死神に魅入ったゾンビの話

ミルクココア

第1話 プロローグ

 物心ついた時から奇妙なものが見えていた。

 それが何なのかは全く分からない。さらに、見えているのが自分だけだと分かったのは随分たってからだ。


 全身が影のような色をし、真紅の目をつけている『それ』は、そこにいるだけで危害を加えるようなことはしてこない。何か悪さをするわけでも、人を傷つけるわけでもない。 


 ただそこにいるというだけ。


 初めて見た時は驚いたり、恐怖や嫌悪感を抱いていたけど慣れというものは怖いもので高校生になった今では視界に映っても特に何も感じなくなっていた。


「おっ」


 そんなことを考えていたからか、道路の隅にそれが現れる。全身が影のように黒いのは変わらないが、今回は外見がうさぎのような形を模様している。基本的には人のような形を模様しているが、こうして他の動物の形を模様しているのは珍しい。


「……」


 しかし、特にそいつに用事もない俺は何もなかったように帰路についた。


「ただいま」


 自宅の玄関を開けながら覇気を感じられない声を響かせる。しかし、『おかえり』という返事が返ってくることはない。父親は海外出張で、一人では何もできない父親に母親もついていった。もちろんついてくるかどうか聞かれたけど、面倒という気持ちが勝ってこっちに残ることにした。月に一回電話をするようにという条件をつけられたが、俺は今、夢の一人暮らしを満喫している。




――午後19時30分頃だったろうか。


 あの後テレビを見ながらソファーの上で寝っ転がっていたらいつの間にか眠ってしまい、俺は夕食を買うために夜の住宅街を歩いていた。

 家からコンビニまでの距離はおよそ10分ほど。そのたった10分でさえ、今の俺には面倒でしかなかった。


 夜の住宅街はどこか不気味な雰囲気で、それをより一層強めるかのように生暖かい風が通り抜ける。         


 すると、向かっている方からカツっカツっカツっと、足音が聞こえてきて誰かいると分かって安心する。


「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁ!!!」


 その瞬間、断末魔の叫び声が静寂な住宅街に響く。俺の安心は一瞬にしてかき消され、さっきよりも早いテンポで鼓動を刻む。


「なんだ?今の悲鳴は……」


 叫び声からしてそこまで遠くではない。しかし、街灯が照らす範囲もむなしく何が起こっているのかは分からなかった。


「た、助けてくれえぇぇぇ!!」

「くそっ!!」


 気づけば俺の足は勝手に動いていた。向かっていたのが叫び声が聞こえていた方向に。

 自分なら助けられるとかそう言ったことは微塵も思っていない。でも、俺の足は勝手に動いていた。


「ぎゃあぁぁぁぁ!!」


 走り出してからも叫び声が響いていた。段々とその声が近くなっているということは、もう少しということだろう。


「だ、大丈夫ですか?」


 その予想通り、倒れている人を発見した。身長170センチくらいの男性で、スーツ姿のところを見るとおそらく仕事帰りだろう。うつぶせで倒れていたので、仰向けにしようとお腹のところを触った瞬間、温かくて妙に粘性のある液体が手にまとわりつく。


「これって……」


 答えは分かっていた。でも、自分の目で確認をしたかった。


 心のどこかで自分の予想が外れてほしいと思っているのだろう。しかし、その希望は直ぐに打ち砕かれる。


――赤い手。少し黒が混ぜ込まれたような赤い手が俺の視界を支配した。


 正直に言って、頭がおかしくなりそうだった。しかし、ギリギリのところで持ちこたえた俺はとりあえず警察に連絡をしようとポケットに入れておいたスマホを取り出す。


「えっと……110番か」


 たった三桁の数字を打つだけなのに、手の震えが止まらずまともに打つことができなかった。


「うわっ!」


 その瞬間、右手に持っていたスマホめがけて何かが飛んできた。スマホは右手から離れ、道路の端まで滑っていく。


 右手に当たった感触には覚えがあった。猫や犬の毛とは違う独特な感触。吸い込まれるような、それでいて柔らかくない感触は俺が見えている影の色をした奇妙なやつだ。


「……」


 目を凝らしてよく見てみると、闇夜を泳ぐように動く何かがいることに気が付いた。

 そして俺は大きく息を吸い込んで心を落ち着かせ、スマホと倒れている男性を放って走り出した


(ここからだと家よりもあの公園方が近い)


 そう。俺は逃げ出した。警察への連絡もせず、殺された男性に軽く触れただけで結局何もしないまま、ただ自分が助かるために逃げ出した。


 叫び声を聞いて走り出した時は『助けたい』という感情があったはずなのに。救いたいという正義感があったはずなのに。


 俺は夢中で逃げた。脇目も降らず夢中に走って、走って、走って――


「えっ?」


――俺は突然倒れた。何かにつまづいて転んだのではなく、急に前に進めなくなった。

 

 上半身だけが前に行き、下半身がついていかなかったような感じだ。


 恐る恐る振り返ってみると、俺の右足は膝から下が無くなっていた。


「ぎゃああぁぁぁぁぁぁ!!!お、俺の足がぁぁぁぁぁぁ!!」


 俺はさっきの男性に引けを取らないほどの叫び声をあげた。痛みと恐怖が最高潮にまで高められた絶叫が、静寂な住宅街を包み込む。


 傷口は古いノコギリで切られたような断面で、尋常じゃないほどの血が流れ、赤い水溜まりができるほどだった。


 何とか力を振り絞って身体を起こす。すると、目の前には俺の右足を骨ごと食らっている犬の形を模した『何か』がいた。


「……」 


 そして、全て平らげた後「何かした?」と言わんばかりに小首をかしげ、赤い瞳をこちらに向ける。その無機質な表情が、かえって俺の恐怖心をあおる。心臓の鼓動が今まで以上に小刻みになり、一音一音が全身に響き渡るほど大きくなる。


 ひたひたとゆっくりと近づいてくる姿はもはや死神にしか見えなかった。足音が大きくなっていくのに比例して、自分が死に近づいていくのを実感する。


(そう言えば……結局こいつらって何だったんだろうな) 


 もはや痛みを気にしている場合ではなかった。俺は再び、真っ暗な空を見上げて今まで過ごしてきた日々を思い出す。


(大した人生送ってこなかったな。有名になったわけでもないし、何か誇るものがあるわけじゃない)


 もっとこうすればよかった。こうしておけばよかったと、いまさら後悔をし始める。


(ああ……もっと生きていたかったな)


 最後に心の中でそう呟き、諦めを示すように瞳を閉じようとしたその時。


 力強く空気を切る音を響かせながら、巨大な大鎌が飛んできてそれが目の前にいた犬の首を撥ねる。そして、まだ勢いが残っている大鎌はコンクリートの地面を易々と抉り、そのまま突き刺さってしまった。


 首を切られた犬は身体が無数の黒い玉となって、そのまま透けていくようにして消えていった。


(なんだ……?何が起こった?)


 出血量的にも、俺の命はそう長くなかった。段々と呼吸が苦しくなってきて視界もぼやけ始める。頭を働かそうにも、断片的にしか今の状況を把握できなかった。


(鎌が飛んできて、それが犬を仕留めて……それで……)


 もう意識を保つのは限界だった。全身が雪で覆われているかのように冷たく、視界はどんどんぼやけて半分は真っ黒い世界が映るだけだった。


「珍しいですね。普通の人間がここまで正確に視ることができるなんて」

(誰だ……?誰かいるのか?)


 淡泊で無機質な声が聞こえ、ぼやける視界に人影が映る。しかし、それがどんな人かどうかまでは分からない。ただ人がいるということだけは把握できた。


「まだ生きているのは好都合でしたね。自分の運の良さを誇った方がいいですよ」

(こいつはいったい……何を言っているんだ?)

「いちおう私の声が聞こえるくらいには力が残っているそうですが、自分の名前を言う力は残っていますか?残っているならあなたの名前を教えてください」


 さっきと何も変わらない無機質な声で淡々と話を進める。いつ死んでもおかしくない状態の人間に聞くことがそれかと怒鳴りたい気持ちが高まるが、俺の口は勝手に開いて最後の力を振り絞るようにして声を出した。


鷺沢さぎざわ……拓巳たくみ……」


 もはや条件反射に近かった。他のことを考えられるほど頭が回らず、尋ねられたことに対して反射的に答えただけだった。


「……」


――そして俺はゆっくりと瞳を閉じた。

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