第4話 泥試合前夜2
*
あの日もいつものように、平穏な学校生活。
翌日は毎年恒例の泥試合があるから、全校生徒で噴水の水を組み、校庭をぬかるみにして準備を進めていた。
「ワレサ。今、何杯運んだ?」
「九杯」
「えっ? もうそんなに? 僕、まだ三杯しか運んでない」
「いいよ。あとで、おまえのぶんも手伝ってやるから」
「うん」
一人バケツ十杯というノルマをあたえられ、少年たちが噴水と校庭の往復をくりかえす。もちろん、なかにはサボっている者もいるだろうが、ワレサは優等生を演じている手前、まじめに働いていた。ルーシサスは生まれつき虚弱なので、こういうときにムリはさせられない。
「ほら、いっしょに持とう」
自分のバケツを片手に持ちなおし、もう一方の手でルーシサスのバケツをにぎる。
「いいよ。ワレサ」
「重いんだろ?」
「でも、君が……」
ゴチャゴチャ話していると、うしろから声がかかる。
「お姫様たちには荷が重いかな。どいてろよ。グズ」
ル・マルタン伯爵の子息ベルナールだ。貴族の子弟ばかりが集まる騎士学校だからこそ、身分の上下は歴然としている。公爵家は皇族の系統だ。つまり、貴族のなかでは侯爵がもっとも位が高い。伯爵はその下なのだが、ベルナールは一族の長であるラ・ギヴォワール侯爵家の
ルーシサスは伯爵家の跡取り息子。ワレサはその従者だから、圧倒的にむこうが上だ。からかわれるのはシャクだが、ここで逆らうのは利口じゃない。
わきによけてやりすごすと、ふんっと鼻をならして、ベルナールは通りすぎていった。
本人のあとを何人も腰ぎんちゃくがついていく。クリストフ、パトリック、ドニ。三人ともベルナールの親戚すじの男爵や子爵家の子息だ。
子どものころからずっと、ああやって一族の長になる少年の機嫌をとって、大変なことだ。
ワレサは内心、彼らのそうした権勢争いをバカにしていた。もちろん宮廷貴族と生まれたからには大事なことだ。だからと言って、鼻持ちならないワガママ令息に年がら年中つきあっていては、いいかげん、イヤになる。
ほんとは、ルーシサスだって宮廷貴族だ。大勢の友人を作って人脈を得ておくことは重要だ。
ルーシサスは女の子のように華奢で、ユイラではきわめてめずらしいプラチナブロンド。お人形のように可愛らしい少年だ。友達になりたいと望んでいる者は多いだろう。
じっさい、ワレサがアウティグル伯爵家にひきとられるまでは、たくさんの友達がいた。でも、今、それらとはほとんど、つきあいがない。
ワレサがそうさせたからだ。
「おれはこの一杯で終わりだから、おまえのぶんもやっといてやるよ。さきに部屋に帰って休んでろ。おまえはちょっとムリすると熱だすんだからな」
「う、うん……」
「でもいいな? おれが離れてるからって、わかってるよな?」
「うん。君以外の誰とも口をきかない」
「それでいい」
可愛い小鳥。
綺麗なレモンイエローのカナリアだ。
でも、その小鳥は今、ワレサ以外の誰にも歌声を聞かせない。
いつまで、こんなことを続けていられるのだろう?
でも、止められないのだ。ルーシサスがほかの誰かと笑っているだけで、胸が引き裂かれそうな気がする。
泥試合前になると、毎年、妄想する。ルーシサスが純白の大将の衣装を着ているところを。そして、その真っ白な服に泥をなげる自分を。
ただし、ルーシサスを汚していいのはワレサだけだ。ほかの誰にも、それをゆるさない。誰が来ても、守りとおすと誓う。
そんなゆがんだ妄想を。
ワレサがルーシサスと別れて、一人でせっせと水を運んでいたときだ。急に校庭のほうが、にぎやかになった。
行ってみれば、何人かが泥に入ってふざけあっている。そうなるともう止められない。ほかの少年たちもマントや高価な剣、装飾品をはずし、ベンチに置いて泥玉をなげあった。
まったく、何が楽しいのだろうか?
貴族の子弟なんて、てんで子どもだ。明日になれば、イヤでも泥をかぶらないといけないのに、わざわざ前日に、みずからハマりにいく気持ちが理解できない。
今、近づけば、絶対にまきぞえを食らう。ワレサは警戒して、バケツを持ったまま、もとの噴水にひきかえした。水は校庭わきの大木のもとにまいておく。ほんとはルーシサスのノルマがあと一杯あったが、あれだけ泥だらけになって遊べるのだから、もう水は充分だと考えた。
「ワレサ。君も来いよ。いっしょに遊ぼう」
遠くのほうから、ジェイムズが声をかけてきた。ルーシサスの従兄弟で、以前は毎日のように、アウティグル家に遊びに来ていた。
「いえ。けっこうです。私はルーシサスさまのお勉強相手をしなければなりませんから」
殊勝におじぎをして足早に立ち去る。だから、そのあと起きた盗難事件の発端を、ワレサは見逃してしまった。
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