5日目、最期の日

#27 執着

 その日、研究所はひっくり返っていた。


 検体の少女が姿を消した。


 それだけではない。優生遺伝子保持保管研究所の研究区エリアに侵入者があったのである。


 突発的に起きた二つの事象に因果関係がないとは言い切れず、むしろその逆と睨むべきだろう。それは鴨ノ羽トモミが共有せずともほとんどの職員が察していたし、そのように動いていた。


 もう十分もすれば日本国軍が到着する。軍が到着すれば、たった数人の侵入者などすぐに制圧できるだろう。


 弾丸の嵐を巻き起こして、木っ端みじんに。あるいは日頃のストレスを解消するために追い立てるかもしれない。非人道的とされたキツネ狩りのように。侵入者さえ排除できれば、件の少女もいずれ見つかるに違いない。


 いずれにせよ、トモミの仕事は軍隊が到着するまでだ。


 茶を淹れて、空調の効いた快適な空間で書籍をめくっていても解決する。しかしトモミのその余裕はなかった。彼女の脳を支配するのは、たった一つだ。


「マイクロチップは」


「駄目です、反応しません」


「バイタルも取得できず、か。……クソ」


 希少種『両性具有』の少女――『シロ』。居場所はおろか安否すら確認できていない。


 彼女の部屋にはそもそも鍵が掛かっているし、自らの意思で外出などできるはずがない。彼女が部屋から出るためには、何者かの手助けが必要なのである。


 かといって夜間――トモミの知らぬ間に訪問者があったかと問われると否と答えるよりほかなく。シロは忽然こつぜんと消えてしまった。まるで幻想のように。


「昨晩十時から今朝七時の間の監視カメラを洗い直して。シロちゃんの部屋を始点に経路を絞れば、大した手間ではないでしょう」


 可能性があるとすればデータの改竄かいざんだ。


 幸か不幸か、その者の特定は用意であった。研究所内のネットワークを使用できる環境下にある者。類まれなる頭脳で、孤児から国母にまで押し上がろうとする少女が。


 あり得ない話ではない。


 爪をさらに噛むトモミの視界に、一つのモニターが目に入る。


 シロの部屋の前に三人の少女が佇んでいた。シロに与えられた母体三名が様子を窺いに来たようだ。大方、朝食の席に現れないことを不思議に思ったのだろう。その中の一人をトモミは見上げる。


 二人静ムツキ。『頭脳』という点で遺伝子の暫定ざんていを受けた娘。あの少女は、以前から反人工生殖主義者との繋がりが疑われていた。


 人と人が出会い、自然に子を成し、子を育てる、過去の文明――いや、ある意味原始的な生殖を是とする者たち、それが反人工生殖主義者であった。


 彼らの主張はこの世の主義と反する。その主義を、いち個人が胸に抱く分にはまだよい。しかし徒党を成して、あまつさえ『今の文化』を壊そうというのだから、トモミは以前より警戒視をしていた。


 それでもなお放っておいたのは、他でもない、両性具有の少女が件の少女を気に入っているからであった。


「サイバー班は引き続き侵入者を追って。それから、言うまでもないと思うけど、監視カメラの不審な点がないかの確認も――」


「室長、警備班の出動準備、完了しました」


「直ちに出動。侵入者を捕縛、場合によっては射殺して」


 監視カメラには立ち上る黒煙と、廊下を駆ける数人の侵入者。


 事態は混乱を極めていた。


 両性具有『シロ』の失踪に始まり、数人の侵入者。もはや襲撃者と称しても過言ではないかもしれない。一介の国民が研究所に用があるはずもなく、目的は精子かそれとも情報か、はたまたその両方か。


「私は警備担当じゃないのに……あのクソ上司、肥えるだけ肥えて脳のしわの一つも増やしやない。典型的なクズ。なんでああいうのが生まれたのか」


 歯の間で爪が割れる。


 あの娘が「綺麗だ」と褒めてくれた薄桃色のネイルが。


 すっかりボロボロになってしまった爪を一瞥いちべつして、トモミは再び壁一面に飾られたモニターに直る。


「……種なら取ってあるし、万一があっても代わりはいる。大丈夫、大丈夫」


 幾度となく唱えても胸の霧は晴れず、重く冷たい不安ばかりが募る。


 これを人は、執着と呼ぶ。

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