#28 ひとりの人間として
研究所の異常はすぐに嫁たちにも伝わった。
足の筋を伸ばし、股関節を柔らかくする柔軟体操。鼻から吸って鼻から吐いて――その時、控え目なノックの音が聞こえた。
拳をほんの少し、軽くぶつけたような音。はたしてそんな音とともに訪ねてくる人などいただろうか。首を捻ると、やっとのことで音の主が顔を出した。
同じ『嫁』としてこの研究所にやって来た少女、
「ユイちゃん、訊きたいことがあるんだけど……」
「何?」
部屋へ入るよう促すと、コトニは少し気後れしたように視線を
「あのね、さっきシロちゃんの部屋に行ってきたんだけど、シロちゃん、いなくて。図書館にもいなかったから、ひょっとしたら誰かの部屋にいるのかなって思ったんだけど……」
「シロちゃんならここにはいないわよ」
「んー、そっか。……さっきムツキちゃんのところにも行ってきたんだけど、いなかったんだよね」
「トモミさんは?」
「折り返すって言われちゃった。忙しいみたい」
朝ご飯、食べるかなぁと独り言ちるコトニ。それを横目に、ユイは爪先を掴んで身体を倒した。縮こまっていた筋肉が伸びる。
「二人はいつも違うメニューだものね。ひょっとしたら、別室で食べているのかも」
「でも、それなら連絡の一つくらいあってもよくない? 病気してないといいけど……」
コトニはユイのベッドに腰掛けると、そのまま背を崩してしまった。
昨晩、件の少女は世話役の女性と過ごすと言っていた。ここ数日、不言コトニに半ば独占されている状態だったから、ということもあるのだろう。コトニは渋い顔をしながらも了承していたのを思い出す。
「ムツキちゃんは何か言ってた?」
「特には……。いつも通りパソコンに向かってたよ」
「そう」
「そー」
ユイは連絡用にと支給されたタブレットを立ち上げる。
電子時計は早くも九時を指そうとしている。
「……そんなに心配?」
憂いげな横顔に声を掛けると、寸分の間なく是の声が返ってくる。
「シロちゃんは友達だもん! 両性具有とか、そういうことの前に――というか、別の方向で大事。ひとりの人間として彼女のことは大事に思ってるよ。ユイちゃんはそうじゃないの?」
「私は金のためにこの事業に参加した。それだけよ」
きっぱりと、凛然と、そう唱える。しかしコトニには見破られているのか、どこか呆れ顔だ。
「前も言ってたね、それ。あれだけシロちゃんとイチャイチャしておいて、まだ変わらないの?」
「イチャイチャなんてしてない」
「してたじゃん! 思わせぶりに手なんて握っちゃってさ。ほんっとユイちゃんってば頑固!」
ばん、と布団を叩いてコトニが跳ね上がる。
実際のところ、ユイには全く心当たりがなかった。
シロとはほとんど接点を持っていないし、何よりもシロ自身がユイを拒んでいる節があった。
そのような状態でイチャイチャなどできるはずがないのだが――と内心首を傾げるが、きっとそれを口に出したところで火に油であろう。いくらユイとて、友人の機敏を察せずにはいられない。
「きっと今は会いたい気分じゃないんでしょう。放っておきましょ」
「む……そんなこと言ったって」
心配なんだもん、とコトニは下唇を突き出して俯いてしまう。
コトニが言わんとしていることも分かる。
シロは日本国有数の精子の持ち主、しかも希少種の両性具有。彼女が失われた時の損失は、きっと金額では表せまい。そうでなくとも、コトニは三人の嫁の中で最もシロとの親交を持つ人物だ。心配でないはずがない。
「ユイちゃんは心配じゃないの、シロちゃんのこと」
「別に」
「別にって――ちょっと冷たくない? あのねぇ、ユイちゃん。シロちゃんだって人間なんだよ? ちょっとぐらい気にかけるとかさぁ、そういうのできないわけ?」
「寒空の下で寝たことのない人間を、『人間』とは認めないわ」
物心がついてからというもの、ユイは隙間風の吹き抜ける小さな家屋で暮らしていた。
兄弟はいない。親と祖父母と叔母の計六人で、細々と配給食を
寒く氷ついた世界では、ほとんどの仕事が意味をなさない。インフラも生産も全てが牛歩の進みであり、同時に
仕事に就いて金を得る。
旧時代には当たり前とされていたらしい仕組みは、今やエリートにのみ許された贅沢だ。足が速いだけのユイは、エリートではなかった。
シュン、と空気の抜ける音とともに戸が開く。
現れたのは同じ立場の少女だ。
二人静ムツキ。エリートの座に容易についてみせるであろう少女が、ユイは苦手だった。同時にひどく憎たらしくもあった。
「ノックくらいして」――そう文句を口にするが、少女が気にする様子はなく、ひらりと小さな紙を振った。
「女子会はそこら辺にして、諸君、探偵ごっこでもしようじゃないか」
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