#29 ストーカー養成所
あ、いらっしゃい――そう嬉しそうに出迎えてくれる声はなく、そこにあるのはだだっ広い部屋だけだった。
ピンクのベッド、積み木やぬいぐるみが収められたおもちゃ箱、本棚には絵本ばかりが並ぶ。床に敷かれた短毛の
子供部屋。最初に抱いた感想はそれだった。
「……何度来ても異常ね」
第二次性徴期まっただ中の十三歳。
多感な時期でありながら、件の少女はひどく幼かった。
ものを知らず、反発を知らず、言葉を覚えたばかりの子供のように親の後をついてまわる。
はたしてその人懐っこさは元来のものなのか、それとも教育の賜物なのか。縹ユイには後者にしか思えなかった。
「シロちゃん、やっぱりいないね。洗面所もあまり濡れてないし、朝の時点でいなかったのかも」
「あー、シロ氏、起きてすぐ顔洗うタイプだっけ?」
「そー」
シロのルーティンを把握しているコトニとムツキ、という図式にいささか寒気を覚えるが、今回に限っては心強い。そう言い聞かせなければ同期の異常性を受け入れられなかった。ここはストーカー養成所ではない。
「考えられるのは夜の間――夕食を取ってから起床時間の七時になるまでの間にいなくなった、ッスね」
「シロちゃん、勝手に部屋を出られなかったよね。どうやって外に出たんだろう」
「正確には出られるんスよ。ただ、扉から出られないというだけで」
「どういうこと?」
「ベランダ」
ムツキ曰く、会合初日に開かれた歓迎パーティーにシロを招待する際、経路として仕様したのがベランダであるという。
シロの部屋からベランダに至る扉は内側――シロの部屋側から鍵が掛けられている。ゆえに彼女が自らの意思で鍵を開けることは可能だ。
裏話を聞いた時、ユイの脳にあったのは苛立ちにも似た呆れだった。
「そんな危ない方法で連れて来たの?」
「ムツキちゃん、それはよくないよ」
据わった目でじっとりと睨めつければ、ムツキは深い溜息を吐いた。
「この部屋から連れ出しただけでも大手柄でしょーよ。ここがどこか分かってます? 優生遺伝子保持保管研究所ッスよ、国家機密の集まる場所。セキュリティバリ高に決まってるじゃないッスか」
部屋からろくに出たことのない少女をベランダから連れ去る。
いくら二階分の高さとはいえ、落ちたらただでは済まないだろう。もう済んでしまったことだから、今さら何を言っても仕方ないのだが。
ユイは溜息とともに首を振った。
「あれは確かに意外だったわ。あなたがシロちゃんの世話をできたこともね」
「喧嘩売ってるんスか? はは、あんな介護、『世話』に入らねぇよ。まあユイ氏は後でシバくとして、シロちゃんが内側からベランダの鍵を開けられることは確かなんスよ。つまり、シロちゃんが自ら望んで外に出た――その可能性は度外視できない」
「なんで外に出たんだろう。外の空気が吸いたかったのかな?」
「そこなんスよね。推測するに、シロちゃんはこの部屋から出ることを教えられていなかった可能性が高い。自ら願ってベランダに出たとは考えにくいんスよ。出なければいけない何か――そうだな、誰かが倒れていたとか、そういう緊急性がないと」
曰く、シロはベランダに出ることを渋った。たった一枚の扉を開き、たった一歩を踏み出すことすら。
ユイたちと出会う以前のシロのことは知らない。おそらくは、世話係の言うことを素直に聞いてきたのだろう。ゆえに小さな一歩にすら罪悪感を見せた。
第二次性徴期に差し当たれば反骨心が出てきてもおかしくないのだが、シロの様子を見る限り、その兆候は微塵たりとも存在しない。
反骨も反発も、あの少女の辞書には記されていないのだ。あるいはその方法すら知らないかもしれない。
育つ環境が違うだけでこれほどの差が出るのか。ユイは一人、身震いをしたものである。
「まさか、誘拐?」
「八割方そうでしょうね。ベランダにおびき出してそのまま連れ去った、もしくはベランダから侵入してベランダから連れ出した。この研究所、ガバセキュリティに見えて難易度ルナティックなんで、外部から誘拐犯がやって来たとは考えにくいんスよ」
「えっと、こういう時なんて言うんだっけ。……日本語でおけ?」
「日本語ッスよ。まあ、侵入者の線はほぼないものと考えていいってことが分かればいい」
「ほえ……」
ぽやぽやと思考を飛ばすコトニ。その頭を小突くムツキは、おもむろにベランダに出ると景色を一望した。
シロの部屋は広大な庭に面している。『植物園』が正式名称なのだが、シロに影響されてか、嫁たちの間では『庭』の名称が流通しているようだ。
およそ四五〇〇〇平方メートル――かつて存在したという東京ドーム一つ分の面積――を有する広大な土地には、厳重な温度管理のもと、日本に自生する植物の大半が植えられているという。
四季の温度と湿度も再現しているというが、真偽のほどは定かではない。
「木を伝って庭に降りることもできそうね」
「まー、できるでしょうけど、あの子がやるかってところッスね」
「侮りすぎじゃない?」
「勃起のさせ方もしらない子が、木登りを知っていると思います?」
「…………」
比べるベクトルがあまりにも違うために反応に困るが、説得力がありすぎる。
シロは無垢だ。ようやくものを覚え始めた赤子に等しい。そうなるよう意図して育てられたのか、それとも異常な環境ゆえの弊害なのか。
読み書きもろくにできず、平仮名の手紙を音読することにすら苦労していた彼女は、果たしてどこまで知恵が回るのか。
義務教育も情操教育も、国が推奨する性教育も全てを正常に履修してきたユイにとって、あの少女はイレギュラーであり未知であった。
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