに内心で快哉を叫ぶより、茫然自失した。

 僕には、もう、医術開業試験はほとんど閉ざされた門だというのに……。

 雅子お嬢様は、それを知らないはずがないというのに……。


「さあ、帰りますよ」

 後ろでまとめた長い髪をなびかせ、眩しいほどの綺麗さでそう声を掛けてくるお嬢様に、僕は視線を向けることもできず、足元の地面ばかりを見ていた。

 


 お嬢様は自転車の荷台に、足を揃えて座る。

 僕は、お嬢様の手と気配を背中に感じながら、満開の桜の中、ペタルを踏み込んだ。

 速度が速くなるにつれて、自転車は安定感が増していく。

 安定して自転車が走り出すと、お嬢様は僕の背中に置いてた手を離す。

 そして、僕に話しかけてくる。


「来年度からは師範学校です。

 寮に入りますから、もうこうして迎えに来てもらうこともできなくなりますね」

「お嬢様は師範学校を目指されていたのですか?」

 尋常小学校を卒業するとき、進学先のない僕は周りの進学話に耳をふさいでいたから、身近にいるようでもこんな事も知らなかった。僕は、その過去を埋めるために、改めてそう聞いた

 それに、今の僕の境遇では、お嬢様と雑談程度でも話すことなどできはしない。

 ただ今だけ、自転車に2人で乗っているときだけは、他から隔絶した僕とお嬢様だけの世界だった。


「ええ、女性が安定した職を得ようとするならば、教職は絶対ですから。それに、学費が無料ですしね。

 師範学校は中学を卒業してからか、高等小学校を卒業してからでないと入れません。

 私は女子で中学には行けませんし、この町の女子高等学校は去年から新設されましたから、私の入学には間に合いませんでした……」

「……先生は、お嬢様の学費に困るようなことはないと思っていましたが……」

 僕の言葉は歯切れ悪く、とつおいつ吐き出され、言い終えることなく周囲の風に溶けた。


「学費はいくらあってもいいのです。

 父の元には3人の書生がいます。

 内務省の制度改革で、これから3年の間に合格できなかった書生は、医師への道が閉ざされます。

 私にかかる学費がなければ、お父様も1人以上、2人くらいまでなら将来の道を探せるのではないでしょうか」

 僕は絶句した。


 僕は、書生の中でも1番の歳下だ。

 つまり、お嬢様は僕のために、学費が無料の師範学校へ行こうとしているのかもしれない。

 その考えは、僕に高揚と申し訳なさの2つの感情を強いた。


「それは、本当に申し訳な……」

「内藤、あの人は、たぶん、医術開業試験を通らないでしょう。

 でも、あの人はお年寄り優しくできて、子供にも好かれるいい人ですからね。医師が無理でも、看護とかで道が見つかると良いと思います」

 ……僕のためじゃないんだ。


 内藤は、僕より5つ歳上の先輩だ。

 8つ歳上の山ノ内先輩は、今年の試験で合格するだろうと思われている。それはもう、しゃかりきに勉強しているからだ。

 でも、内藤先輩は多分無理だろう。それは僕でもわかる。いい人なんだけど、いわゆるキレはない。

 でも、お嬢様、内藤のことを気にかけているのか……。


 意味のない、まったくもって意味のないことだけど、僕はさらにがっかりしていた。山ノ内先輩なら歳の差はあるとは言え、お嬢様の相手としてまだ諦めもつく。

 でも、内藤がお嬢様を……。


 お嬢様のアルトの声は続いた。

「ということなので正人さん、つまりあなたは、3年で医術開業試験を通らねばなりません。

 あなたならできる、私はそう思っています」

「……なぜ、僕ならばできると?」

 僕の問いに、背中越しのお嬢様の返答は一瞬遅れた。


「さぁ、わかりません。

 でも、正人さん、あなたならできると思ったのです」

 お嬢様は僕を買ってくれている。

 お嬢様のその応えに、僕の足は、いつもの3倍のスピードだって出せるほど力に満ち満ちていた。

 でも、そんなことはしない。

 家に着いてしまったら、お嬢様との話の機会も終わる。

 少しでも、この時間を伸ばしたい。そう思うからだ。


「医術開業試験の受験資格は、1年半以上の修学履歴です。年齢制限はありません。

 正人さんはもう、受験資格があるのですよ」

 僕が息苦しいのは、自転車を漕いでいるからじゃない。高揚感のあまり、だ。


 医術開業試験は、前期は「物理学、化学、解剖学、生理学」が、後期は「外科学、内科学、薬物学、眼科学、産科学、臨床実験」が課せられる。

 先生の蔵書を見ることができるとはいえ、尋常小学校の4年しか教育を受けていない僕にはあまりに高い敷居だ。

 そもそも英語でもドイツ語でも、外国の蔵書など、僕には表紙ですらまったく読めない。

 でも、お嬢様がそう言ってくれるのだから、僕が頑張りさえすれば、合格できるのかもしれない。


「お嬢様、僕は……、僕は本当に3年で試験に合格できるでしょうか……」

「私できると思っています。

 簡単じゃないとは思いますけれど、正人さんならば……」

 ……もしも、もしも合格できたら、僕は再び雅子お嬢様を雅子ちゃんと呼べる日が来るかもしれない。

 いや、3年後ともなれば、雅子さんと呼ばなければいけないのかもしれないけれど。


「お嬢様、僕、がんばりますっ」

「私は、5年後に師範学校卒業ですね。

 一足先に、正人さんの方が立身できているのですね。うらやましいです。

 私も、子供たちの前に先生として立つ日が来るのが待ち遠しいです」

 僕の声は上ずっていたけれど、お嬢様の声はどこまでも落ち着いていた。



 − − − − − − − −


「雅子、あの時、本当に僕が、3年で合格できると思っていたの?」

「無理だと思っていた。

 だって、実際無理だったじゃない」

 白無垢の角隠しの向こうで、雅子が微笑む。

 年相応に目尻には小皺がある。

 たとえそうだとしても、雅子は美しかった。


 三三九度の杯を干したあと、披露宴の会場に移動する道すがら、ひそひそと話す。

 結婚の話が固まって、ここまできて、ようやく私は雅子にこれを聞く勇気が湧いたのだ。

 窓の外で満開の桜が、いつぞやのことをくっきりと思い出させたというのもある。


「でも、この歳になってこんなことになるなんて、な」

「よくもまぁ、正人さん、医者になれたものだと思う」

 雅子のアルトの声はあの時と変わらない。

「それはあの時を契機に、必死で勉強していた時期があったからだよ」

 私はそう答える。


 私は、必死で勉強したけれど、あまりに3年という準備期間は短かった。

 私は秀才ではあっても、天才ではない。16歳で開業医になるなんて、さすがに無理だ。

 当然のように、試験には落ちた。


 山ノ内さんは合格したけれど、その後の戦争で軍艦に軍医として乗り組み、艦と運命を共にした。

 内藤さんも、南方で同じく儚いことになった。

 私は、衛生兵、従軍看護士として前線を生きのび、外地限定医師免許を取得した。その後、選衡試験で内地でも有効な医師免許を得ることができたのだ。

 さすがに準備期間が長かったから、割りと余裕だったと言っていい。

 それに外科的な処置は、多すぎるほどの数をこなしていた。


 雅子は戦争の足音が近づく世相の中、教職の身で浮いた話も流れようがなく、一生このままかもなどと覚悟をしていたらしい。


 東藤先生は、山ノ内さんを雅子の婿と考えていたらしく、戦死の報にがっくりきていたのだけれど、私というスペアが有効になって大喜びをした。東藤医院の跡継ぎができたということなのだから、喜ばないわけがない。

 雅子との縁談話も、そのままの流れで誰が言い出したわけでもないのに、とんとん拍子に進んだ。


 東藤医院は、今や町で唯一の医院ではなくなったけれど、それでも地域からの信頼は絶大なものがある。

 雅子の教え子も数多いから、披露宴の規模はこの町では最大規模となっている。

 これほどの祝福を受けられるとは、私は未だに信じられなかった。


「合格するとは思っていなかったのに、じゃ、なぜ、あの自転車の荷台で雅子はあんなことを言ったんだい?」

 私は、話を蒸し返す。

「あの頃から、正人さんが好きだったから」

 私は、天にも舞い上がる気分になった。

 今までの、すべての苦労と絶望が報われた気がした。


「それなら、本当に嬉しい」

 私の応えに、雅子はぺろっと小さく舌を出した。

 こういうところは、尋常小学校の頃から変わらない。

「なんていうのは、嘘。

 14歳の私に、恋なんてわかるわけないじゃない」

「じゃあ……、なんで?」

 私の声は、動揺をわかりやすく露呈して、少し上ずっていたかもしれない。


「でもね、なぜか予感だけはあったのよ」

 ……予感か。

 それなら私にもあった。

 自分のことを僕と呼んでいた時代から時間は流れた。

 でも、その予感だけは私にもあったのだ。


「高齢出産ぎりぎりになっちゃってますが、よろしくお願いいたします」

「ああ、僕たちの子供には、医大を出てもらいたいな」

 僕の先走った返答に、雅子は笑った。

「『僕』だなんて。

 一気に20年くらい、時が巻き戻った気がする」

「いいじゃないか。

 式の間、窓から見える桜に、その頃の気持に戻っていたよ、僕は」

「ええ、私も」

 披露宴の会場に着いた。

 またしばらくは、雅子と話すことはできない。

 でも、もう、僕たちにはたくさん時間がある。それが未だに信じられないほど嬉しい。



「せんせいーっ、せんせいーっ」

 黄色い声が響いているのが、扉越しに聞こえる。

 雅子の教え子の子供たちなのだろう。

 その声は、これからの僕たちの未来の幸せを象徴しているかのようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

昔日の夢 林海 @komirin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ